Monday, October 5, 2009

A言語のメカニズム 3メディアと特権階級的私物化の欲求

 パロールもエクリチュールも言語活動の要においては文法的秩序や統辞法やらの制度的制約の中から産出されるコミュニケーションであるが、我々がもう一つ忘れてはならないものに、映像という世界がある。例えば写真が発明されてからの多くの美術ファンにとって絵画に対する知識は写真によって紹介された「美術」であろう。まず写真で「裸のマハ」や「ラス・メニナス」や「ゲルニカ」や「ヴィーナスの誕生」を知り、その現物を見に美術館へと訪れる。今やテレビは美術館観賞さえも提供してくれる。それだけではなく、テレビは毎日のように世界各地を映像で紹介しており、その各地で起こった事件だけでなく、観光目的のものさえ放送され、我々は各自の家にいながらにして旅行を楽しめる。さまざまの紀行番組や地方風土紹介番組で、我々はあたかも、その土地に出向いたかの錯覚を喜んで手にする。その土地土地の料理さえも見ながら後で同じメニューを食したりする。映像は戦争や宇宙旅行さえも我々を追体験させるかの如くイリュージョンを我々に提供するし、それは一向に止むことは無い。しかも我々はそのことを重々承知であり、そのイリュージョン体験に対して寧ろ積極的に関わっている。各種マニアックなヴィデオやゲームソフト、DVD、それにインターネット世界におけるヴィジュアル・イメージの世界。しかしインターネットにおいてもメールはややその性格を異にするものがある。インターネットのクリッキング・ワールドとメール(ケータイも含めた)では、言語認識上の断絶がある。インターネットでは享受することの快楽が優先しているが、メールでは参加することの快楽が優先している。これは同じメディアにありながら極めて奇妙な同居ではなかろうか?多機能ケータイの世界がそういった同居を半ば当たり前のものに既にしているが、こういったメディアの攻勢によって我々は言語さえもが侵食されている現実を目の当たりにしている。ある種の閉鎖的社会(絵文字使用を巡る踏み絵的共同体)のラング的言い回しや表現の流行や共辞的価値観の共有は凄まじい勢いで、映像を主たる構成要素としたメディアによって促進され、劇場的な国民、民族、流行言語を核とした運命共同体意識は醸成されてゆく。それらは知らず知らずに特にテレビによって我々の心を蝕んでゆくが、パソコン画面における平静心は、メールによって確保され、ネットによって掻き乱される。ネット・サーフィンにおける心理は好奇心と熱中することで我を忘れるような作用を持っており、そいうったデジタライズされた自己喪失はパソコン画面だけではなく、ケータイやDVDといったメディア間相互連関システムにおいてもよりシナジー・アップされていく。
 映像本体は極めて初期写真世界と現代の多様化したマルチ・メディア社会とではその利便性とデジタル化の度合いが異なっており、我々は最早以前の状態への回帰を決して望んではいない。言語自体のメカニズムも、最早極めてマニアックな多種共同体の存在(ブログ世界のような)によって示されているような仲間意識(それも外に対して開かれていない)が社会の隅々にまで浸透し、言い回しやマナーさえもがそのいずれにおいても共有され得ない、「互換性のない独自閉鎖的メカニズム」によって支配されている。
 映像や各種マルチ・メディアのもたらす情報は、もう一つの言語である。しかも極めて意味薄弱で、常套概念の支配した言語世界である。各ブログ等で極めて閉鎖的コミュニティーを構成していながら、実際上そこここで取り交わされるコミュニケーション言語は互換性こそないものの、常套的概念優先主義という意味ではどれもが一律的価値観に支配されている。すると読書がまた別の意味を獲得してくる。各種メディアにない平静心を持続出来る現代の心のオアシスとしての機能が優先し、情報(かつて活字だけが唯一の情報源であった時代と違い多種ある)としての存在意義よりも、アナログ世界への心の中でのみの回帰(アナログ一辺倒には決して戻れないから)という、知的冒険の意識が、メールやネット世界とは別個のものとして要求されてゆくわけである。
 映像という一つの記号は明らかに概念化された情報であり、そこから意味を勝手に各々が受け取るような装置となっており、また映像そのものは意味を一々検証するほどの価値をそもそも我々自身さえもが付与していない場合も多い。その意味ではネット情報やメールの伝達目的性さえ、映像的常套性をより別の形態で象徴化しただけの形式的行為(通り一遍の全ての人々が共有し得るメディアを使用している、という安心感だけのために利用する)と言える。映像に絵画や実際の風景や情景から受け取るものと同質のものを期待する者はまずいない。映像やマルチ・メディア自体を異種の自然であると、はっきり峻別しつつ認識して我々はその上でそこから脱することが出来ないだけである。メディア社会は一つの自然である。その自然には情報的価値というよりは共通項を他者と共有し得るか否かという世間的常套性が潜んでおり、言語構造もまたそういった共辞的機能優先主義が介在しており、何かの映像やテロップなどの全ては、「それがあらかじめそういうものとして皆が了解する範疇からは決して逸脱しない」という厳密なる規則を遵守しているわけである。ある種の純文学に見られたような文語調は、大正ロマンとかの様式美的範疇に対する理解に終始し、今風はビジネスマンから作家に至るまで徹底している。純文学と大衆文学というカテゴリー意識さえもが、最早今日的ではない。文学と気の利いたメールの差すらも曖昧化しつつある。しかしそれでいて、例えば日本語一つとっても、気が利いた今日風の流行り言葉が太古や中世、明治期等に流行った言葉であったり、という無意識の反復というアポリアに陥っていることに、誰も気付きもしない。オリジナリティーとは何かという問い自体が消失している。ある種のマニアックなブログ等に見られる閉鎖コミュニティー性はその集団内では階層性が徹底しており、その秩序から逸脱する者は即刻退場という厳密なるルールとそのルールに躍起になってしがみ付くこと自体のプライドを無意識の内に全ての成員に植え付けるような機能を発揮している。「~系」という言い回しの多用、「~的」という形容の多用、そういった常套性は各コミュニティーにおける閉鎖性にもかかわらず、どこか全てに共通している。それを実は皆が知っている、にもかかわらず、そのことを指摘することは暗黙のタブーとなっているのである。その意味ではルール自体が既に概念化された、つまりは生きたルールの自然発生であるよりも、「そこから逸脱すること自体をひたすら回避する」システムとなっているのである。それは新入りに対するイニシエーションを儀式化するような、かつてのマフィアのそれに近いものがある。このような保守性は未来に対して開かれている社会ではなく、寧ろひたすら回顧趣味的様相でもあるのだ。「意味への問い」という実体あると思われる行為はそこでは復権する機会さえ与えられないのである。「意味への問い」とは本質追求の姿勢によって成立しているが、一度そのことを持ち出すと、惰性的成員意識に懐疑を生じさせることになる。それだけは避けたい、というのが成員間の暗黙のルールになっているのである。革命意識の永遠なる封印、そういった命題が各成員に行き渡る時我々は保守的コミュニティーの非逸脱性希求の必然的なる性格を想起するのである。それは、問う、という行為自体の回避である。
 問いへの回避は、では純粋哲学的エポケーであるかと言えば決してそうではない。それはマルチ・メディア自体が純粋知覚体験的状況を我々の社会環境から創造してゆこうというスタンスによって支えられており、意味への問いといった反省意識そのものの追放が主たる目的であり、そこから管理体制の徹底化と革命意識の封印が成就するのである。しかし純粋知覚体験至上主義はとどのつまり、言語そのものへの問いの封印にも等しい。「言語などというものは通り一遍の常套的価値に収斂させておけばそれでよい」という惰性的権力温存を無意識に希求する特権階級依存的思考である。
 しかし太古から言語は、実はその都度特権階級によって私物化されてきもした。そのこと自体をいいことであるとか、悪いことである、というような問い自体は甚だナンセンスである、とも言える。なぜならそういった私物化したい、というほどの欲求を成立させない社会があるとすれば、それはそれで問うことの不毛が常習化された社会だからである。ある意味ではある常套的言語使用的慣習の定着化は、その都度の文化である、とも結果的には言い得る。だが文化が常習化し、惰性的慣習化されると、非逸脱的保守性へと転落する。その二重の意味での文化化の困難は「意味の概念化」という共同体機能の充実と社会的モラルの個人意識への浸透という必然的な現象において確かに認められる。
 言語はその時創造的であるよりも、理解すべき、解釈して咀嚼すべき価値として君臨する。文法は寧ろそういった文脈から言えば、言語モラルの温存のために急遽拵えられた社会秩序でもある。しかし概念の定着性はそういった常套性の打破という目的意識を醸成することともなり、我々は寧ろそこから問うことを始めるのであり、概念のない地点では言語への問いといった哲学行為さえもが成り立たないのである。
 言語が行為として認識されている内は我々は問うことを停止してはいない。しかし言語が行為から離脱し、それ自体で主張されだし始めると最早我々は言語を問うという状況から、言語から問われるという状況へと転落する。言語は生活上のオブセッションとなり、クリックして常に先へ先へと押し遣られるネット・サーフィン中毒症状にも似たシーニュをそこに介在させる。冗長的な言辞、饒舌なる日常会話の連続は問うことへの恐怖が生み出すものとも言える。

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