Thursday, October 15, 2009

C翻弄論 6、いじめの精神構造 

 当初私はこの章を項目として入れることは考えてはいなかった。しかし昨今このいじめを発端とする青少年の自殺が相次ぎ、どうしてもこのことを全く触れずには翻弄そのものの本質を把握出来ないと考え、急遽この論文に入れることにしたのだ(この論文は安倍政権下において書かれているが、今日もこのような現実があるとしたらという仮定で読んで頂きたい)。
 まず基本的にいじめとは他者に対する差別意識より以上に自己の保身からくるものであり、それは寧ろ安定的な自己に位置づけられた対外的なイメージの逸脱を恐れる心理によって引き起こされている。例えば一番初めにいじめをする人間は、寧ろそれ以降にその人間に追随する人間に比べれば、最初は勇気が要る。そのように他者をいじめることで非難を受けるかも知れないからである。しかし一回いじめをしたら他者から咎められるどころか次第にそういった行為によって自己に対する他者からの畏敬の念を獲得することに覚醒したいじめ先発者は次第に権力の中枢に位置してゆくことになるのである。なぜ第一にいじめをする者に対して非難しないのかというと、それは異質なものへの覚知を旨とする第一の差別者に共感を示すことによって寧ろ自己が異質ではないということを他者に示したい(仲間はずれ回避)という心理によるのである。
 勿論いじめといった卑劣な手段に訴えることなく他者に対して立ち向かうことの方がもっと勇気が要る。しかしそういった他者に対する攻撃によって自己が傷つくのではないかという懸念がいじめとその共感を自己正当化させ、次第にその攻撃の賛同者を獲得することを求め(第一の者もその追随者も)、一回でもそれが成功すると、今度は攻撃の手を緩める輩を非難することに転じる。いじめ共感者たちは第一のいじめ者に追随し、安定的地位を確保しようとする。またそこに階層も生じる。
 実はこういった精神構造というものがある国家が別の国家に全面戦争をしてゆくことになる精神構造とは言えないだろうか?
 しかしそれでも尚最初の攻撃者には多少の勇気は必要だ。しかし二番目以降の攻撃者たちはただ自己保身、その攻撃者を非難することによって身の危険回避の結果定着したいじめ体質社会での地位を揺るがすというただ一点を恐れて、付和雷同する。だからいじめの場合、最初の攻撃者を賛美して次第にその攻撃者をカリスマ化させてゆくような周囲の安定的位置確保希求者たちこそ最もその内的な心情倫理においては非難されるべきである。勿論発端を作った超本人は物理的な結果を招いたという意味では最も罪がある。しかしその最初の攻撃者を食い止められなかった他者たち一般は連帯責任的な意味合いから発端者と等価の罪状があると見て差し支えない。
 ただいじめの場合全くいじめられる側には責任がないかというとそうでもない場合もある。勿論全く責任がない場合もあるであろう。だがここではまずいじめられる側の責任についてそちらにも否があるというケースについて考えてみよう。
 例えば世界史の中でも得意な位置にあったユダヤ民族について考えてみよう。彼らは最も世界的規模におけるいじめの被害を経験してきている民族である。それは一個人という規模ではない。民族全般という恐ろしいステレオタイプや偏見とその固定化という事態が世界史に刻み込まれている。しかし恐らくいじめを遂行する側からの論理に拠れば、彼らには何かいじめを引き起こされる要因があったのではなかろうか?
 ここでユダヤ史を展開させるにはあまりにもこの民族の歴史は長く、数奇な運命が重なっているために、ここでは一切そういうことには触れない。ただ一言言っておくべきこととは、どのように偉大な民族と言えども、清廉潔白で一点の曇りのない民族などというものはあり得ないということである。古代ユダヤ史に関してはマックス・ヴェーバーの労作「古代ユダヤ教」があるが、それによると彼らの契約の書(法律集)では訴訟法、奴隷法、居留人法といったものが書かれていた。しかし奴隷はユダヤ市への債務を持つ一族の子孫といった成員から構成されていた。しかしたとえ奴隷であっても、傷害を負わせた場合奴隷を解放させることも出来たし、即死させた場合には刑罰を受けたし、即死ではなかった場合には彼らの営業資本に損害を与えたに過ぎなかった。彼らが自民族の都合のみで奴隷を使用したりしたという事実や、その奴隷もまた人間であるのに現代の感覚からすれば軽い罪で済むのだという恐ろしい感想を我々が抱くこと以上にここで読み取れ、興味をそそられるのは、そういった奴隷使用さえ認められていた古代においてさえ、あまりに酷い奴隷に対する処遇に対しては罰則を科していたという事実が逆にその時代において、恐らくいつの時代においても一部のユダヤ人は奴隷に対して酷い仕打ちをしていたこともあるという事実である。しかしそれでも尚ユダヤ史は現代の資本主義経済の基本ほぼ全てと言ってよいほどの社会秩序を先取りしており、その限りで彼らの民族史は賞賛されてよい。要するに社会構成、法的秩序形成におけるインテリ民族であると言える。
 しかし重要なことというのはその周辺にいた当時はユダヤ民族から蛮族と考えられていた民族の立場に立てば、全く異なった事情が出てくるということである。つまりインテリに対する大衆の盲目的信頼感が、彼らも間違うこともあると知ると、通常の対象に対してより深く幻滅する。(22ページ、ニーチェ「善悪の彼岸」88節参照。)そして仮にその周辺のユダヤ民族に対して迫害を行った民族の行為自体が蛮行であると百歩譲って断言しても、尚いじめ遂行民族に追随した民族の立場が極めて強大なものでなかったならば、自分たちもまた迫害の憂き目に合う可能性を只管回避する意味合いから同調せざるを得なかったという事情があるであろう。
 民族史というような専門的なことを一度離れてもっと単純なことから考えてみよう。
 私たちの社会においてインテリ階級というものは往々にしてそれ以外の人々に対しては見下すような傾向があり、そのインテリの物理的ではなく精神的な対他的な屈辱付与性に対して実害を被る立場の社会人たちは怒りの感情を鬱積させる。あるいはそういうことから引き起こされたいじめ、それを今の例から考えると今インテリが迫害され始めたとしよう。するとそのインテリの肩を持つ人々はインテリの同調者と見られ、他の成員から同じ穴の狢と揶揄されるようになる。そのことを恐れて自分同様権力のない成員たちに対するいじめに対する攻撃という正義の行為選択は被害者の肩を持つことと見做されると推測し、そのことで揶揄されることを恐れるようになる。他者を公然と攻撃することというのはかなりな勇気が要るのだ。また危険を被る可能性も大きい。
 例えば宴席において見苦しい態度をあなたが不覚にもしたとしよう。その時そのことを公然と周囲の人間の目も憚らず叱責を受けたとしたら、あなたは自分に否がある場合ですらその叱責者に対して恨みを持つことになるのではないだろうか?だから他者を公然と攻撃するということは実は極めて大きなリスクを伴うものなのだ。そこであなたの見苦しい態度に対して通常の人たちにならば、容認しているのではないが、と言って公然と非難もせずあなたがそういう態度を採らなくなるのをじっと耐えて待つという行為選択を一般に採るものなのである。多くの場合宴席終了後にそれとなくアドヴァイスする者がいる。(目に余るということにならなければ。)
 いじめの黙認者の心理とは意外とこのようなものに近いとは言えないだろうか?電車の中で痴漢している犯人を目撃しても、その犯人の風体次第では却って自分の方に実害が降り掛かることを恐れて多くの人々は誰かに密かに通報する道を選ぶものではないだろうか?勿論痴漢行為それ自体が悪であることは誰しも認めている事実である。しかしそれを公然と間違った他者に立ち向かえるということそれ自体は仮に賞賛に値するものであっても尚、その遂行はリスクを伴うものなのだ。(我が国の元首から法人の責任者に至るまで、国家の戦争責任問題から不祥事や問題が起きるたびに「遺憾の意を表明する」と言うが、この言辞は明らかに謝罪拒否である。ここに公的責任(全ての個人の責任倫理の代表)優先の姿勢がある。個人的な感慨を犠牲にしても、集団を保守することは脆弱な「個」を示している。)
 だから民族差別という行為それ自体は卑劣であるけれども、その行為を選択する成員の立場からすると内的事情とは意外と自己に降り掛かるリスク回避という現実に根差しているものなのだ。そしてこのようにリスク回避に奔走する人間には、安定を目指すという内的な必然性があるものと思われる。内的な安定に翻弄されているということそれ自体が大いなる問題なのである。次にその内的安定という保守性について少し掘り下げて考えてみよう。
 恐らくいじめというものはわが国においてもかなり昔から恒常的な習慣であったと思われる。そしてその最も大きな理由は先ほどの電車の中の痴漢に対する対処法として、痴漢を非難する者が仮に家族の一人もいない者であるなら、もし痴漢から何かされても、自分の家族に迷惑がかかることはない。しかしその者に自分の家族がいて、しかもその家族が病気であるとしよう。するとそのような者はいざという時のために尻込みするのが通常ではないだろうか?つまりこのように生活的なレヴェルでの最低限のリスクを回避したいと望む心理こそ、安定への希求の事実を表している。
 哲学者のドナルド・ディヴィッドソンは意思伝達というレヴェルから言語を捉えており、ア・プリオリに言語カテゴリーがあって、そのカテゴリーに沿って言語行為を我々が遂行しているというよりは、その場その時の当座の判断で言語を使用しているということを主張した人である。彼によるとだから外国人で、しかもその言語に全く精通していない者同士の意思疎通も基本的には当座の判断を使用すればある程度可能なのだという考えである。
 しかし我々の世界では明らかに起源的には同一言語使用者同士の血族関係を基本としたものを民族と呼び、その民族間の結束という事態は動かし難い事実である。全てのコミュニケーションは確かにディヴィッドソンの言うような当座の判断によるものであるということは理想であろう。しかし常日頃全ての他者ごとに異なった言語が保有されており、その都度の努力で意思疎通する手間を省く意味でも我々は言語というものを発達させてきたのである。
 現代の哲学者ではジョン・ロールズは功利主義を批判してカント的な善行為としての倫理を主張した人である。基本的にはトーマス・ネーゲルという哲学者もそのような考えを抱いている。勿論倫理それ自体を考察するなら、その基本姿勢は正しいであろう。しかし実際の社会というものは社会機能の維持という基本的なルティンワークに追われており、それを放棄して反省的意識を恒とする哲学者ばかりでは機能不全に陥ること必至である。
 そこで我々は常に現実と理想の狭間で翻弄されていることに気付く。例えば今仮にあなたが長いこと休職を味わい、やっとのことで就職出来た中途採用社員であるとしよう。しかし折角入社出来た会社が会社ぐるみで不正を働いていたとしよう。その時あなたは倫理的には確かに即座に上司からの一切の命令に背き警察に通報すべきであるかも知れない。しかし実際上はそのように即断し得るほど現実は単純ではない。もしそのようなことをしてあなたが再び離職することになったなら、あなたが再び社会復帰することはかなりの労力を払うことになることは間違いない。しかしそれでも尚正義を履行することが恐らく正しいであろう。しかし同時にそのような行為へと即座に意識を転換し得ないで躊躇する人間の心理というものにおいては、恐らく危険を極力回避し、安定的な生活レヴェルの確保を希求することは、家族を養う意味でも不可欠な一般社会人には必然的な心理なのである。
 だから哲学が必要であるという現実は、現実自体は哲学の齎す真理通りには実際にはいかないものであるという認識によって逆に支えられているのである。いじめ対処法もそれと似たところがある。実際には痴漢に会う被害者救済は急務である。しかしそれでも尚実害が救済者に及ばない限りでの方策を模索することは、それはそれで正しいのである。それと同様いじめもいじめに会っている被害者に対して即座に救済の手を差し伸べるという理想を一方では認識しつつも、もっと多数の成員による「いじめの撲滅」に対する合意を得る方向から対処法を模索すべきでもあるのである。
 ここである一つの結論が見出されたと思う。いじめそれ自体は被害者に対しては気の毒だと思いながらも自分の方に実害が及ぶことを恐れる心理によって解決を阻まれているのだが、一人で加害者に立ち向かうことを倫理的理想として評価しながらも、実際にはそれ以外の、実害を受ける可能性回避を方策として加味した対処法を模索する必要がある。そして、我々がリスクを回避し、安定を望む心理の所有者であるという事実が、一方ではいじめを助長しながらも、同時にその全体的な協力体制によってよりよい解決法も見出し得るのだという可能性認識へと転化させ、あたら悲観的な性悪説に陥らせないようにすることは認識上重要なことではないだろうか?
 このことが安定的死守性に翻弄され集合的無意識(ユング用語)から派生するいじめとか痴漢の黙認という翻弄から我々を救い出すことの一番有効なる認識であると思われる。(私は小学校の頃はいじめられっ子的な立場だった。昨今の少年少女に言いたい。自分の命は自分だけのものであるという風には思わないで欲しい。生きていれば必ずいいこともあるものなのだ。それにいじめをする者はいじめの対象に対して関心があるし、嫉妬心も持っているのだ。だからいじめられる生徒に生きる希望を与える教育を政府も現場の教師たちにも目指して欲しい。)

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