Sunday, October 18, 2009

C翻弄論 7、<権力と非権力の分化及び性的抑制メカニズム(理性)の進化とその一時的解除>序

 初期人類は狩猟に単身で出掛け、メスと邂逅する時間と機会はその間閉ざされる。しかも長期単身赴任する期間中性欲は抑制される必要性があったであろう。そうでないと狩猟に専念出来ないからである。そこでいったん仕事を終え帰宅すると一気に性欲抑制を解除させ一時的にオスとして機能しないと子孫を繁栄さえることが出来ない。そういったことのための性欲増進機能としてメスの乳房が巨大化した、ということ、つまり性信号説がデズモンド・モリスの説である。(「裸のサル」)例えばそのことを彼はチンパンジーの乳房の合理性、つまりチンパンジーの乳首の方がより赤ん坊の立場にたてば容易に乳を吸える(チンパンジーの乳房は人間のように巨大に膨張していないし、乳首は吸い易い形に、つまり人間の哺乳瓶のような形状をしている。)のに、人間の乳房は赤ん坊のためにのみ考えると明らかに巨大過ぎて赤ん坊を窒息させることにすらつながりかねない、にもかかわらずそういった難点を克服して尚赤ん坊は乳を吸う。これはモリスによれば配偶者たるオスを性的に誘引させること以外の生物学的機能としては考えられないということとなる。この考え方は極めて魅力的であるが、赤ん坊にとって巨大な膨張を来たした形状の乳房を邪魔なものと規定しているところが多少私には物足りない。ここではドーキンスの「騙されていると知りつつも惹かれてゆくような心理」が関係しているのではないか?(結論、魅力論で詳述。後日掲載)なるほど赤ん坊にとってはモリスの言うように機能的にはチンパンジーの乳首の方が優れているかも知れない。しかし乳首が巨大な膨張物の頂点に君臨する様自体は赤ん坊に対してより親近感を与えるという風には考えられないであろうか?けれどもモリスの言うような意味での性的な信号機能という考え方は意外とフロイト的な分析を肯定すれば説得力があるかも知れない。あの口唇期とか肛門期とかの時期的な分類はフロイトの十八番であるが、これはある意味では赤ん坊が幼児期に抱く親近感とは実は大人が持つ性的な欲求の無意識の前状態における発現と捉えることも不可能ではないからである。これは無意識というものをやがては発現される能力は有するが、実際まだ発現前状態である個体において別の親和力的な親近感として現出する、という考えを認める限りで限りなく魅力的である。
(尤も、「人間は顔面頭蓋の縮小ともに、手を的確に使用できるようになって、人類の口裂は狭くなり、やがて、唇、頬が形成された。このことは母親の乳を吸うのに具合よく、まさに哺乳類の名に値するといえよう。一方、体幹が直立するにつれ、母親は子を胸に抱くようになり、乳頭は腹壁よりも胸壁へ移動したものと信ぜられる。このような哺乳活動により、母子の結びつきはいっそう緊密となり、社会の最小単位の形成に寄与するところが大となった。」と、人類学者の香原志勢は述べている<「人類生物学」より>が、この考えによると母親と子の密着の度合いを深める為の選択圧として乳頭の形が頬のない状態では咥え難くなり、その生存本能的な抵抗として、頬の筋肉が強化され、手の発達と同時的に口が小さくなり、その代わりいったん口に入れた食べ物が口から漏れ難くする為に唇が進化した、という競争原理に則った選択圧による愛情欲求促進性という考え方が採用される可能性も十分にあるが。)
 しかしこの説にはまた全く別の角度から反論するかの如き説もある。それはクレーグの実験である。このことはコンラート・ローレンツによって彼の著作「攻撃」で触れられている。ちょっと長いが重要なので引用してみたい。
「次のようなまちがった教義がある。動物も人間もその行動の大半は反応であるけれども、それが生来の要素を含みさえすれば、つねに学習によって変化しうるものだというのだ。このまちがった教義はそもそも、それ自体としては正しい民主主義の諸原理についての誤解のうちに、抜きがたく深く根ざしているのである。これらの民主的原理にとっては、人間が生まれたときからやはりそれほど平等でもないとか、皆が同じような「正当な」やり方で理想的な国民になる見込みがあるわけではないとか、いわば「性に合わない」のだ。(中略)何十年もの間、行動の要素といえば反応や「反射」だけが、おもだった心理学者たちの注意を集めてきたのだった。これに対して動物の行動の「自発性」のほうはいっさい、生気説の立場をとる、いわばやや神がかった自然観察者の専門領域ということになっていたのだった。
 狭い意味での行動学の分野で、この自発性の現象を科学研究の対象にした人といえば、まず第一にウォレス・クレーグの名がある。彼の前にもすでにウィリアム・マクドウーガルが、いわゆる行動主義者と呼ばれるアメリカの心理学者の一派の旗印だったデカルトの、「動物は作用しない、作用されるだけだ」というスローガンに向かって、それよりもはるかに正しい「健康な動物は能動的に活動しているものだ」という彼の闘争宣言を投げつけていた。だがその彼自身、ほかならぬこの自発性を、得体の知れない神秘的な生命力というものの結果と考えていたのだった。それだから、自発的な行動様式が周到に反復するさまを綿密に観察するとか、行動を解き放つ刺激の限界値を連続的に測定するというようなことは思い浮か及ばなかった。これはのちに、彼の弟子のクレーグがなしとげたのである。
 クレーグは雄のジュズカケバトを使って、次のような一連の実験を試みた。ジュズカケバトの雄から雌を遠ざける時間を、段階を追って順に長くしていき、各段階ごとに、雄の求愛行動を引き起こすにたりる対象を、実験的に調べたのである。同種の雌がいなくなった数日後に、雄のジュズカケバトは、これまで見向きもしなかった一羽の白いイエバトの雌に求愛するようになった。それから二、三日すると、はく製の雌ばとの前でおじぎをしたり、クウクウないてみせたりするようになり、さらにのちには、丸めた布切れを相手にし、独房に入れられてから数週間後には、ついに自分がはいっている箱型のかごの、何もないすみへ向かって求愛行動を起こすまでになった。(中略)生物学の立場から見直すと、これらの観察結果は、(中略)ある本能的な行動様式をかなりの期間にわたって停止しておくと、この場合は求愛の行為だが、その本能的な行動様式を引き起す刺激の限界値が下がる、ということである。
(中略)ある行動を解き放つ刺激の限界値が下がって、特殊な場合にはいわばその限界値がゼロに達することがある。それはつまり、事情によってはその本能的運動が、これというはっきりした刺激もないのに「突発する」ことがありうるということだ。
(中略 行動を解き放つ刺激もかなり長い期間にわたって断つと、現われるはずの本能運動が「せきとめ」られる結果、さきほどのように反応しやすくなる。そればかりではない。その結果ははるかに深刻な経過をたどり、生物体全体を巻き添えにしてゆく。原則として、本能運動から今のようなやり方で沈静の可能性を取り上げてしまうと、それが真の本能運動であれば必ず、動物は全体として不安に陥り、その本能運動を解き放つ刺激を探し求めるようになるという特質をもっている。この探すという行動は、もっとも単純な場合には、あちこちと走り、飛び、あるいは泳ぎまわることだが、もっとも複雑な場合になると、学習と理解の行動様式をことごとく包括していることがあり、これをウオレス・クレーグは欲求行動と名付けている。(上、86ページより)
(中略)チョウチョウウオは同種の仲間がいないと、代りとして自分にもっとも近縁の種を相手に選んだことを思い出していただきたい。これはちょうど同じく、青いモンガラカワハギも似た状況にあると、いちばん近縁のモンガラカワハギばかりでなく、自分とはまったく別種の魚を、ただ自分と同じ青い体色をしているというだけで攻撃したことを思い出していただきたい。シクリッド科の魚についてはここで、まさに手に汗を握るほどおもしろいかれらの家族生活のことを、もっとくわしくお話ししなくてはなるまい。かれらは捕われの身であると、自然の生活条件のもとでならなわばりを接する隣の敵に対して消散するはずの攻撃欲が「せきとめられ」る結果、つがいの相手を殺すに至るのはごくふつうのことなのだ。(上、86~87ページより)
(中略)これを防ぐ手だてはごくかんたんだ。「身代り」つまり同種の魚を一匹その水槽に残しておくか、情深くやろうとするのなら、あらかじめ二つがいが住まえるほどたっぷりした広さの水槽を用意して、それを仕切りガラスで二等分し、それぞれへ一つがいずつ住まわせるのだ。こうするとそれぞれが同性の隣人に対して健全な腹をたてるようになる。見ているとほとんどきまって雌は相手の雌に、雄は雄に向かって突進し、夫妻のどちらも自分の相手に当たり散らすことなど思いもよらないのである。まるで作り話のようだが、わたしたちがシクリッド類の飼育槽をそのように防壁で仕切っておいたところ、雄が自分の妻に対して手荒なことを始めるので、ははあモがはえて仕切りガラスが曇ってきたなと気付くことがしばしばあった。そこで「隣室」を隔てる仕切り壁を元通りきれいに磨いてやると、たちまち隣人との間に怒り狂う、だがもちろん無害なけんかが始まり、ふたつのなわばりの中の「もや」はふたたび晴れあがるのだった。(上、88ページより)
(中略)そのグループのメンバーが互いに相手を良く知っており、理解し、愛していればいるほど、攻撃欲をせき止めるのはいっそう危険なことなのだ。わたしは自分の体験から請け合うことができるが、そのような状況のもとでは、攻撃や種内の行動を解き放つあらゆる刺激は、その臨界値が極度に低下せずにはいない。こうなると、たとえば親しい友人たちのせき払いとか鼻をかむといったささいな振舞いに対して、いわば泥酔した乱暴者が一発ほおを打ちとばすのと同じような反応をもって報いることにもなるのだ。人を極度に責めさいなまずにはいないこうした現象が、一定の心理学的法則をもつとわかれば、たしかに友人殺しは避けられるにしても、しかし責苦を和らげる足しにはまったくならない。結局、分別のある人がとる最後の手段は、だまって小屋(探検天幕、イグルー)から抜け出し、あまり高価ではないができるだけはなばなしい音を立てて飛び散るものをこわすことだ。これは少々きき目があり、行動心理学の用語では転位運動とか新定立運動と呼ばれる現象で、ティンバーゲンはこれを再定立運動といっている。(中略)自然界では攻撃が害を及ぼすのを防ぐために、この方策が非常にしばしば利用されている。ところが無分別な人間は、友人の命を奪うのだ。(後略)(上、89~90ページより)」
 ここでローレンツが示した事例はこと人間界においては彼が言うように心理学や精神分析から考察した方がよさそうなケースである。あるいは競争の原理として、プラグマティズムや経済学の理論から考察すれば、より綿密なデータが案出されるかも知れない。
 人間でも夫婦があまり他の近隣住人とか家庭外の人間関係を個々に持たずに、閉鎖的に二人だけの世界に閉じ篭っていると、最初はおしどり夫婦で通っていた夫婦が離婚へと至るということは、よく言われる熟年離婚とかのケースからも尤もな結果ではなかろうか?夫婦でも他人であり、相互のプライヴァシーは守られて然るべきであるし、またそのような個々が別個の社会と係わる意識が、引いては相互に内在する社会の中での競争原理にもいい意味で火をつけ、その中で自己の存在意義を発見してゆくことが出来る。
 人間には集団に加担すること、とりわけ共同体内での自己の位置というものに意識を集中させ、社会的な自己の存在意義を見出すことを本文とする欲求(集合意識、あるいは集団同化意識と呼ぼう。)と、それに逆らう一人で行動したい欲求(孤独確保意識と呼ぼう。)が相反するもの同士、矛盾を矛盾のままに同居している。これらはしかし実は同じ意識の表裏の関係にある。というのも前者は明らかに仲間はずれを嫌う傾向である。そして後者は一人ぼっちになりたいという心的な傾向である。実はこれらは相反するようでいて、互いが互いを必要としている振り子現象的な心理である。(結論、魅力論も参照されたし。後日掲載)
 人間は四六時中集団でいると、孤独が欲しくなる。しかし同時に四六時中一人で行動していると社会から疎外された気分になる。この二つの心理は相補的に、ある一定のバランス(それは個々人で異なった数値の割合であろうが)で我々の生活のリズムを構成しているのだ。この二つのある種の個的な臨界値的、不動点的な均衡状態こそ、我々の個々の生活の信念、信条を形成する要因となっている。
 それに対して男女の異性間の関係はこれらともまた一味異なっている。それに関しては本章の10節先の吉本、サピアそしてブーバー、柳田、フロイト、バタイユで詳しく述べるが、要するに我々の異性間の関係というものは一面ではエソロジー(動物行動学)的な種族保存本能によって形成される欲求であるが、同時に社会的な人間学的存在意識からは、それはジェンダーロール的なステレオタイプに忠実たろうと、それを打破して全く新しい性の在り方を模索しようが、とどのつまり理性論的な家族認識、異性間交友認識でしかない、ということである。
 正式の結婚という制度は婚外婚的常習性によって形成されたモラル認識であり、そういった意味でカント的な道徳律が意味を生じてくるのは、近代以降の結婚観、家族観以降のことであり(吉本隆明も「共同幻想論」中の罪責論においてそのような見解を示している。)、それ以前の中世、古代においては人類にとっての家族意識そのものも近代以降とは異なった考え方であったであろうし、また婚外婚的現実に対する見方も全く異なっていたであろう。寧ろそれを非倫理的であり、不倫という風に解釈しだしたのは、近代合理主義の考え方の定着以降であるように思われる。それ以前には婚外婚に対しては寛容である社会と、そうではない社会の二分されていたのではないか?あるいはもっと遡って、キリスト教、イスラム教文化圏形成以前にはもっと秘史的なものとして婚外婚は暗黙の内に了解されていたと考えられる。例えばユダヤ教においてはキリスト教的なモラル以前の戒律は示されているが、モーゼの十戒にしても姦淫に対する戒めを近代以降の結婚の合理的な契約論的なシステムとは異なった、所謂神に対する絶対服従という観念が仄見える。(しかしユダヤ教経典にはこれさえ守ればあとは何をしてもよいという主張もあると指摘する人もいる。「ユダヤ人」マックス・ディモント著、朝日選書)
 例えば猟奇的殺人者でさえ、姦淫している者に対して厳罰を与えるのだ、という使命感からそのような行為に及んだとしたら、それは近代以降の法的モラルからはただの殺人鬼でしかないが、紀元前的な常識からすれば、それほど疎まれるべきものではなかったかも知れない。それは純粋なる個人主義者として、その殺人対象が、神から与えられた契約の一部だけの遂行であるから、最終的には神への謀反であるが、社会的には現代よりは寛容な目で見られるようなケースもあったかも知れない。
 しかし少なくとも男女の性的な関係において、古代においては姦淫という現実も既にあったとは考えられるが、それは宗教倫理確立以前的な、言語共同体の原初的な集団論理においては個々の契約性というものよりも、集団の中での地位に従属した力関係の方により比重がかかっていた、という風には推測される。勿論それはライオンのプライドに侵入してくる外部の雄ライオンのような力関係のような野生とは異なっていたであろう。もっと社会的生活力とか、家族養成力といったものから来る血縁共同体内での常識のようなことがあったであろう。しかしそれよりも更に前段階としては、まさにライオンのプライドへ侵入する雄ライオンの如き野性的力関係はあったかも知れない。その段階においては寧ろ言語共同体形成過渡期であるために、どのようなタイプの異性関係が婚姻システムの形成において望ましいものなのか、という試行錯誤が繰り返られていた、とは考えられないであろうか?
 しかしここで最も考慮に入れて置かなければならないのは、そういった男女間の時間以外の、それは現代でも全く同様の事情であるが、仕事(生存確保のための)の間における男性同士の競争、家庭を守る女性間の連帯といった性的な分離においては、性欲抑制機能の発達という生物学的現実も大いにあったであろうと考えられる。勿論それ以前に生物学的には性的繁殖能力の期間限定的なシステムから恒常的に可能な状態への移行という現実が進化論的にも考えられる。そしてその次に考えられるのは、番婚以外の者による略奪婚の横行という現実であろう。そしてその次に考えられる移行過程とは集団による仕事の連帯と、それに伴う男女の責任分担、社会性の強化であろう。人間の言語能力はその過程においてその都度必要とされるトップ・プライオリティーに忠実に進化してきたという風に考えられる。
 暫く言語について考えてみよう。ローレンツの示唆していることからも明白なように、男女が対になって番行動だけによって何もかも巧くゆくような意味では、人間の脳は巨大化し過ぎたのだ。そして我々の祖先たちは、やがて有り余る能力発現可能性に従属しながら、遠僻地へも仕事で出掛け、家庭と家庭外の社会を峻別し得るようになる。それは恐らくまた同一地域における集団の密集化を防ぐ手だてでもあったのだ。子供が産まれ、そういう家庭が周囲に血縁的共同体として派生し続けると必然的に空間的に他者と接して他者領域を脅かす可能性も大きくなる、そこで集団社会を維持してゆくためにも、男女の体力差を考慮した分業システム、そして男性は狩猟その他(貿易もあったであろう。)の用事で、24時間中大半の時間を男性同士で過ごすこととなる。それは一面では他者との衝突回避の知恵でもあったと考えられる。何故なら仕事という同一目的で誰かと共にすることで、他者を敵として認識する暇がなくなるからである。
 こういった他者攻撃緩和型とも言える男社会的な意味での意思疎通に要求される言語とはどのようなものがミニマルに考えられるであろうか?それは恐らく最も必要とされる意思疎通の内容としては仕事に関する対話であろう。その男同士がかなりの人数になるにはそれを統率するリーダーの出現が要求されるから、それ以前にはまず2、3人の血縁者(兄弟、従兄弟その他)による行動が考えられる。しかし言語はまず二人の対話から発生したとしよう。3人で行動したとしても、一人は他の二人を指示するといったことが基本として考えられる。あるいは二人が同時に一人に対して指示するという事態である。言語がもう少し発達すれば、三人称が発話されだすのだが、それ以前的な段階では、基本として考えられるのは、提案、命令、促進、勧誘の言辞である。それは仕事に関して「早くしよう。」とか「早めに切り上げよう。」といった内容から、報告文的なものとしては一者が二者に対して「~は大きかった。」とか「~は肢が早かった。」とかいうような所謂獲物に関する情報伝達である。
 そこで基本となり得るのは、名詞+動詞(「あつ、兎がいる。」、「獣が来た。」というようなもの)、あるいは名詞+形容詞(「あそこの兎は<逃げ足が>早かった。」、「あの兎は大きい。」のような過去形による時事確認的なもの及び現在形形容等が大半であったとであろう。)、そして動詞+副詞(「早くしろ。」とか「もっと力入れろ。」のようなケース)である。
 その次として考えられる段階は、事実確認的な意味合いでの名詞+動詞+名詞(あるいは形容詞+名詞)であろう。例えば「俺は<早い(肢の)、あるいは大きい>兎を見た。」というような内容である。これは不在の現前化作用であり、表象性が極めて濃厚になる。この段階では三人称もまた定着していたとのではないか、と考えられる
 そして最後の段階になって初めて狩猟時以外での現在形による名詞+形容詞が来る。詠嘆表現である。
「この兎は大きいな。」、「この兎美味しいな。」あるいは過去形による「美味しかった。」であろう。
 人間の同一種内攻撃欲求が、社会システムの理性の名において正当化されてゆく過程において、徐々に生存競争の方向性は権力志向性へと転化され、ソフィストケートな手段によって他者を攻撃すること(権力者が部下を更迭するとか、資本家が法的手段に訴えて他者を社会的に制裁する。今日の世界では先進国ほど非資本家までが率先して、そのような自己防御姿勢を示す。)が常套化されてきている。それは古代から中世、近代と時代が変遷するも、その本質においては変わりない。かつて戦争であった同一種内攻撃欲求が、戦後の世界秩序においては建前的に国連という機関の憲章の名において、オリンピック時にのみ、国威発揚するべく仕向けられているものの、未だ武器供与的な現実は常習化されている。人間の攻撃欲は集団同化意識内においては、異性間での性的欲求を抑制する機能を発揮させるも、いったん職場を離れると、そこから先は自己の自由時間であり、その一つの向かう先が異性であり、その異性間交渉はある意味では種的攻撃を集団から個人へと対象を転化させた形である、と捉えると、婚姻として今日通用する行為は皆、孤独確保意識という本論において名付けた欲求のある特殊な変形であるとも考えられる。性的欲求性をいったん抑制させた後の解除システムの途上においては人間の異性間交渉は理性論的に意味づけ作用を希求するような内的必然性を帯びることとなるので、あくまで個人間の対幻想(10節先の吉本、サピア、そしてブーバー、柳田、フロイト、バタイユにて詳細に論述。後日掲載)の位相において孤独確保意識の中での純粋自己一者からの一時的解除を意味する。要するに社会に出る前に一時対になって孤独を確保する寂しさを紛らわすということだ。
 集団内においては、社会的地位確保、権力保持欲求となって立ち現れた攻撃欲は、個人レヴェルでは異性間による性的葛藤へと転化される。その二重の攻撃的本能の発現作用を人間学的に正当化するシステムとして理性が近代以降叫ばれてきたのだ。しかし実際本能抑制論的に言えば、狩猟時の雄の単身赴任行動期間中の同性間共同作業において既に自覚論的な意味での前状態として理性は方策としては顕現されていた、と考えても間違いではないだろう。その典型例の一つが「友情」である。
 そういう進化プロセスにおいて言語が果たすべき役割は甚大なものがあったと考えてもよいであろう。言語は前記のような形で初期段階は狩猟行動その他の仕事分担性や、行動誘引性として、あるいは最低限の情報収集性において、より二人称的な様相から発展、分化し、先述の品詞配列が徐々に決定され、その後に第二段階において、初めて詠嘆的表現が常套化するという考えは社会システムの安定その他の要因から考えるに、自然ではないだろうか?この段になると無意識的にではあるが、理性は遂行されている。寧ろ理性が近代において敢えて叫ばれたという事実にはそれ以前の中世においては長い暗黒的な非理性的時代が続いたということ、そして略奪横行の現実において攻撃欲が権力と非権力の分化過程において、凄まじく顕現された、と言うことが出来よう。その意味では理性という名には未来へ希望を託した哲学者たちの姿勢が伺える。
 つまりある意味では古代の一時期において、言語共同体の安定化の途上では平穏な時代も長く続き、ただその際に詠嘆その他の言語思考性による発展、分化、進化プロセスにおいて、より複雑化した感情表現や対社会欲求的概念の多様化に伴って、人類は再び混迷の時代へと突入したのではなかろうか?
 その意味ではエソロジスト(動物行動学者)たちが、例えば先述引用のローレンツらが、挙って動物行動を真剣に考察し始めた背景には人間の行動が歴史的に考察可能となった有史以来の反省意識の中から、動物行動と人間の相反する部分と、共通する部分の峻別をすることが嫌が上でも求められ始めたということをも意味する。そこまで行くには勿論ダーウィンの進化論が一回創造説への懐疑を徹底して論証する必要があったのである。ダーウィンによる創造説の否定という現実には教会権力が文化コードとして社会的常識化していった時代の批判であり、虚妄性への覚醒促進の意味があった。その後ニーチェやフロイトが登場して、多様な角度から神への疑念が、特に宗教権力的暗黙の世間知に対してなされたのだった。
 人類の言語活動がどのような形で進化してきたのか、ということを考える時我々は、本論で述べてきた性的抑制メカニズムにおいて社会的責任を自覚しつつあった初期人類が、その自覚課程において倫理的な語彙、動詞(「慰める」、「労わる」、「励ます」、「慮る」)といったものから、名詞(「愛」、「恋」、「憐憫」、「激励」、「配慮」、「反省」、「慈悲」、「懊悩」、「苦慮」、「苦悩」)といったもの<抽象名詞あるいはそれに類するもの>、あるいは形容詞においても(「憔悴した」、「諦めた」、「寂しい」、「悲しい」、「安堵した」、「苦しい」)というようなものも初期段階以降徐々に形成され始め、それらは同一品詞間においても異品詞間においても、相互に結び付いたり、離れたりしながら発展していったのであろう。こういった感情表現(倫理性への起源としての)は実際上、「空」や「川」や「食料」といった概念同様今日の我々からすれば重要であると思われるが、これらは概して表情による明示性から最初は始まり、三人称表現の形成と共に必要上、恣意的に事後的に語彙形成された、と考えた方がより自然であるとも言えよう。
 人類の男女が、ただ彼らだけの世界に閉じ篭ることなく、相互に他者と人間関係を持つということは、相互のプライヴァシー確保の観点からも意味あることである。そして言語は、対幻想的な対話性において、別の対話対象を一人以上持つことで、三人称的な話題を相互に(伴侶に対しても、友人に対しても)提供することが出来、そこから陳述様相が複雑化するというわけである。言語活動において、共同体内での人間関係の複雑化、多様化のプロセスにおいて、三人称並びに、客観的事実確認言辞の発展が齎されるわけである。言語活動が社会性と密接に結び付いているということは明白である。
 吉本隆明の述べている対幻想とは概ね、母子、父子、兄弟、姉弟、夫婦といった家族単位のものであるが、対幻想を全ての人間関係へと応用すれば、対幻想の数の多い人間ほど多様な人間関係と多様な他者観、多様な自己表出性を持っていることとなる。私という人間を例に挙げても、私がAという人物に対して示す私と、Bという人間に対して示す私とでは全く同じではないであろうし、そこで語られる真意をまた同じではない。私がAに対して心を許している部分と、Bという人間に対して心を許している部分とでは性質が異なっているからである。社会に人間が生きている以上、家族、家族を通した知人、職場、同業者間、地域住民、趣味の集いといった異なった性質における人間関係には質的にも相違があるし、そういった異なった自己像を表出させるために夫婦と言えどもプライヴァシーは必要であろう。あるいは親友同士でもそうである。異なった人間関係において育まれる自己像と他者像、他者人間観や自己表出性は個々別個のものであるからこそ、相互に意義を見出せる。そういった多層性のない生活では一者に対して全てを求めるから、ある種の強迫観念を他者に与え、鬱陶しい思いを相互が共有してしまう。フラストレーションの解消は他者に対して一部において接するということ、一部だけ真意を覗かせ合うという前提において、円滑に意思疎通が果たせるという側面がある。それを越権すると、プロクセミックス理論(エドワード・ホールの提唱した理論。同一種においてエソロジー的に言えば、空間の共有性と個体ごとに侵犯してはならない領域の双方が存在し、個体間による協調や種内繁栄も、そういった秩序に従ってなされ得るという考え。)をここで採用してもいいが、要するに他者に対して最低限の自己防衛本能を適用してしまう結果に陥らざるを得ない。
 いかに夫婦や親友と言えどもプライヴァシーを侵害しない範囲でのみ共有し合える時間と空間というものがあるのだ。
 他人に対しては社会において競争意識が、人間に内在する同一種内対他個体の攻撃欲を解消させ、男女間においては性欲的な攻撃欲を解消させるのだ。この二つが連動して、初めて男女間において固有の、対他者において固有の対幻想性が保持し得るのだ。そしてその対幻想の質的相違が我々にそれぞれの人間関係の意義を認識させるのだ。
 異性間の交友が皆無であると、同性間において異性に求めるものまで求めてしまう。友人間でも、家族がいないと、家族外の人間関係に家族に対して求めるものを求めてしまう、という弊害が、無意識の内に齎される場合がある。あるいは家族外の交際の一切ない人間は家族内で家族外の人間に対して求めるものまで求めてしまう。恋人同士だけの狭い世界に閉じ篭ってしまうと、相互のプライヴァシーが侵害され、同伴者に対して、別の他者に対して求めるものまで求めてしまう。そういう閉鎖的な意思疎通においては一方的なエゴが他者に押し付けられてしまう。それが最も極端な形となったものがストーカーである。
 
 クレーグ説では、それまでメスと一緒にいる機会の多かったオスをメスから隔離していったことから引き出されたのである。だからこそどんなものでもメスの代用とするようになったのであろう。そこで示されたのは動物間において示されるフラストレーションである。
 ところが人間(初期人類)はもっと長期間メスと隔離しなければならなかった。狩猟その他の行為を怠ることは共同体加担意識からは許されざる行為であったであろうから、性的抑制は必然的に求められることとなる。それでいて人間は長期間隔離しても尚番でいることを止めない動物であったということでもある。いったん離れ離れになってしまうと特殊な例外を除いて概ね二度と番わない動物と人間の差がここにある。人間には多層的な人間関係を同時に維持し得るような知性が備わったのである。その人間関係における単純なものから複雑なものへの移行段階そのものを理性と名付けてよいのかまだ私にも解からない。ともあれ人間は身体が大型化し狩猟に時間をかける必要性が生じた。ここで彼は性的な発情ということに関しては長期抑制恒常性を身に付けたのだ。(概ね同性間の友情とかいうものはここから発生したのであろう。)繰り返すが、そういう狩猟時に発情していては仕事にならないからである。そこで彼は選択圧に応じて自らの抑制機能を発達させた。それは結果論的には理性の萌芽でもあったのだ。しかしいったん家庭に戻れば子孫も繁殖させねばならない。そこで一気に性的抑制システムの解除が必要とされ、その為に性的信号として乳房が巨大化したのではなかろうか、というものが、私が補足するモリス説である。
 長期に渡るメス不在を経験するオスは、尚家庭においてさえメス不在であるような抑制状態を維持していたのでは、オスは繁殖に成功出来ない。(人間が一年中発情出来るのもこのためではなかったろうか?つまり性的欲求抑制機能という長期単身赴任性がある限定された時期にのみ生殖機能を開示させることが不利なように自然選択が作用したのだ。)そこでメスは小さかった乳房をオスの性行為を誘引させるくらいまで性的対象として求めるようになっていったのだ。それは性的誘引作用としての記号でもあったわけである。

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