Wednesday, October 7, 2009

B名詞と動詞 4、記憶想起における願望による歪曲と生理的欲求に歪曲される想起内容や真意の所在

 しかし我々はそこにある動的な映像に払われる明確なイメージだけではなく、明らかにどっちにしようかという選択に関する苦悩を持つこともあるし(記憶の不鮮明)、その際動的なイメージ像と同時に、概念提示的な、理想定義的(忘却した場合こうであった筈だ、という)な映像を想起させる。嫌なことを思い出す時は想起自体に偽装性が生じる。するとそこに明らかに、「こうであったと思いたい」という願望が過去事実の記憶の映像を歪曲させる。しかし名詞は「あいつ何て名前だったっけ?」というようにその人物の名前を忘却した場合以外では名詞の記憶錯誤とは殆どないように思われる(勿論忘れていた名前に関して少し似たニュアンスで想起することはあるが、少し違うと誰しもそう思う)。事実誤認という記憶の不確実性は明らかに人の名前とかの固有名詞以外では概念規定的名辞といった名詞性をも絡ませつつ、動的イメージの試行錯誤(「どんな感じだったっけ?」というような映像記憶)を持つことの方がより多いとさえ言い得る。そのような一気に選択すること(想起もまた記憶事項の選択である)の躊躇と逡巡こそが、意外と我々の日常には多く、その際の思惟や反省は明らかに、ネガティヴな発想、最悪のケースも想定に入れておかねばならない、という心理も働いている。良い結果を齎したいと願う心理によって我々は事後的な事実を忘却した場合事実以上に巧くいったと願う心理で事実以上に良いように都合よく記憶内容を美化し勝ちである。だがそうそう楽観的に全てが巧くいくとは限るまい、(だからあの時出した試験の回答は余り巧くいかなかったと素直に認めることとかの)という記憶の非歪曲とか、予想はある創造的な未来予持へのステップともなり得る。それは外部的な強制力(他者からの物理的、心理的暴力)からの逃避や忍耐ともまた異なっており、謙虚ということである。だが記憶映像や内容の歪曲とは良い結果を願っている時(応援している体操選手が少々良くない演技であっても他国の選手の名演技よりも良かったと思いたい心理が過去記憶の内容を歪曲する)極々自然に発生する思考と心理のメカニズムである。
 過去事実の自己による記憶的想起においては明らかに想起したい内容(楽しい思い出)は明確に記憶を想起させ、名詞と動詞の織り成す映像内容は陳述しやすい。他者に良い思い出を語る時、それを陳述しやすいのは必然的な事態である。そういった陳述も、その陳述を支える記憶映像も名詞と動詞の関係が明確である。しかし将来の希望となるとそうもゆかない。事実確認的な陳述(オースティンの謂いによればコンステイティヴ)とは異なって、それはオースティンが語るパフォーマティヴとも重なる。要するに宣言的であり、行為遂行的であることとはその映像的な内容を指示することは想像であるから、当然のことながらそれは過去の何らかの実際にあった事実内容とその映像記憶を具体的な素材にしている。そこにはあらゆる過去記憶における意味を願望的内容に結び付け、あるいは願望における内容映像的な要素は明らかに過去の理想的な記憶映像を選択し(例えば将来結婚したいと願う理想の花嫁を過去に見た理想的イメージと重ね合わせて想像するというような)そういった記憶素材を糧に想像上のイメージは作られ、それらはその過去の具体的な映像と不可分で、実際の映像記憶にはある具体的な事物の不動の様相(顔つきや姿形格好)とその時の瞬間固有な動き、状態が名詞と動詞という二つの異なった認識によって観念連合的に一つに統合されている。過去における動詞と名詞の密接なる記憶相互作用こそ、一方向的明確な、将来像のイメージにはない「ある明確さ」がある。そういった明確な記憶とは思い出そうと意識しなくても自然と向こうから想起に現出する。しかしそうではなく、余り思い出したくない事項やそれ程印象的でもなく記憶に留めようとも意識しなかった記憶内容は不明確から明確への移行過程における試行錯誤性があり、それらは、明らかに積極的な意思伝達の場合になされる想起内容とは異なって、意外とその場その場における生理的欲求(食事したい、用を足したい、恋人と長く接していないので会いたいとかの)が左右して想起に歪曲を施しているケースも多く、それは将来に関する願望の陳述もまた必ずしも半永久的とまで言わずとも、ある一定期間を占めるような厳然とした願望的真意(将来こういう職業に就きたいとか、こういう場所に住みたいとかの大まかな)でもなければ、理性的判断による価値論的真意でもない場合が多いからである。拉致監禁されている時に殆ど食事も水も与えられていない時の一口喉に通る水の滴りと同じように、その時々の生理的欲求は将来の長期的願望における真意とは全く別個の内容であり、またそういった極近い将来の願望に心的に関わっている際の想起や記憶映像の引き出しは歪曲している場合も多い。いずれにせよ、動詞の持つある直情的一方向性と名詞の持つ概念定義的安定性とのアンサンブルこそが我々が創造的真意を構築し、思い出したいこととそうでないことを明確にカテゴライズさせ、それが将来へと向けられた願望や想像であれば、より肯定的な過去像を再現したいという潜在的な願望から肯定的記憶を密集させ理想像を現出させる。そうした将来への決意にも似た思念上での映像内容や様相は過去の悪い、否定的な記憶内容を二度と再現させたくないという意志選択行為でもあるから、不測の事態をも物ともしないように心がける賢明なる判断と言えよう。
 ともあれ真意の所在をめぐる、直情的真意に対する懐疑(今便意を催したから今はトイレに行きたいけれど、それまではパソコンでワードをやっていたのだから、トイレで用を足したら直に再開しようと思うこと、つまり今直にやりたいことは真意ではない、という理性的判断。我々はトイレに今行きたくても用を足したらいつまでもトイレにいたいとは願わない)こそが、ちょっと待てよ、という即断に対する躊躇、決行への逡巡が果たす理性論的価値判断である。そしてその際に取り払われる思惟や反省的思考の実相とは明らかに、半動詞的、半名詞的である。責務感情とは名詞によって支配されることも多いと思われる。なぜなら会社に行かねば(勤務)銀行で金を下ろさねば(生活上のルティン・ワーク)といった反復は反省と思惟の瞬間をそう容易には与えないからである。そしてそれはしばしばいつも金を出し入れしている銀行の具体的な映像的記憶である。時間給的現実、社会的責務の重圧は思惟を反省的地平でよりもより名詞的明示及び定義概念履行性へと赴かせる。社会的責務の重圧においては、動詞と名詞の入り混じった総合的な想像思考作用ではなく、与えられた名詞に対して、即動詞で実践し、行為へと転換すべく機械論的、より断続的状況が、動詞と名詞の入り混じる状況よりもより日常を支配しがちである。しかしその中においても尚創意工夫をこらすためにも、生の時間の意義化のためにも、我々はより複雑な想像思考作用を持つべきであると、理性は教えてくれる。それは義務からの解放ではない。義務における意味の発見である。変化のない日常に変化を見出すことである。 
 動詞は意味の充満、具体的状況性と再現前化による過去の再現と体験的状況記憶の想起の構築である。それに対し、名詞は抽象的叙述の形式化と概念による規制である。義務も権利も抽象的な概念だが、より形骸化されたものの中から新たな意味を創出しようと我々は古くから格闘してきてもいる。それは我々が概念を通して具体的なイメージを創出しようと心掛けるからである。概念というノッペラボウから意味ある具体的な世界を構築することが言語的思考であり、意志伝達における発話行為とも言える。

No comments:

Post a Comment