Thursday, November 26, 2009

A言語のメカニズム D、認知言語学と行動生理学 15表情

 言語が何らかの意志伝達意欲を充足させるための行為であるのなら、パロールにおいてはとりわけ伝達内容を他者へ伝達させたいわけだから、最小距離の演算処理方法を模索する数学的思考、システム工学的思考とも相同な、最も効果的で最も表現しやすく、最も他者が理解しやすい内容の示し方を模索する瞬時の行為と言えよう。その際にそれを伝える他者の性格、知性、階級性を考慮に入れた社会人としての配慮(社会的地位とか年齢とか)に関しては周到な用意を持って臨むというのが我々の慣用的欲求である。最小距離での演算処理技術が、他者選択、あの人にこんなことを伝えても仕方ない、訝られるか、拒否されるに決まっている、拒否遭遇など予め回避しておくのが得策だ、ということを実践している。我々は自己というものを何の疑いもなく持っている積りだが、他者、他者に対する全く異なった自己像をその都度示しているのである。まさに自己というもののシニフィエとして、自己というものの性格のシーニュとして。我々はだから他者性というものを考える時、統一されていないのに統一したがり、そうせざるを得ない自己同一的身体の保持者としてのサインを自己に送り込むのである。レヴィナスが顔にこだわったのもそこにある。顔は表情を伴うものである。真意表出表情、偽装的表情、演技的表情、偽装解除表情とか色々考えられるも、皆表出されている意味では最も大きな自己像の表現であり、顔は最も真意、偽装も含めたそういうスタンスを有効に示す表明装置である。
 古典的名作の中に登場する幾多のヒーローたち、悲運のヒロインたちの表情を読み取る為だけに我々は作品世界に接してきたと言っても過言ではない。ロミオを見つめるジュリエット、チュンサンを見つめるユジン、そういった架空の人物ばかりではない、源義経を見つめる静御前、ジョン・レノンを見つめるヨーコ・オノetc 私たちは言葉の背後に多くの表情を読み取ってきた。それは表情こそが最も雄弁な言語であり、それを示し、愛する者へのいとおしみ、敵対する者に対して憎しみの表情をあらわすことで我々はいかに多くを語ってきたか、を我々自身が知っている。表情を示すことはそれだけで最も雄弁かつ直裁かつ有効な言語行為である。ガロワが愛する女性との一件で他の男と決闘する為に生きて戻れないことを覚悟で書いた論文が、今日代数学の基礎として知られる「群論」であること、それも決闘の死後数十年たってから評価されたことはあまりにも有名である。ガロワがどのような表情であれを書いたのか、シェークスピアがどのような表情で、ああいった名作群を書いたのか、ということは作家を志した人間なら一度は想像したのではなかろうか?しかしそういった想像を可能にするのは、現実においてそういう荘厳かつ流麗な表情を見るという経験が極めて稀である、という事実である。
 フロイトの表情を見ていると、妻と妻の妹との間の不倫関係において苦悩する一人の壮年男の表情が、これがあの有名なフロイトなのか、という思いと、ちょっと見方を変えるとどこにでもいそうなうらぶれた壮年男、という両方の思いが去来する。フロイトと2年だけしか生年が変らなかったフッサールはやはりフロイト同様ユダヤ・アイデンティティーであるが、フロイトと同じくブレンターノの講義を受けていたのか、という興味と同時に、どこかフロイトとも共通する敗北意識の濃厚に漂う表情が曰く印象的ではないだろうか?これだけの業績を残して我々の時代へと橋渡ししてきたこの男たちのすがすがしくはない、この陰鬱な表情は何なのか、というとに興味を持たない人間がいたら、彼らの思想の極々一面だけをしか見ていないということさえ言い得るような表情たちである。
 ここに一同に偉大な業績を後世に残した先達たちの表情を羅列してみるととても興味深い。政治家、経済学者、画家、音楽家、詩人、俳優、物理学者、心理学者、言語学者、実業家、ギャング、ダンサー、ストリッパー、医師、社会福祉事業家、平和運動家、反戦フォーク歌手、独裁者、政治家や実業家を裏で動かした女性たちetc。どのような立場の先達であれ、そこに刻まれた皺や独自の表情は何かを訴えかけている。後輩テスラーとの確執でも有名なエヂソンの表情には、猜疑心と功名心の入り混じった裁判沙汰に明け暮れた自我意識の強烈な人間像が読み取れるし、「わだば日本のゴッホになる。」と言って上京し、幾多の「板画」と自分で称する名作を世にはなった棟方志功の表情からは逆に自意識も過剰な筈なのに、どこかふっきれた天真爛漫な幼児のようなそれを読み取れる。アインシュタインとディズニーとポール・マッカートニーにどこか似た表情を読み取るのは私だけであろうか?
 偉大な論文を残した人間が同時に殺人とかの大きな罪を犯したとしよう。(実際そういう先達も何人かいた。)その論文自体の価値はそのことで本来下がってゆくものではないし、そうであってはならない。しかしそういう運命を辿ってゆくものもある。逆にどんなに若くして世に出て、社会的地位としては立派なものを築いたとしても、凡庸で再考の価値すらないものなら即刻我々はその人間の仕事から退散すべきである。しかし逆にいつまでも幅を利かせていることも稀ではない。(そういうものは後世には残らないけれど。)言語行為が人間という厄介な存在によって育まれている以上、そういった不条理はつきものである。言語行為の論理的正当性と倫理的正当性というものは相反する場合も多い。一つの言辞はそのこと自体では何の価値も何の意味も生じさせないが、どのような場所で、どのような態度で、どのような表情で、どのような文脈で語るかによって価値も意味も大きく左右される。政治家はそういうことに関してどのような職業の人間よりも骨身に沁みて理解している筈である。今日においては人命を司る医師などにもその種の労苦はつきまとおう。表情自体を論究したものは筆者の「表情の言語哲学」(同ブロガー「表情とは何か」において掲載更新中。)の方を参照して頂きたいが、本論ではその表情が言語行為にどのような相関性を有しているかを主軸に考察してみたい。
 
 パソコンは我々の日常を大きく利便性の渦中に巻き込む道具だけではなく、最早表情を持った言語活動のための自然である。パソコンでデータ保存をするためにフロッピーを入れたままで、保存後それを取り出さずに起動させ立ち上げようとすると、パソコンはかつてフロッピーを入れて起動させるのが構造上のシステムであったために、そのシステム上の記憶が残っており、その記憶に忠実にかつてのやり方で起動させようとするものだから、現行のシステムとの選択躊躇をきたし、なかなか思うように起動してくれない。まるで、かつての恋人が、現在の恋人と一緒にいる現場に現れた時の、私たちのような気持ちになるのであろう。(今の彼女にどういう風に昔の彼女を紹介しようかとどぎまぎする。)
 メルロ・ポンティーが幻影肢のことを実例に挙げてパブロフ的な刺激に対する反応という身体システムを批判し、当時の現行のゲシュタルト心理学や連合主義を同一の誤りを持っているものとしてやはり批判した彼の哲学的深化段階はつとに有名である。今日メルロ・ポンティーの哲学は多く顧みられなくなった、とドゥルーズも憂慮していたが、メルロ・ポンティーの命題を今日的に解析してみると、パソコンの前システムの記憶と類似した事情を身体に見ることが出来る。身体記憶は大脳によるものでもあり、大脳による我々の身体の各部位への信号でもある。大脳にも表情がある、というのが本論の考えである。
 昔あった手が何らかの不慮の事故によって失った後も、そこにまだあるかの如き、例えば痒みのようなものを感じとることは、実際は大脳がその失った部位への命令を完全には止めずに、指令を出している、ということである。大脳による指令は例えば亡くなった肉親の表情とか、飼っていたペットの表情とかの海馬記憶の場合もあれば、こういった実際の自己身体への指令、命令系統的記憶もある。
 先にちょっと触れたが我々は「いつもだったらどうということもなく思い出せるのにあれ何だっけ?」と言うその時々の記憶庫に対する返答を即座に得られないことに対して、その時そういう引き出し行為の調子がいいか悪いかという状態や、つまりその内容(今日は冴えている、とか血の巡りが悪いとかの状態によって引き起こされる)だけ我々は覚醒出来るのである。例えば車の調子が悪いとボンネットを開けてエンジンの具合を見るようには、大脳の調子を見ることは出来ない。もしそういうことが出来るなら、今はなくなってしまった手とか足とかの感覚を指令出すことを止めさせることも可能かも知れない。しかし大脳の指令に従ってその感覚を知覚することに甘んじなければならない。もどかしいから、そういうことを考えるのを止めようとエポケーを決め込む。そして全然違うことを考え、別の作業に熱中しだしたら、面白いように全てを思い出せた、ということは日常よく我々が体験し得ることではなかろうか?なぜこのようなことが起こるのであろうか?
 我々が何かを思い出そうとしている時には大概眉間に皺を寄せ、静かに息を吐き、呼吸を整えて、腹に力をいれて、小さな唸り声を上げていたりしないだろうか?この時に身体上にかかるエネルギーの負担とその生理学的機能状態を考えてみよう。
 何かを思い巡らす時、とりわけ緊張している時には我々平常人の脳からはベータ波が放出される。これが心配事があったり、複雑な作業をしている時には最も高い数値となる。一般的にアルファー波よりも我々はベータ波の方が数値的には高い、とされる。しかし何かに没頭している時には今度はアルファー波の数値が高くなる。没頭している時ばかりではなく、平静心で、忘我的状態においても同様である。これは自我滅却状態とでも言えばよいのか、兎に角瞑想したり(パソコンの画面に向かっているような状態とは正反対の状態である。)心を落ち着け心身が統一されたような状態である。ところがこのどちらもそう長く続けられない。時々交換する必要がある。アルファー波持続状態とは、認知症患者の状態に近い。しかしこのベータ波が高い状態を続け、「何だっけ?あの名前は!」というような忘却状態の時、一端そのことを追求するにを止めて、別のこと(ゲームをしたり、ケータイでメールを打ったり、インターネット・サーフィンをしたりとかの)熱中することにすると、今度はベータ波が下がり、アルファー波が徐々に上がってゆく。しかしそれも何時までも長く続けると疲労感が溜まりだす。それで再びそれを中断する。するとぱっと「ああ、こうだったか。」と忘れていたものの名前が思い出される。一事中断していた記憶の回路が再び繋がったわけである。この切り替えに何か秘密がありそうである。

 その前にちょっと考えてみておく必要のある事項がある。
 人間が500万年位前に猿から分岐していった頃、最も猿たちと違っていたのは、顔で示される表情のサインだったのではないだろうか?人間には他の類人猿(霊長類のすべても含めて)とは比較にならないほどの、複雑に表情を作り出すことが出来る表情筋を持っている。その柔らかく弾力に富んだ筋肉は他個体とのコミュニケーションを頻繁にとるためにそういう風に進化したのだろうか?それとも偶然そのように筋肉が発達したおかげで我々は複雑な表情を示すことが出来るようになり、コミュニケーションを発達させたのであろうか?
 一つ言える確かなことは表情を作ること、複雑な感情を表わすことは言語的な認識、喜怒哀楽、その中でも微妙な感情的なニュアンスの違いを認識するという能力が表情を作り出す前になければ、そのような筋肉を使って他者へサインとして送るような行為そのものが成立しようがない、ということである。勿論筋肉がそのような複雑な形状を可能にする機能を備えることになったからこそ、我々はそういう複雑な表情を、能力を発揮出来る場として実践し得るわけだが、そもそもそういうサインを送ろうという意欲を持たなければ、そういう便利な筋肉を使用して表情というサインを作り出そうという行為が生じない、ということだけは確かなように思われる。モティヴェーションがまずあって、それを実践しようとする過程で、我々自身がいつの間にか顔の筋肉を使ってそれを動かす(と言ったって、我々自身のことを考えると、決して意識してそれをしているわけではないのだが)ということを身に付けた、と考えるのが自然である。それが慣用化され、長い時間をかけて殆んど無意識の所作として定着しだすと、それが出来なかった個体はコミュニケーションを巧く他個体ほど活用出来ずに、いざという時の対応や即座の共同体的サヴァイヴァル判断力において脱落してゆき、やがてそういう能力が種全体の一般的な行為として遺伝子レヴェルでも徐々に初期人類とは違った変異をきたしながらいつしか定着を見、環境や他者との相関的なかかわりにおいて、生後すぐに発現してゆくような今の姿になった、と考えられる。
 養老孟司によれば人間は3万5千年から4万年このかた骨は変っていないのだそうである。するとそこに盛られていたあらゆる臓器、とりわけ大脳もさほどその時点からは変化していない、と考えてそう間違いはあるまい。すると猿から人間が分岐して行った時点とされる500万年前から496万年の間にそういうことが徐々に起こって行った、ということなのだろう。
 大脳レヴェルでのそのような意思表示システムが発生してゆく過程で、すでに脳波のシステムも同時に発展していったと考えられるから、脳波自体の別種活動による切り替えは、言語による動詞と名詞との切り替えや、何か褒美を貰って喜び勇んでいた人間が同時に、その時誰かから肉親の死とかの悲しい知らせを聞かされて、さっきまでの嬉しい表情をさっと変えて沈んだ表情になる切り替えとどこかで関連性がある、と捉えても不自然ではない。何か長い行為のあと急に別種の別性質の行為に切り替えたその瞬間的な衝動から、今の今まで忘れていたことを思い出すという事態を日常我々は経験するわけだが、そのことは感情(と表情)の切り替えともどうも関係がありそうである。
 本論(メディアと特権階級的私物化の欲求)において、メールによって平静心を保ち、インターネット・サーフィンによってそれを掻き乱すと言ったが、それはメールあるいはワードと言ってもよいが、これらがどんなにスピーディーに行われてもそれらが自己による創造的行為であるから、平静心を保つことが出来るのだが、インターネットによる情報の享受は明らかに受身的なものである。なぜならインターネットでキャッチする情報はキャッチされる迄は如何なる性質のものであっても、未知でありその未知の情報に対する好奇こそがそれを追う、しかも如何に膨大な量の情報から的確にキャッチ出来るかを自己の能力をフルに活かしてクリックし続けるのだから、よく言われる中毒症状をきたす危険性さえ孕む全くメールやワードとは別種のパソコン作業である。恐らくその熱中時の脳波も流出ホルモンも差異が見られるのではないか?そしてこの別種の行為を時々切り替えると能率が上がるとい側面は誰しも否めまい。
 また(意味と概念、ビジネス)において同じ過去形の文章を動詞的叙述と名詞的叙述とで比較対照したが、名詞による事後報告言辞は明らかに形式的であり、動詞の時のような再現前化の配慮よりも、他者の勝手な想像へと委ねる知らん振りを決め込む作用を持っていた、と考えられる。明らかに最初に示した動詞表現の方が相手に対して状況を理解しやすく示した言辞である、と思われる。その点再現前化的配慮に欠ける後者は明らかに他者を突っ放し、客観的な言辞に徹している為に、話者の聴者に対する好意は感じられないし、またそれでよい、というあの飲食店のマスターが太った客の過剰な注文を警告せずに注文通りに差し出す態度である。この二つのスタンス、とりわけ話者のそれはそれを発話する時の脳波も、流出されるホルモンも状態的にきっと異なっているにちがいない、と思われる。しかもそれを語る時の表情、一つ前の例で言えばパソコンに向かっている時の受動的なインターネット画像、文字情報キャッチの時の表情も際立った差異があると思われる。インターネット・サーフィン中は殆んどテレビ・ゲームやゲーム・ソフト時の生理、心理、身体的、特に大脳における特有な集中型であろう。この別種の行為の切り替えによる表情の変化こそ、本論の趣旨とするところである。結論的に言えば行為、表情が切り替わる時の大脳の変化、勿論その指令を出すのが大脳であるにもかかわらず、行為自体を身体的に実践した時に大脳自体にそのことで直接もたらされる刺激が言語活動自体を司る機能と、記憶の作用とにいかに影響を与えているかは、その切り替えシステムに内在する質的転換が大きければ大きいほど大きいというものである。そしてそのことが立証されれば我々の記憶というものの実質や、言語行為の本質がおぼろげながら理解出来るように思われるのである。そしてそれは言語行為の中でも名詞と動詞の使い分けによる、やはり典型的な切り替え作業において日々小型モデルとして実践されている、ということである。

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