Tuesday, October 27, 2009

A言語のメカニズム 11、言語に対する問いの誕生、社会的偽装

 個々の具体例に入る前にまず言語行為を考察する行為自体の歴史について触れておかねばなるまい。哲学において言語行為、あるいは言語そのものは古代より最重要な事項の一つであったが、秩序ある社会を形成するために法律、道徳的倫理等の概念に対する追究がことに急務として求められてきた(その間には宗教的論争や宗派ごとの攻防があったこととも関係しているが、筆者は歴史家ではないので、古代、中世、近代という区分につきものの歴史学的認識には触れない。)ことが、言語行為自体の考察よりも社会的行為の実践における付随的言語行為という側面にのみ依拠した論究が大半を占めてきたように思われる。デカルト、ヒューム、カントといった先達がその哲学を推進する過程で不可避的に言語の問題に突入せざるを得ない、というのが我々に時代に課せられた課題であるにもかかわらず、フッサール、リッケルトあたりの哲学者に至るまで、言語行為自体は全て暗示的なものに留まっていた、ということも事実である。それをある程度打破したのがウィトゲンシュタインであり、カルナップであったと言うことは出来るだろう。それ以後哲学(主に英米系を中心とした)ではエイヤー、ライル、オースティン、ストローソン、ダメット、チザム、デヴィッドソン、フォーダー、クリプキ、マッギンといった言語行為についての多くの論究者たちが登場したことと、更にフランスを中心とした実存主義以降のラカン、メルロ・ポンティー、レヴィナス、ドゥルーズ、フーコー、デリダといった哲学者たちが構造主義(ソシュール、ヤコブソン、レヴィ・ストロース等の言語学者、人類学者たちをそう呼んだ。)以降の思想界においてポスト世代と呼ばれたことと相まってじきに言語行為自体の検証が世界的波となって、精神分析や心理学といった分野、あるいは遺伝子工学や分子生物学、大脳神経学、行動生理学においても認知言語学や発達心理学的視野とオーヴァーラップしながら発展してきた、という経緯がある。今日言語自体に触れることはようやく一々の前提条件を申し述べることなく可能となっている。
 本論では行動生理学的視点(社会学的、人類学的認識が要求される)ではあるが、言語心理学的視点とオーヴァーラップするかたちで大脳における認知作用と言語学的構造力学とも交えながら考察してゆきたい。その中でもまず言語の問題にいかに哲学者が頭を悩ませてきたかを、具体的例を挙げながら考えて行ってみよう。
 私が先に示した段階的図式(手段→目的→手段)は実際の人類史的真実とも思われるが一個人の、ヒトとしての一個体における個体発生は系統発生を繰り返す、というヘッケル流の謂いを借りてもいいが、そういう個体の歴史、個人の歴史においても相同であり得ると思われる。ことに哲学者がその一生を通じて自らに思想的形態を構築してゆく過程そのものが極めてこの段階的秩序を踏襲している、と思われる。もっとも最初のサヴァイヴァル・サインとしての段階は一足飛びに第二段階に突入していることは言うまでもないが、それ以降の第二段階、第三段階、そしてその後の言語行為再認の段階(まさに我々は今それを実践しているわけだが)においては極めて忠実に彼らは反復しているのである。
 さて我々が他人、つまり日頃親しく交流していない気心の知れない人、初対面の人などから「好きな音楽は何ですか?」というような質問を受けたとしよう。例えば新入社員の合コンとかの場でだとしよう。その時今をときめく若者にも人気のある誰もが知るミュージシャンの名前でないものが好きな場合、一般的に新入社員なら「あまり今ヒットしているものでないちょっとマニアックなものが好きです。」とか「変り種が好きです、カルト的な奴が。」とかいきなり固有名詞を使用せずにそういうお茶を濁した言い方を最初はしよう。そのあとで「じゃあ具体的なアーティストの名前は?」と聞かれると、その質問者の顔色を伺い変った返答をして「それは変ってますね。」とか言いそうもないタイプの人であれば、初めてその時に固有名詞をあげつらうことが多いだろう。真意をいきなり漏らすのは勇気がいるし、とりわけ親しくない初対面の人に対してはそういう予防線を張ることはある意味では当然の行為である。つまり我々はそのような公衆の面前での偽装的振る舞いを知らず知らずに遂行しているのである。本当はそういうことは一切気にする必要もないのかも知れないが、皆が知っているミュージシャンの名前以外は、質問してくる世代の知っていそうもないものならいきなり固有名詞を言わず、寧ろもしそれを言ったとしても「~と言うミュージシャンですけどご存知でしょうか?」とかを付け加えて返答しよう。これらは明らかに我々が日々行っている真意の隠蔽である。
 あるいはこういうことがあるとする。凄く太ったそれこそ座っている椅子が隠れてしまうくらいの肥満な人が飲食店に訪れたとしよう。彼(女)がいくつもメニューを一人で食べるために(普通の人なら一つのメニューで充分な量なのに)注文したとしよう。その人の将来の健康のことを考えるなら「お客さんそんなにいっぺんにご注文なさらない方がいいですよ。」と忠告した方がいいかも知れない。しかし一元の客に対してそういう忠告などまずしないものである。(よく行く行き付けの店で客もマスターも相互に親しい仲ならいざ知らず)この場合店のマスターはただ資本主義の消費者の消費の自由を優先し、個人的見解の表出を抑え、所謂心中では「こんな大食をしていてはろくなことはない。」という真意を隠蔽しているのである。商品を売る立場の人間はポルノや煙草、酒等の成人向けのものに関する未成年に購入に対する規制以外はどういうものを誰が買おうと誰も咎めだてはしないものである。実はその人が買い物依存症で、その人の経済的内情を知る知人かかかりつけのサイコセラピストとかの人がその人の衝動買いを抑える為に常にその人に付いていでもしない限りそういう行為を止める手立ては売る立場の人間にはない。
 つまり社会はそういう多くの偽装性によって消費行為自体に歯止めをかける術をなくす方向に向けられているのである。昔の中世の社会では恐らく階級的差も明確であったろうし、職業も今の時代のようにそう容易には選択出来なかったであろう。だから必然的にある売買の現場に見知らぬ顔が出向くと誰しもが訝しい顔で出迎え、あるイニシエーションが公衆の面前で繰り広げられたであろう。「お前何処から来たのだ?」と言うような。
 勿論現代でも何らかの然るべき資格のない人には容易に売買が出来ないような業界の現場も多数ある。しかしそれでも基本的にはどのような人がどのような買い物をしたとしても別にそのこと自体では咎めだてられはしない、そういう自由な時代である。しかし現代の多くの犯罪がその自由さにあることも否めない。「遊ぶ金欲しさにやった。」という犯人の供述はよく見られる。つまり借金をして犯罪を犯す人間はその借金を容易に出来るシステム自体が産み出したものでもあるのであって、幾らサラリーローンを規制したところで、土竜たたきゲームのようなものであって、自由消費社会という現実が当然の前提である限り、またいつの間にか法の抜け穴を目掛けて復活する、というのが真理であろう。

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