Thursday, October 1, 2009

A言語のメカニズム/A、言語を取り巻く思考性と生理学的認識 1、デジタルのアナログ化作用、仮定法、階層性

 言語のメカニズムは明らかに数学的アルゴリズムと相同である。
 自然界を見回してみよう。自然はある一定の法則性によってすべてのシステムを維持しているものの、生命体の場合、あらゆる偶然的要素、遺伝子発現を途中段階で阻止するようなあらゆる不確実要素、突然変異的様相の発生を許す遊びによって満たされている(それは一般には偶有性とも呼ばれている)。あらゆる事象に介在する法則は「こうである筈だ」というシナリオを全てに対して行き渡らせているが、「しかし予定通りに全てが行くとは限らない」という個々の事情を常に抱えてもいる。さて数学はあらゆる法則性とあらゆる偶然的自然の様相を写像出来るが、全く予想を反する未来に起こるべく事象可能性、今現在において認められるような法則をさえ裏切るようなあらゆる事象の変容を可能性として作り出すことが出来、しかもその想像上のシステム独自の法則性さえ我々の論理的秩序において理解可能なものとして構築することが出来る。そのような「あり得ないことや、ものさえもあり得ることととして構築出来る」システムとして数学という秩序は存在する以上、それは言語である。我々の日常言語とは少々赴きが異なるだけで、その構造は全く相同であるような一つのシステムである。
 しかし自然界そのものは常に「こうあるべきだ」とか「こうなる筈だ」という我々が自然から見出した法則性を大きく上回る予測不能な偶然性(個々の事象はなるほど我々の法則的秩序をもって理解可能なのに、それらが複雑に絡まりあう総合的システム自体は常に流動的で、常に次の様相を予測し得ないものである)に支配されている。ということは我々が大きく異なる二つの自然を持っている、ということ、つまり自然(我々自身をも包み込み、我々自身もその構成要素であるところの)と、我々の大脳において論理的秩序としてのみ成立する自然(我々はどんな突拍子もないものでさえ、溜飲を下げられるものと、そうでないものを区分けする)という二つの自然である。
 宇宙、地球、生命全てに漲る物理的法則を持ちながらも、磁極位置の変化、大陸の移動、海の誕生とかの唯一性、一回性に彩られた我々を取り巻く環境の偶然的営み、歴史と、それら一切を大脳によって理解し、数値的なデータを産出し、偶然を必然化し得る能力としての言語、この二つが我々自身の普遍的な二値自然である。言語はあらゆる偶然を必然化し得る、つまり法則的秩序をそこに見出す能力のことである。
 我々の日常言語もまた数値的にも、数式にも置換出来る。言語自体を写像化し得る数学的秩序において。しかし逆に数式や数値的データもまた日常言語に翻訳出来る。そこでこの二つは我々の自然そのものに次ぐ、しかし我々自身が誕生の時よりずっと我々を支えてきた自然の順序としては二つ目だが、それを通して我々が自然そのものさえも認識し得る最初の自然であり(少なくとも物心付いてからは)、自然認知能力としての生の場である。
 だが言語にはある必然的な特色がある。法則的秩序の希求がありしも、それを駆使する当のユーザーは皆法則的な秩序通りには生きてゆけない不完全ではあるものの、だからこそ普遍を求める生命体である、ということである。(きっと動物にも植物にもそれなりの普遍への希求が生命秩序的にも存するのだろう)法則通りにゆかない存在による法則的希求。これが言語という第二の自然を決定付ける特殊状況である。
 コンピューター・システム工学における言語は二進法である。一般的に言えば、通常の我々が使用する日常言語に較べれば恐らくその言語を容易に理解出来ない一般人にとって、その言語はどれも皆一様にデジタルに写ることだろう。あるいは数式を見ると頭がくらくらするようなタイプの人間(かく言う私もその一人である)にとって全て数式はデジタルに見える。だがそういった数式もまたアナログとデジタルは区別して表現出来ると思われる。同様によくある、格式ばった公式文書やある種のマニアルにデジタライズされたものを感じる向きは多いだろう。かといってすべてのデジタルに全く拒否反応を皆が示すかと言えば、かなりの頻度で皆が目にし、すっかり定着したものもまた多く存在する。日常生活は実際、アナログとデジタルの配合システムの場とさえ言える。パソコンもまた二進法的デジタル信号によって作動しているが、我々一般ユーザーによって日常生活に支障をきたさぬ限りで、適度のアナログ性や、比較的理解しやすいデジタル性によってうまい具合に配合されている。この絶妙なバランスが少しでも狂ったらたちまちパソコンも、一般ユーザーから見放されるであろう。これは実際日常言語にも、格式ばった学者の文章にも、歴史に残る名著にも、古代の宗教テクストにも全てに相同なバランスではなかろうか?
 例えばすべてアナログ的感覚に支配されていたとしたら、それはそれで極めて理解しにくい、読み難いものとなるだろうし、全部デジタライズされた言語にのみ依拠していたとしたら、その書かれた内容の分野の専門家でさえ、とっつき難い(尤もちょっと最初忍耐すれば、すぐ慣れるであろうけど)ものとなろう。では一体、我々は何をもってしてアナログと感じ、何を持ってしてデジタルと感じるのであろうか?
 一言で言えば具体的描写を伴ったものを、しかもそれも我々(個々)が日常よく知り得るものを中心に展開する論理をアナログと感じ、抽象的構成と一見未知の分野に感じられるものにおいて我々はデジタルと感じるのではなかろうか?勿論その中には先ほども述べたように、極めてまどろっこしいように感じられるアナログもあれば、極めて親しみやすいデジタルも大いにあり得る。
 現代では親しみやすいデジタルの方がもってまわったアナログより社会の隅々にまで、行き渡っている。しかしそれは極一部のものであり、専門性に裏打ちされたものの多くはすべからくデジタルであり、専門家さえそれを自分なりに理解しやすいアナログに、個々が翻訳しながら利用する、ということが多い。しかしそれは万民にとって理解しやすい為の致し方ない方策である。なぜならある人にとって理解しやすいアナログが、別のある人にとって理解し難い産物であることは、容易に察せられるからである。  
 するとある意味で不特定多数のリーダー(読者)にとって理解しやすくするには、お湯を入れてから解けて食べられるようになるカップ麺のようにコンパクトにデジタライズされている必要がある。
 そういった平明さこそが、デジタライズされたイメージを我々に与える。抽象名詞、しかもどこか万民向けに、しつらえられた理解しやすさによって選別されたそれに、我々はデジタルな信号を読み取るのである。だから逆によいマニュアルとは、万民向けに作られていながらどこか、自分にだけ親しみあるものに感じさせ、しかもデジタルな感覚がありながらも、それがアナログに感じられる(親しみやすいデジタルは、既に万民にとってアナログの一部に取り込まれている)技巧(それを技巧と感じさせない自然さがある)が施されたものをこそ言うのであろう。恐らく言語の歴史ではその種の理解し難さ(その当時デジタルと感じさせた)が徐々に多くの人々に浸透してゆき、遂にはアナログ化した、というような事実が反復されてきたであろう。
 パソコンの言語は、数学や化学、音楽、アートの言語同様に、既成の秩序のみによって構成された体系内の語彙をアナログとしながら、それはおしなべて皆が慣れ親しんだものであり、未知の語彙がもたらされると、その時点で言語領域が拡張され、その新しく拡張された部分にデジタルなものが感じられる。線や面は各別個の点による、要素集合とすることに矛盾があるが、言語は語彙の集合であり、辞書項目的集合である。だから言語領域の拡張は常になされつつあり、例えばパソコンの新しいソフトが発売されると、パソコンの使用領域を更に飛躍的に拡張し、当のパソコン言語自体も、その利便性のあるソフトによって拡張される。
 植物は動物に較べると明らかに単純な構造と反復的な同一要素の集合であり、文化全能性と呼ばれる、もし壊滅的な破壊が部分的にもたらされてもその同一構造の復元が比較的容易であるが、動物にも部分的にはこの文化全能性があるものの、復元は極めて難しい。その代わりに何らかの可塑性が存在するが、唯一性(各臓器等)によって構成されていることは言語に似ている。植物のような存在では語彙的な他の言語全体に影響を与えるような最小単位の独自性(オーキシン等の必要不可欠の蛋白質を除いて)はあまりない。しかし我々の身体同様、言語は一つ一つがある特殊な独自性を有している。
 我々の身体は、ある組織や細胞が別の組織や細胞に影響をおよぼし、将来何になるかという予定を変えさせる現象を「誘導」(シュペーマンが発見)と呼び、目が出来る際に、脳から生じた眼胚が皮膚の外胚葉に水晶体(レンズ)を誘導し、その水晶体はその上にある外胚葉に角膜を誘導する。このように次々と起きる誘導を「誘導連鎖」と呼ぶ。(「人体を探求した科学者」竹内均著、ニュートンプレス社刊を参考にした)それはある階層性によって人体形成が成立していることを示している。言語にもそういった階層性が濃厚に存在する。ある概念はそれよりも先験的に存在する概念によってもたらされて存在している、それを使用する内に、先験的な概念を乗り越え、普遍化するというようなメカニズムも存在し、一見全てが等価のように見えるが、階層的秩序が言語領域、言語集合を拡張してきたことは明らかである。
 ところで言語が先験的に仮定法を含んでいることは、寧ろ数学という言語が何よりも雄弁に物語っている。というのも、ここに例えば「一直線上の一点と接する円、あるいは水平面上に接する球」という概念が与えられたとすると、それはあくまで概念上でのみ存在し、実際は存在し得ない。なぜなら点とは一切の面積を持たないわけだから、その点と接する円や球は、その時点で矛盾をきたすこととなる。つまり実際上はあり得ない事象をあり得ることとして論を進めていく数学はその時点で、仮定法「そういうことがあったとして」という前提を持つわけである。そういう前提が階層的秩序もまた産出してゆくわけである。つまり概念上のある理想的(ということは現実にはあり得ないということであるが)状況設定において、あらゆる可能条件、展開可能性を想定してゆくのが、数学である以上、我々は数学にある種の概念上における公理や定理といった優先順位を措定し、そういった階層的優先順位によって論理的整合性、それは実際には現実には具現化され得ないにもかかわらず、一方ですべての事象が何らかの形でその必然的理想形態を法則性の遵守として体現しているような隅々にまで行き渡った普遍であるが、それを糧に思考を張り巡らせてゆくしかないという現実に、常に我々を引き戻すのである。言語自体が実際これこれこういう言辞だと伝達されやすいということがあるのなら、明らかに理想的言辞、表現における理想価値的形態が言語においても存在している。ある人の言うことには説得力がないのに、別のある人の言い方だと全ての人が納得する、と言うような現実には明らかに言辞、その人の選ぶ語彙や言辞の仕方にある普遍性がある、ということである。その説得力ある人の発する言語が数学的アルゴリズムの精緻なる普遍的真理を有している、ということである。すると言語には数学のある問いを説くための演算上の優先順位があるような意味での階層性がやはり存在しているのだ、ということである。
 言語の階層性とは文法や統語、統辞的な秩序もあるが、それ以前にどういう形態でのコミュニケーションを採用するか、というコミュニケーション・スタンスにおける形態の選択ということが考えられる。言語活動を維持するものは、そのコミュニケーションでの対象たる対話者への感情である。対話者への信頼の程度によって採用される対話のコンテンツが密度あるものとなったり、形骸的となったりという差を生ずる。またその差が育む差は文法上のものであるより、伝達内容の真偽性に対する態度の違いとなって現れる。しかしということは逆に文法上のルールはどういう状態での心理においても普遍である、ということも示している。我々はコミュニケーションにおいて、文法の普遍と態度の非一律という二つの事実に向き合って考えてゆかねばならないのである。またそうすることで、コミュニケーション上の言語活動の本質を抉り出すことも可能となってゆく。 

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