Sunday, October 11, 2009

A言語のメカニズム 6、受容と拒否

 言語は明らかに論理的指向性において、平静な状態においては極めてその構造に忠実にもかかわらず、狼狽、不快、生理的欲求優先時などにおいては非論理的になり、言語構造を通した論理性を失うという差別をする。しかしそれは再び論理的思考を取り戻す為に大脳を休ませ、攻撃的、防御的保守態勢維持において放電、発散することによって論理的秩序状態へと移行するためのエネルギーを蓄積してもいるのである。攻撃、防御という外的対象性へのアプローチは一面では快、平静、論理的秩序といった内的対象性への志向性のための、すなわち「人生」時間獲得のための「生活」時間といっても過言ではない。
 攻撃、防御、保留、留保、中止、断念、阻止、禁止について深く考えてみよう。
 攻撃と禁止は類似している。禁止して抵抗されれば攻撃する。中止もまた禁止に次いで最悪のパターンを回避する工夫に満ちている。しかし攻撃よりも防御に近い。断念は中止よりも未練がましい。留保と保留は大差ない。しかし躊躇において保留の方がより少ないエネルギーしかない。留保の方が躊躇と逡巡介入可能性がある。保留は消極的な留保ののち積極的に非実行を決行することである。阻止は未然の禁止、未然の中止、攻撃に対する未然の防御、被侵入の回避である。
 こういった一連の行為、つまり極自然に受容する行為に比べ、それを躊躇したり、停止したり、阻止したり、敵対したりすること方がより頻繁に執り行なわれる。我々が極自然に受容することも、大抵はその対象が人であったり、行為であっても、最初は慎重にその対象の本質を見際めたり、巧くゆくかじっくり考えたりした結果、大丈夫ということになり、積極的に受容するようになっているだけで、最初から受容してそのまま続行されることは実は極めて少ない、と思われる。もしあまり考えもなしに受容してきたものがあるとすれば、その対象に対しては徐々に受容的姿勢から遠ざかってゆくことも往々にして考えられる(すぐに親しくなった友人は早く交際熱が冷めることが多い)。
 ところで受容と拒否は対概念的行為たちではない。受容とは拒否する必然性がア・プリオリにないか、もしくは最早ないかのいずれかであり、拒否は別のものの受容の宣言であり、それを通したそのものの受容の否定であるから、受容のある特殊な例外的なる一形態ということになる。拒否はあらゆる肯定的思考の停止であり、それが必要のないことの宣言であり、生存戦略的な受容の放棄、という言わばなるべくなら衝突を避ける意味で回避すべきだが、止むを得ない事態でもある。それは選別して適格なものとそうでないものとを区別するような悠長な余裕のない、選択における試行錯誤の停止である。我々はア・ポステリオリな受容を最も多く持ち、次いでア・プリオリな受容とこの拒否の二つをほぼ同じ割合で持つ、と言えはしまいか?拒否とまで行かなくても消極的な受容というものも多く見受けられる。これは積極的肯定の拒否であり、肯定することの完全性への懐疑の宣言である。故にア・プリオリな受容よりもやや多いかも知れない。すると次のような図式が成立する。

1.ア・ポステリオリな受容

       ↓

2.消極的な受容

       ↓

3.ア・プリオリな受容 拒否

<下段へ行くに連れて少ない> 

すると我々は意外とこの二番目の消極的な受容において、拒否と受容の間のバランスをとっていることに気が付く。ア・ポステリオリな受容もア・プリオリな受容も積極的なもの、少なくとも懐疑の消去されるか、もしくは最初から持ち合わせていない事態のものであるが、この消極的な受容こそ、拒否を回避するが、拒否宣言を予告し、その認可を得る行為でもあり、当然の自己防衛権利として付帯してくる懐疑、躊躇、逡巡のエネルギーの明示である。我々はこう言える。1の行為の分量よりも、2と3を足した分量の方が大きい、と。それは寧ろ1を成立させるための基盤である、と言えよう。
 ア・プリオリな受容が全てである状態、しかもそれが後においても継続的に維持される場合、それは理想であるが、実際上はア・ポステリオリの受容こそ最も現実的に多く立ち現れる事態であろう。上の図はあくまで心理的な事態頻度に応じたトップダウン式の概念図式であるが、これは何もア・ポステリオリな受容が下の受容や拒否を命じているのではなく、頻度の大なるものが、日常的に潜在し、無意識のうちに履行している行為について振り返って分析する流儀に従って判断しているのだ。しかしこれを矢印を逆にしたところで、それはそれで矛盾する。なぜならア・プリオリな受容や拒否があるからこそ、消極的な受容やア・ポステリオリな受容がある、とは決して言い切れないからである。ただ積極的な受容でも消極的な受容や拒否でもない,ここでは敢えて入れていないが、所謂受け入れも拒絶もしないような、観察とか第三者的傍観とかがかなりな頻度で我々の日常には介在し(まるでエクソンを発見するために嫌が上でも多く出会わなければならないイントロンのようだ。)、そういったルティンワークが積極的ではあるが、何の躊躇いもなしにすぐさま受容するように見える行為もまた何処かで慎重な選別を無意識的に成しているからこそ成立するのだ、ということである。他者であろうと、事物であろうと積極的な受容は、そういった日頃の対象観察が誘引しているケースが多いと思われる。
 では次節では言語そのものの構造に、こういった受容における頻度階層論的概念図式がそのように影響を与えているかを考察してみよう。

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