Thursday, October 29, 2009

D言語、行為、選択/11、意味と概念の連結と<仮託>

 コミュニケーションは他者性による自己実現であり、つまり他者を通して自己の姿を知ることであり、自己の中の他者性(他者にとっての自己の存在理由)の相互の確認である。(そうすることで、自己にとっての他者の意味もはっきりしてくる。)そしてコミュニケーションは自己が他者をそのコミュニケーション・パートナーとして選択することと、他者がそうすることの一致であり、同意でもある。だからあるコミュニケーション・パートナーを選択することとは、必然的にそのコミュニケーションの性格や内容を選択することでもあるのである。画家にとっての画家同士、画商、コレクター、批評家との対話には自ずとその性格も内容も異なってくる。被告にとっての弁護士、検事、裁判官とか、テレビ・ディレクターにとってのプロデューサー、スポンサー、出演者、視聴者とか、官房長官にとっての首相、大臣たち、マスコミ関係者たち、党執行部とかも皆そうである。
 「コミュニケーションの意味」とはどのようなものでも、何らかのかたちで、「概念から意味への探索の旅」であり、概念が事物や対象に対する知識をもって成立するものであるなら、「コミュニケーションの意味」とはその概念の平明さと一律的な価値の打破(そのために[相互の<意味の表出>]がなされる。)、自己と他者との意味上の同意(重複領域の確認)へのプロセスである。実際的でありながらコミュニケーション初期はその内容が抽象的なのはあくまでコミュニケーション時の相互の意味から<仮託>された概念のもたらす常套性ゆえであり、その常套性からの離脱、脱却が具体性と現実性への獲得となるのである。だからフッサールやウィトゲンシュタインが到達した地点から我々はコミュニケーションを捉えさえすればよいのである。フッサールが捉えた規範、基礎付け、本質直観、動機付け、といった初期概念(それらはまさに今我々が語っている概念である。)から間主観性、他我、異なるものといった概念もウィトゲンシュタインの独我論(中期)、規則、慣習(後期)といった概念も皆言語活動を誘発したり(F)、発せられた(W)こと自体に内在する前提条件であり、現象でもあった。フッサールのア・プリオリはあくまで現象であったし、そこに至るまでの道のりにはデカルト、ロック、ヒューム、カントらがいたし、ウィトゲンシュタインには他にパース、ジェームスらがいたし、二人には共通してベンサム、ミル親子、ダーウィン、スペンサーらも大きく関与している。そこに西田幾多郎の一元的統一論が西欧近代哲学史的批評学として絡んでくる。西田は主客、自己と他者、自己の身体と自然、善行為と愛が一致すべき地点に哲学的位置を求めた。フッサールが内在と超越と二元的に捉えながらも何処かで現象学的に、形相学的に還元し余分な学や規範概念(神をも含む。)を遮断することで、しかも独自の本質直観を通して全体的統一を図ったことと西田は何処かでリンクする。
 <仮託>の自覚は他者性の非免疫に対する相互の配慮なのだし、<仮託>の返上こそが信頼の構築であり、<仮託>を通してしかその喜捨はなされ得ないわけだから、初期段階からの<仮託>のないコミュニケーションの選択とは信頼構築の可能性に対する放棄でもあるのである。しかも<仮託>はとりわけ信頼の回復には常に役に立ち、再出発の契機ともなるから、我々はそこに立ち帰ることを常に潔しともするのだ。概念はその一元性と不変性において、言語共同体を運営してゆくのに大きく貢献する。意味は個的に多様であり、そこには論理を逸脱する部分を見出せる。しかし論理的部分も同時に失ってはいず、意味の論理、非論理の両義的存在様態が概念の論理的一元性を希求さしむるのだ。概念という一元的論理が意味の不可解を理解するための方策として常に求められることが、一見すべての概念を意味に先行するア・プリオリな論理と化すわけだが、概念の論理的一元性はあくまで全ての意味の最大公約数としてある不動点に落ち着いただけのことであり、意味より概念の方をこそ変更してゆくべき代物なのだ。しかし概念の方からの意味への呪縛がしばしば我々を本末転倒的な原則論主義へと転落させる。だから我々が行為を選択することにおいて、行為の意味を失い概念化した時、我々は行為に対して主観を持てない、責任を放棄すると言うに等しいのである。行為は主体的な責任ある、意味を伴ったものとして追認されるべきものとして認識すべきなのであって、行為をしている最中は行為の認識を出来ないからと言って、一切を責任転嫁することは許されない。行為の選択(主体的な責任あるものとして)はすでに行為する段には内的レヴェルで執り行われているのである。しかもその責任とは行為が概念に沿ったものでもあるような、意味から概念への接近、概念に沿わない意味は意味ではないという意味から、ある行為を遂行することが言語による説明責任(アカウンタビリティー)を有すことが出来るようなものでなければならないのだ。
 あなたが「赤い林檎」について語ろうとする時、あなたが見た赤い林檎を私や他の人は知らない。見たこともないそのあなたが見た赤い林檎を赤い林檎として理解するのは「赤い林檎」という概念によってであって、そこに私は私なりの「赤い林檎」をイメージし、他の人は他の人なりにイメージし、それはあなたが見た赤いりんごとも微妙に異なった全く別個の赤い林檎でありながら、それはどれも紛れもなく同じ赤い林檎なのである。赤い林檎の概念が我々の会話、対話の一切を結びつける。その概念はさまざまの意味の多様な広がりを予感させるものであるが、それらは全く一個の概念によって創出されたさまざまの赤い林檎であるよりは、「赤い林檎」と発言することにより、各個の異なった赤い林檎たちを一個の集合へと結びつける、その場限りではあるにせよ、我々をその言葉、赤い林檎によって結びつけるための場となるのだ。「赤い林檎」はだから、そのように発せられることにより初めて各個の異なった赤い林檎を結びつけるということとなる。コミュニケーションが成立するのは各個が発信者の言った「赤い林檎」を連想し始めた時からである。最初にあなたが言った「赤い林檎」という謂いが私の脳裏に一個の具体的な赤い林檎像を現出させる。それを私はあなたが言った「赤い林檎」という概念へと近づける。その時私はあなたが言った「赤い林檎」という概念と赤い林檎の意味を結びつけて、その「赤い林檎」を含むあなたの言辞を理解しようとするし、それがコミュニケーションの原型となるのだ。
 あなたが「赤い林檎」と発するとき、その赤い林檎を我々は勝手に想像して赤い林檎をイメージするが、我々はその時あなたがいう赤い林檎、見て触って食べたその赤い林檎をあなたが今我々の眼前に持ってきでもしない限り我々はそれを確かめようもないのだから、我々があなたの我々に伝えたい当の赤い林檎を我々自身の勝手な(それはそれぞれ皆正しい。なぜならあなたが「赤い林檎」と概念規定しているのだから。だからあなたは何も「赤い林檎」でなしに、「赤っぽいオレンジ色の林檎」とでも表現していても良かったのだ。)想像でイメージして補っているわけである。我々はだから一見あなたの発した「赤い林檎」というその語彙に特殊な力を感じてしまうのだが、実際はそうではなく、あなたが見て触って食べた林檎をたまたまあなたが選んだ「赤い林檎」という語彙表現,形容語彙を通して伝えようと発する(音声で)あなたが選択したその当の行為が我々に各異なった自分なりの赤い林檎のイメージを抱かしめるのである。だから私がイメージする「赤い林檎」があなたが皆に伝えたいイメージと著しく異なっている場合(それを確認しようはないが)、あなたの選んだ語彙や表現、音声の発し方すべてが絡んだあなたの伝え方が適切でなかっただけのことである。概念規定することとは、だからあらゆる連想を許す場を与えることに等しいのだから、あなたが見て触って食べた個別で唯一の赤い林檎は皆の前で、「赤い林檎」と発せられたその瞬間からある一個の概念として、その場の共有財産となるわけである。だが「赤い林檎」と言う表現が適切であることより、そこから無限の連想を生じさしめることの方が重要であるなら、最初の赤い林檎の正体如何とは大した問題ではない場合もある。もし最初の赤い林檎自体が一番重要であるなら、その形容の仕方、語彙選択、伝え方(発声方法や語調とかの)も細心の注意を払わねばならない。曖昧なまま語彙選択すると、明確なイメージ像現出の目的とは異なったコミュニケーションの形態となる。前者は話の契機を摑むことを目的としており、後者は真実の伝達を目的としている。
 意味の限定をもたらす後者は一見、意味の曖昧な概念規定よりも意味的多様性を少なくしかもたらさないようだが、事実は逆で、意味は寧ろ暈すことの方がよりイメージを限定し(前者)そこにあるものが一般論、概念規定的常套性のみになるのである。
 我々はだからこう定義しよう。意味の多様の理解は概念の限定によって寧ろ促進され、意味の多様はある限定された概念規定をする発話という行為によって作られる(連想の多様を促進するのには意味が限定されている必要がある)、と。だから「林檎」よりも「赤い林檎」の方がより豊かな連想を育むし、「捥ぎたての赤い林檎」の方が更にイメージ像創出に貢献するのである。

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