Tuesday, October 13, 2009

C翻弄論 5、恋愛と結婚

 恋愛と結婚は異なることがらである、といつの時代でも言われてきたことである。しかし難しいことには純粋に他者を好きになるということは、そのことで他者に迷惑がかかるのなら問題があるが、好き合っているのなら誰にも恋愛とか友情といったものは阻止することなど出来はしないし、またそうすべきでもない。しかし同時に傍から見ているとよくない人間関係である、「あいつらはつるんでいる。」と揶揄されて然るべきであるという人間関係もあるのかも知れない。しかしそういうことですらどういう立場から見るかによって全く事情は変わってくる。不潔な人間関係であると思われた信頼関係が実際は実に素晴らしい人間関係であるということが了解されるということも我々がしばしば経験してきていることである。
 結婚に関しては子供が誕生する可能性から我々はそれを生活力という面から「結婚すべきか、今はまだ控えるべきか」ということを問いだすと、なかなか結論は出ない。つまり経済力さえあれば生活力は保障されるからいつでも結婚出来るというものでもない。例えば一生経済的には困窮している人々は、では生活力を経済的なレヴェルからだけで判断するとしたら、一生結婚してはならないことになる。結婚と生活力は密接だが異なっている。
 勿論職業的な習慣や人間関係の在り方から異なった職業同士の結婚が巧くゆかないこともあるであろう。しかし全く異なった世界の人間同士だから巧くいっている恋愛関係もあれば、結婚もあるであろう。また恋愛関係として巧くゆくケースが同時に結婚しても尚巧くゆくとも限らないけれど、いつでもそうだというわけではない。
 結婚というものは通常職業以外では、経済力、家風、家柄、といったものがかつては大きな選択基準であった。しかしそれは離婚することが許されないことであるという世間体によって築き上げられた倫理でもあったのである。現代のように比較的離婚が自由で、離婚で得る心的なトラウマさえ克服出来るという人同士では離婚も絶対悪いことであるとは言い切れない。
 また逆に心底愛し合っている者同士を引き裂く理由も見当たらないから、どんなに生活が逼迫していて尚結婚している者同士を咎めることは出来ない。また純粋に好きになった人と結婚したいから経済力とか職業で相手を選ぶべきではない、あるいは年齢の差を問題にすべきではないという恋愛至上主義、結婚動機純粋主義を否定すべき理由もない。それと全く同じ理由によって結婚を人生全体において占める比重から打算的な相互了解をモットーとして性格上の一致可能性とか経済力的なバランスとかいろいろのファクターを綿密に相互に調査して結婚に踏み切ることを功利主義的で許せないと主張することも出来ないし、その理由も見つからない。
 ここでちょっと纏めてみよう。
 結婚に関しては結婚実利主義と、恋愛結婚直結型純粋動機主義(見合いなどとんでもない)という二つが極端なケースとして想定し得る。勿論そのどちらとも言えないゾーンの結婚も恋愛も沢山存在するであろう。しかし取り敢えず両極としてこの二つが考えられる。しかし同時に次のようにも言える。このように何でも二つに分類して二元論的にカテゴライズすること自体が論理分析至上主義からの翻弄である、と。
 しかし一番重要なこととは恋愛も結婚も殆ど衝動的であるだけのものである場合を除いて、長く持続し得るものをこそ歓迎すべきであるのなら打算的なことだけでも長続きはしないし、また同時に純粋な動機だけでも長続きはしないであろう、ということである。だからまさに最後に私が述べた何でも二つに極端に分類すること、それはしばしばマスコミがしてきた扇動主義的な視聴率、購売数、購読者増加のための戦略において採用されてきたキャッチフレーズ(抵抗勢力、造反組、格差社会、再チェレンジ社会、世界同時不況、政権交代)的手法であるが、そのこと自体が一番陥りやすい事態であり、それ自体が翻弄であるということである。
 例えば結婚して子供が生まれたとしよう。最近では生まれた子供を虐待する親も多くなったが、子供の誕生によってそれまであった大人の自由の範囲は狭められる。しかし大人には大人の事情があるから、それを全部犠牲にして子供優先にせよとは言えないが、同時にある程度子供と同居して生活するのなら大人にだけ必要な話題は子供の前では控えるということは最低限、必要な措置であろう。それが絶対我慢出来ないのならそもそも子供を作るべきではない。
 そもそも結婚したら必ず子供を作らなければいけないという風にも私は思わないし、また作らない方が幸せだとも勿論言えない。そうである場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。子供がいなくてもうまくいっている夫婦を私は沢山知っているし、子供がいないことが理由で夫婦別れした人も知っている(例えば子供に先立たれ、子供の死因を巡ってどちらの責任だというような遣り取りが夫婦を決裂させるきっかけとなっているケース)。子供がいても子供に殺される運命にある夫婦もいれば、折角儲けた(儲けたくても儲けられない夫婦もいるのに)子供を殺してしまう夫婦もいる。しかし一番多いのは恐らく子供がいて人生の幸せを獲得している人たちであろう。そういうことがあるから、不妊症に悩む夫婦はその打開策として代理母をアメリカ等で獲得して子供を儲けたりしているケースが最近も話題になったし、また娘が不妊症であるために、どうしても子供が欲しい夫婦が体外受精で娘の母親の子宮を借りて彼女が代理母となって祖母が孫を出産したケースも大いに話題になった。これらは何が何でも「子供が欲しい、なぜならば子供がいれば幸せだから」という価値観が誘引した行為選択である。
 しかし一番重要なことというのは、仮に自然分娩で子供を儲けても、帝王切開で子供を儲けても、代理母を利用して、子供を儲けても、勝負は子供をどういう風に育て上げるかということであり、それは時間がかかることであるし、子供を生むことよりも遥かに精神的には忍耐を要する出来事であると思われる。時間がかかるということもあるが、どういう風に育つかということを予想することが不可能であるということもある。だから出産はどういう形態を採ろうと、それは夫婦のごく初期の決断の一つにしか過ぎないのであって、その後の展開の全てが勝負だということである。(結論、魅力論<後日掲載>を参照されたし)そして幸福感もそこから生じる。
 この問題はこのくらいにして別の問題へと行こう。(代理母制度はやがて日本でも定着するであろう。しかしこの出産方法で一番問題なのはアメリカでも時々問題となるのだが、代理母が十月十日腹を貸してそれを痛めて産んだ子供に愛着が湧くという事態をどうするか、ということである。二人子供にとっての母親がいるという風に子供を幼い頃から教育して、代理母をいつでも暖かく本当の家庭にも招くという形態を採ってその解決策としているケースがアメリカでは多いようだが、実際二度とその夫婦や子供とは交際しないという選択を採っている代理母もいるようである。)
 子供を育てることが長い道のりであるとしたら、夫婦が夫婦の愛を育てるのも長い時間が必要なのかも知れない。夫婦は実際何十年も一緒に暮らしてみて初めて理解し合える部分というものがあるであろう。しかしどうしても一緒にこれ以上暮らすことが相互の幸福にとって支障をきたすのなら、最早夫婦生活に固執することなく、別離することの方が相互への愛に対する真摯な答えである場合もあるだろう。そういう意味で長い結婚生活というものは一面では、日常的な孤独を払拭する意味合いでの話し相手の獲得、性交渉の正当化という面から捉え直すことも可能なのである。持続することは価値であるという価値倫理といったものが厳然と我々の中には根付いているその証拠として結婚を持続することを尊ぶ習慣が我々にはある。しかし形式的に持続しているだけで、それ以上の幸福感がないのなら、別離の道も残されている。しかし離別することそれ自体は多大なるエネルギーを費やすことが多いと思われる。そのエネルギー・ロスを回避する意味で離婚を諦めるということの方が大きいのではないだろうか?結婚はある意味では当人同士の問題以上に周囲の人間関係を構築するための方策としても考えられてきた。それは安定した家庭生活の維持ということとそれに付帯する安定した人間関係の確保が、周囲や社会全体の信頼を勝ち取ることと結びついているからである。しかしその維持がただ形骸的なだけの場合、離婚もまた一つの方策であるという風に近年は大分事情が変わってきた。 
 実際もし恋愛それ自体の純粋さを追求するとすれば、結婚しない方がずっと理想の恋愛をすることは可能かも知れない。事実世界中には名恋愛というものは存在していたし、今でもどこかには存在するだろう。しかし恋愛という行為とその精神は多大な創造性を要求するものであるし、持続もかなり困難なものである。そこで我々は結婚という制度を古くから設定してきたのだ、と言える。この結婚の生活的日常性というものの措定という社会的事実とは実は恋愛の理想性の維持の困難さと恋愛の非日常性によって払われる精神的な不安定に伴う生活レヴェルでのリスク回避から齎された知恵であったのだろう。この結婚とか友情につきものの持続の難しさに対しての言及は第7章において詳しく再び取り上げる積もりである。

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