Thursday, October 15, 2009

A言語のメカニズム/B制度の誕生 8、制度と言語

 今度は暫く制度というものの中での言語というものを考えてみよう。我々は自分の専門以外の分野に関しては、その自分にとって未知の分野のエクスパートの書いた文章とか本で接してその世界の現実を知る。その読むべき文章や本の著者がその分野のエクスパートであり、ある権威ある機関とか大学とか法人に属しているということが、とりわけその分野について興味を持ち始める時の予備知識を得る為には必要とされる。実際は必ずしも世間的な評価を得ているものばかりが正しかったり、重要な真理を述べているとは限らないにもかかわらず、初歩的段階においては非権威的、反権力的志向のものを回避しておこう、というのが常套的取っ掛かかり方法である、と言えよう。勿論いつまでもそこにのみ寄り掛かってその分野に接して行こうとも思わないが、ある種の反権威的志向性は、かなり自己の中でその分野自体の様相とか実態とかに精通してきてから持とうというのが、一般的なやり方というものである。つまり権威的ヴィジョンは恒久的な概念ではないが、一応の敬意を払って初期段階は接しておこう、というのは極自然な認識方法である。この時我々は専門分野の概念とは、一般社会の概念とは異なり、専門家同士にしかわからない会話をする一群の人々の中で通用するものなので、それを我々一般の素人にもわかりやすく解説したものを初歩的入門書として選ぶ。権威とはどこにでも普通にいる庶民的感覚にのみ依拠したようなものでは駄目で、専門家同士で認知されたもののみを指すが、同時にそれを専門家同士にしかわからないやり方で、我々に伝えてもらっても理解しようがない、というのが一般的な専門外の人々の抱くイメージである。制度はここで立ちはだかる。
 権威が権威として君臨するためには、その権威の渦中にいる人々が権威ある集団で認知され、かつその認知されているということが、権威ある人々やその当人からも我々に対してよく伝達されている、ということで成立する。たとえ権威ある人々にとってよく知られている専門家でも、一般的な認知度のないものは決して権威ある存在とは言えない。そういう優秀な人々とは、実は予想外に多いものなのだが、そういった人々の存在は、その世界に精通した人間以外の人々にとっては何らの権威にもならない。つまり権威は制度的な認知度というものを要求するのである。結婚がたった紙切れ一枚のものであるのに、実際上は本気で愛し合う未婚のカップル(サルトルとボーボワールのような関係も指す)よりも法的、権利主張的効力は発揮する。言語が概念としての効力、全ての成員における個別的意味の世界を充分に咀嚼して尚、その多様な裾野の拡がりを敢えて無視するかに如き<制限主義的に意味論的多様を封じ込める>作用は社会機能維持の上で重要な役割を果たすのだ。だからこそ、未婚のカップルよりも婚姻関係を結んだカップルの方がより社会的認知度があり、制度的に遵守されたものとして権威を持つし、また専門分野における専門家の世間的信頼も多く勝ち取る。それは意味の世界でよりも、概念的規定の世界での認知ということである。言語はそれ自体制度的認知の選択を個人に強いるものである。
 我々はどんなに反権威的に振舞おうとも、実際上全く権威や制度的現実を無視しては生きられない。そのよい証拠が言語共同体による同一言語使用の個々の存在であるところ共同体成員の選択である。もし反権威を貫くなら、自己にのみ理解出来る一切の他者に対して通用しない言語を使用することが最たる行為であろう。しかし実際上そのような行為は成立させることは困難で、実際実践したら精神科に診察して貰うように勧められるだけである。言語行為がそもそも制度的現実と一応の権威を認知することと対応して営まれているということがここでも理解されよう。

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