Sunday, October 11, 2009

D言語、行為、選択/6、意味と概念

 人間は「かくある」と「かくあらねばならない」という食い違いがあるからこそ、未来に不安があるのである。人間界の女性が、ある種のカトリックの信仰の如く、どんなケースであろうと堕胎を認めないということを全く承認しているのなら、寧ろただ接近してくる異性を待っていてその場その場の生理学的な能力のみに頼っていればよいこととなろう。そして自由な恋愛やその意志も必要なくなる。主体的パートナーの選択も必要なくなる。あるいは癌になるかも知れないという遺伝的徴候(親族の中でそういう死因が最も多いとかによって)を察知して、自らは長生きしたいのに、親族共通の遺伝的体質が自己の意志とは無縁に襲い掛かるかも知れないという不条理(こういった現実をドストエフスキーもカフカもカミュも文学的テーマとしたのだろう。)が、人間を底知れぬ不安と恐怖に苛む。しかしことはそう単純でもない。これは身体上の医学生理学的システム上の問題であり、形而上的な、精神的な問題ではないから、仮にそういう不安があっても命ある限り最善を尽くせば悔いはないという開き直りも持てるには持てる。しかしもっと精神的な不安が存在する。それは言語活動をめぐる問題である。自閉症や引き籠りなどは明らかに身体上の不安ではなしに、ある共同体内での、社会的疎外感が根底にある。それは自分(自己ではない。)だけが取り残されているのではないか、あらゆる常識から乗り遅れ追い付くことさえ出来ないのではないか、という不安である。例えば今までずっと論じてきた言語について見てみれば、ある概念(その共同体が「赤い」なら「赤い」を意味させるような常識的見解)は、厳密に言えば個人個人で、先にも言ったように少しづつ異なっている。それは「あなたは赤いという言葉を聴いて何を連想しますか?」と言う質問を投げ掛けられた時に答える自分流の回答に対して「それは子供っぽい。」とか「通俗的だね。」とか「月並みだね。」とか言われるなら、いい気持ちはしないまでも、まだしも救いはあるが、「異常だ。」と精神分析学者(そういう学者がいたとしたら、その人の正体は疑ってかかった方がよい。)たちに言われるのではないか、という不安である。不安は同一共同体の成員だからこそ、存在するのだ。我々がよく会話することもできない、未知の外国にその場限りの短期滞在している時に会話に支障が多少あっても別に深刻な気持ちにはなるまい(もっともそれが将来その国に滞在するような外交官を目指している若者なら別だが)。ところが一生を生活してゆく母国の自分の生活するエリアとなるとそうはゆかない。社会や共同体で機能する言葉の意味は「概念」であり、本論で意味と私が言う「意味」とは少し違う。私が意味というものは、個人にとっての了解の仕方である。若い女性という概念はどの成員においても指示されるものは一緒である。しかし孫が出来て喜ぶような立場(年齢的でもあり、立場的<極若く祖父や祖母になる人もいるから>でもある。)の人にとっての若い女性と、その若い女性たちと同年齢の人たちにとっての若い女性と、その若い女性をおばさんと感じる幼児にとっての若い女性の意味するところは明らかに違う。そういう意味での意味のことを私は意味と言っている。さてこの意味における概念上での流通した意味との差異が大きければ大きい程、共同体成員としての不安は増大する。例えば80歳の老人にとって50歳の女性は若い女性である。しかし20代や30代の人々にとって、50代の女性は立派な中年である。しかし少なくともニュースでは50代の女性を若い女性とは報道しないだろう。その時50代の女性を若い女性と認識する世代の人々は自分の年齢的感覚に対して不安を多少は抱くかも知れない。これなどは一番軽い不安でありその年齢の気持ちに慣れたらどうということのないものでもあるが、つまりこういった不安の極端な形のものが自己の前に現れた時、人は不安に陥り、失語症的感覚に襲われる。すると何かを語る際に、周囲から嘲笑されはしないか、とか非常識と思われないかとかの不安を極端に増大させ、やがて普段だったら容易に発言できるのにもかかわらず、伸び伸びと発言することが出来なくなって、黙したり、大っぴらに語ることを臆し、あらゆる真意表明を躊躇するようになってゆく。こういった意味と概念の齟齬や分離に対する恐怖(不安を通り越している)が我々に何を語らせ、何を語り難くさせているか、という決定因子に重大な作用を及ぼしているのではなかろうか?
 自己の抱く「赤い」ということの意味と、その「赤い」という語彙が概念として示すことが一致していることが、不安が無である状態としよう。しかし私の知る限り私の全人生において、すべての社会常識や通念を一致物として認識して満足して生きている人は一人もいなかった。そうだ、と信じていても傍から見ていると全くの思い違いであったり、逆にそんな不安などなさそうに見える人でも、人知れずそういう不安に苛まれていたり、ということの繰り返しであった。「赤い」ということの意味だけではないし、その色の実際上の知覚像(見え方)もそうであろう。あるいは時間的感覚、空間感覚のすべては個人ごとに異なっており、同一であることは皆無である。ある人にとって羞恥を感じる部分は別のある人にとっては、何でもないことであったり、だからと言ってそのことに関する限り勇気のある人が別のことでは真剣に悩みを抱いていたりする。語りやすいことがある反面、別のあることは出来ることなら一生黙っていたい、という(だからといってそれがどうでも良い問題である筈ではなく寧ろ重大である場合も多々ある。)面もある、ということの認識が生の真実である、と悟った人がいるとしよう。するとその人は恐らく自己の抱く固有の意味と概念が仮に一致していることに気付く、そのような対象に出会ったとすると、今度は逆にそのことで悩むようになる。「自分には通り一遍の概念しか認識し得ないのか?」、と。そればかりではない。その社会通念的概念だけが本当にその言葉が指し示す能力の限界なのだろうか?我々がただそう思っているだけで、実際はもっとあり得る可能性に気付いていないだけなのではなかろうか?再び件の不安が頭をもたげる。

No comments:

Post a Comment