Saturday, October 17, 2009

B名詞と動詞 7、 名詞と動詞を中心とした様相的変化認識と理解及び記憶の構造における言語学的、大脳生理学的、行動遺伝学的考察によるアプローチ

Ⅲ‐<動詞>と『感情表出抑制』を<目的語のみを報告させる省略>で遂行させる常套性(西田のリッケルト解釈が示唆するものとの合一において)

 さていよいよ動詞と名詞に関する洞察へと赴いていこう。まず結論的に言って陳述において名詞は目的語か主語において表示されるということである。そして我々は人類が言語による意志伝達においては名詞と固有名詞とは異なったものであった、と思われるのである。固有名詞はまず個体に対して我々共同体(同一種個体同士の寄り合い)で発達し、名詞はそれよりずっと後であり、しかも最初は生存に最低限度必要なものに限られていたということである。しかし徐々に名詞の数は恐らく動詞の行為性や動作性の複雑化に伴って必然的に増加し、細分化規定性を生じていったのであろう、と思われる。
 コミュニケーションは徐々に意志伝達上の必要性、報告義務に伴う責務性とそこから離脱した個人間の友好的な意志伝達性、感情表出が伴っていったということである。その過程ではより感情表出の必要性の大きい場合と、そうではない抑制し合う場合とが分岐し、コミュニケーション自体の在り方に多様な表現可能性を付与していったと思われる。
動詞は生涯を開発エンジニアとして過ごし、晩年には技術翻訳も行い、俳句を作り発表し、その俳句を言語学的に捉え、言語論を書いた西村佳寿夫(1925~1991)<筆者の父>によると「主語とか目的語の有する十全な規定の内から部分集合をつくる、そのつり方である。」と言う。そして全体規定としてはフッサールも使用した哲学概念、「基体があり、その中の作用として主語と目的語を繋ぐものこそを動詞である。」と捉えていた。
 基体は身体存在的にも我々が我々自身を明確に規定し得る行為性の可能性を支える意識やストローソン的な視点から言えば自己存在を明示し得る能力ということとなり、カテゴリー的な主体としてカント的にも発達心理学的にも認識出来る。
 フッサール的に捉えれば知覚充実は思惟、反省幻滅を喚起し、逆に思惟、反省充実は知覚幻滅を来たす。そして知覚充実が関心によって喚起されることは間違いなく、関心は経験やそれによって醸成された知識、価値観といったものによって支えられ生じる。知覚充実は記憶を促進し、充実された知覚内容は、その記憶される時の経験判断によって一部概念化され、一部エピソード性として情景的に、視覚映像的に記憶像として収納される。そのデータファイルの検索こそが想起である。追憶を履行することである。
 想起は記憶の引き出しであり、記憶作用は記憶されたものによって構成され、それを引き出しつつ全体的に価値判断するような関心自体の様相によってその記憶される内容とその意味合いを変える。同じ海を見てもサーファーと漁師と気象予報士と海洋生物学者では全く異なった記憶内容と意味合いを生じさせるであろう。関心は主要な意識の対象であり、その都度の生理的状況性(おなかがすく、とか便意をもよおすとかの)に関わりなく長期持続することの出来る生の目的性や意義をそこから派生されるような心的様態である。
 関心が意志伝達を動機付ける。関心からではなく、致し方なく自己よりも上位の他者に接する時さえも、我々は意志伝達にはその他者に自己のスタンスを真意からにせよ、偽装にせよ、明示することを目的にコミュニケーションを行う。それは自己防衛でもあり、同時に自己主張でもあるような、フロイト的に言えば「自己保存欲動によって無意識に選択された行動」である。意志伝達という行為をそのようにまず捉えてから文章構造論へと移行する必要がある。
 結論的に言えば全ての文章は主語+動詞+目的語(構造論的に認識するのと、英語をモデルとして考えればそのような語順になる。日本語では主語+目的語+動詞になる場合が殆どであるが、その間に助詞が挿入されるが、これは言語ニュアンス的、意志伝達性への配慮に関した事項と考えられるので、本論においては思考除外する。後日またその部分での考察は必要であろう。)であり、それ以外の主語+動詞+補語や主語+動詞という形は全て主語+動詞+目的語の変形であり、しかもそれは目的語の省略ではなく、文章それ自体が目的語そのものであり、その目的語に対する主語と動詞の省略と捉える。これがまず大きな本論の骨子である。

 そういったことを論証する前に多少もっと一般的なことから考えてみよう。
 大学とは一般的に一般教養的レヴェルの知識や見識、常識を学習するところであるのに対し、大学院とはもっと掘り下げた研究領域、大学が客観的な事実確認の場であるなら、主観的、微視的に深化された部位に対する知見の洞察の場である。それは我々が日常で何か発言したり、友人との会話で発したりする一言に似ている。大学的教養が一般的で常識的に役に立つ幅広い見識であるとすると、それは我々が日常的に抱いている経験的知識と言語能力(端的に言えばその人の語彙選択能力のことであり、語彙の豊富な人間は意志伝達に際して感情表現において多くの選択肢を持つことになるから当然の如く、微妙なニュアンスも表現出来、深い洞察も可能となる。)によって構成された思惟や反省の内容をも決定してゆく思想全般、もっと言えば記憶と学習とその経験的な条件反射をも生む人格である。思想として構成されている人格はその意味で言わば「語り得る意味」の世界である。するとそこから我々は語彙や各論的意味を引き出し、語彙選択し、経験的知識によって他者を査定(信頼出来るか、あるいはその人の学識や能力、性格的相性<自己にとっての>を一瞬で判断する。)してコミュニケーションに望む。だから試験の際には面接において面接官には出来るだけ好印象を与えようと苦慮するのである。
 コミュニケーションにおいてなされる会話では伝達内容やそれに伴う語彙がその都度選択され、それをどのような形で伝達すべきかは、その伝えるべき他者への査定によって、親しさ、社会的な自己との関係とかの所謂会話を成立させる上での戦略の基盤となり得るものに応じて選択されるのである。選択された伝達内容を他者へ語るのは、自己内部に意志伝達の行為意志がなければ成り立たない。フッサールが動機付けと語ったものもこれである。しかし会話上ではある陳述内容が、それ自体では主語、動詞、目的語とかの言述的な自立構造を有していても、その言述自体が対象化される。このこともフッサールは「論理学研究」4(249~250ページより)で述べている。「名辞によって表現される対象」、と彼は言っている。願望、質問、命令はそれ自体言述によってなされる自立した作用であるが、それはその発現自体が過去のものとなると、次になされる会話内容においては過去データという一要素になるのである。ある発言をコミュニケーションのパートナー同士のどちらかが言えば、それはその発言自体、発言をどちらかが発したという行為事実自体が対象化されるということをフッサールはここで述べているのである。そして彼はこの事実を諸作用の充実する直観と言って分析している。
 「いろいろな文法的形態とそれらの表意によって表現されているのは、願望そのもの、命令そのものなどではなく、それら諸作用の直観、すなわち充実する直観である。言表文と願望文を同位におくべきではなく、事態と願望を同位におくべきである。」ここで言われているのは、ある言述の内容が如何に真意に満ちたものであり、また如何に直裁であったとしても、その語られた内容そのものが重要であるばかりか、それ以上に<そういう内容を、今この時点でこういう風に他者(意志伝達の相手)へ向けて発するという行為を選択していることをあなた(意志伝達の相手としての)に表明している私と、それを当然の如く受け入れているあなた>のつくる状況的なことへの直観、つまりこの状況的な意味理解である。だからこそさっき言ったこと、今言ったことは、全て過去のデータとなり、会話している者同士の共有財産になり、「それは違うよ。」というように次の陳述を促進するのである。
 フッサールは哲学者としては、そういった複雑な意志伝達上の綾を言語を中心とした論理の追究に関しては「論研」期に特に集中して行い、寧ろその後「イデーン」期においては、そういった言語的遣り取りそのもの、つまりコミュニケーションを成立させる基盤としての動機付け(モティヴェーション)を重要視し、主軸に論的展開を行った。そこでは自己_他者の相関性が論的対象として認識されている。しかも筆者の研究領域とする偽装心理学的な視点も既に提出している。それは次の箇所である。
 「(前文脈、省略)ここで特に注意すべき点は、そのような形式で表明される主観的な判断の場合にも、事象的な反論がなされえないということである。確かにそれら主観的判断も真か偽かのいずれかであるが、しかしここでは真理と誠実性が一致する。ところが《客観的なもの》についての(すなわち自分自身のことを語る主観とその諸体験にはかかわりのない)諸言表の場合には、事象についての疑問は[言表の]意味に関係し、そして誠実性についての疑問は<本来の正常な意味作用をもたぬ、見せかけの言表の可能性>と関連している。[そのような言表の場合には]全く何も判断されず、言表の意味は錯誤志向(ドイツ語略)と関連して表象されるのである。」(「論研」4、251~252ページより)
 つまりこういった言表における真意表明性でないものとは、要するに自己の主観に相容れないような言述は、それだけで真理と誠実性の一致がないわけだから、偽装となるのだ。だからもし仮に間違った事実を報告してさえ、それを真理であると信じて疑わない限りで、真意表明性においては全うされており、「あの時言ったことは間違っていた。」と言いさえすれば、信頼関係においてその言述をした人間は何ら人格的にも(職業的には多少その学識と能力を説明責任上、信頼失墜することはあり得るが。)信用を失うことはない。嘘をついているのではないのだから。
 さてフッサールがこのように誠実性といった概念を提出したのが「論研」期最終章近くであることが、象徴的に以後の哲学的推移を髣髴させる。というのもこれ以後彼は論究的には言語自体ではなく、言語的コミュニケーションを成立させる基盤としての大脳神経学的な究明に通じる生理学的判断作用へと向かうからである。
 だがフッサール現象学にはもう一つ極めて特徴的なこととして、イデアの存在を明確に認めていることである。その意味では後代の哲学者がそれを排除してゆく努力の基盤を提出したとも言える。だが我々はこういうことも言える。どのような時代の古典でも我々の時代において必要とされるような真理を言い当てている。そしてそのテクストが我々の時代に相容れないもののみを度外視して、必要な部分のみを我々は咀嚼してゆけばよいのではなかろうか?(サルトルがフッサールに対して批判しつつ咀嚼しているその姿勢に我々は学ぶことが出来る。)現に我々は他者の言った発言の中で、あるいは自己が発した発言の中で今現在に必要な要素や性質のみを抽出して次の会話、その引用される会話からすれば未来の会話に活かしているではないか。これは先述した過去のデータの対象化にも通じる。フッサールは兎に角、イデア論の為の方法論的な論的展開に極めてカント的手法を多く取り上げている。だから恐らくこういった部分から場所的論理で有名な西田幾多郎は「認識論における純論理派の主張について」ではフッサールと対比的に取り上げた西南学派のリッケルトの方により明晰さに関して軍配を上げている。(筆者はまだリッケルトを読んでいないので、そのことに関しては後日の課題としたい。)西田のリッケルトに纏わる謂いをいくつか断片的に引用してみよう。この引用は本章の論点にも密接にかかわると思われる。

「純理論派はその議論の出立点として認識の可能なることを仮定している。認識といえば無論、客観的知識の意味である、客観的でない、真でない認識というのは自家撞着である。それで、何らかの意味において客観的知識即ち真理というものが可能でなければならぬ。しかし此処に客観的知識というのは決して経験界以外の実在界の認識という意味ではない。かくの如き認識を仮定するのは非常なる独断である。ただ何らかの意味において個人の意識以上に何人も一致すべき一般的、必然的知識がなければならぬというにすぎぬ。こういう仮定がなければ認識論の問題がない、即ち認識論というものが無くなるのである。この考はリッケルトの『認識の対象』(ドイツ語省略)において明にこれを認めることができるが、純理論派一般の出立点であると思う。」(12~13ページより)①
(前略)「リッケルトは次のように言っている。「疑うということは問うということである。問うということはこの断定が真か、反対の断定が真かということである。いずれにしても一が真でなければならぬということを仮定しているのである。」(ドイツ語省略)(13~14ページより)(後略)②
「(前略)さて苟しくも客観的即ち一般的知識というものがあるとすれば、そはこれを知るところの個人的主観を超越したものでなけれならぬ。真理はこれを知る知的作用と関係ないものである、誰が何を考えても同一のものでなければならぬ。否人が考えると考えるとに関せずそれ自身において不変のものでなければならぬ。重力の法則は始めてニュートンが考えたものであるが、ニュートンの思惟作用と重力の法則という思想とは全く別個である、重力の法則はニュートン以後にもこれを考えたかも知れぬ。こういう考はリッケルト及びフッサールの極力主張する所である。それであるから個人的主観の事実から一般的真理の規範を立てることはできぬ、誤った思惟も正しい思惟も共に同一の事実である、「かくある」ということから「かくあらねばならぬ」という規範を立てることはできぬ。真理の基礎は真理其物の性質に求めるの外ない。(15ページより)」③
「(前略)リッケルトが1909年の『カント研究』雑誌の掲げた「認識論の二途」(ドイツ語略)という論文によれば、この対象を求める途は二つあるといっている。一つは事実上の知的作用を分析し、真といわれる知識の対象を明にして、これによって超越的対象に達するのである。これを先験的心理学(ドイツ語省略)という。もう一つは知的作用を顧みず、先ず直に超越的対象を論ずるのである、これを先験的論理学という。リッケルトが『認識の対象』において取ったのは前者であるが、氏の考えでは、前者の出立点は心理現象である。心理現象からはどうしても超越的対象へは達することはできぬ。前者の方も勿論欠くべからざる研究ではあるが、むしろ後者の方を主とした方がよいというのである。
 それでは知的作用の外に認識対象を研究すべき事実があるであろうか。リッケルトはかくの如き事実として文章Satzをとるのである。文章にも知的作用のように真ということがある。かくいえば、真に文章は我々の思惟作用其者が真であるのではない、思惟されたものが真であるのである、即ち思想Gedankeが真であるのである。(18~19ページより)」④
「『認識の対象』の方においてはリッケルトもなお先験的心理学の方法を取ったのであるから、右の対象を現わすのに当為Sollenという語を用いているが、当為という語は要求、規範、規則などの語に似て、なお主観的色彩を脱することができぬ。「認識の二途」において意義、価値などの語を用いて、客観的意義を明にしようとしたのは、純理論派の考としては一歩を進めたものといわねばならぬ。先験的心理学の方では我々の心内の経験たるEvidenzgefuhl 、Urteilsnotwendigkeitということを根拠としてこれから意味とか価値とかいうものの仮定に進むのであるが、この方法ではいかにして此の如き精神現象の中に超越的或者を見出し得るかを説明するのは困難である。これに反して超越的論理学の方から先ずこの対象が明になって来れば、右にいったような感情、即ち内在的標準たるものが精神現象でありながら而も超個人的意義を有し、内在的でありながらも而も超越的意義を有することを明にするのは容易である。何となれば意味とか価値とかいうものは超越的であっても、とにかく我々がこれを理解する以上は我々の知的作用の中に単に主観的状態以上の意味がなければならぬわけである。この意味を現わすものがEvidenzgefuhlという如き内在的標準である。但し此処で如何にして我々は超越的価値を知り得るかという問題が起こってくるのであるが、リッケルトはこの問題は認識論において不可解であるといっている。(後略)(20から21ページより)」⑤
「(前略)リッケルトに従えば主観と客観の対立は、三通りに分けられる。第一は自己の肉体と肉体以外の物体界との対立、第二は自己の意識と意識外の超越界との対立、第三は自己の意識とその内容との対立である。この三対立の中第一の方は認識論と何らの交渉もないが、認識の対象が超越的でなければならぬといえば、第二の対立の意味において我々の意識内容という如きものであったならば、第三の対立においてのように更にこれを内在的対象として見ることのできる即ち真の主観ということはできぬ。此の如き主観に対してならば、超越的でなくとも我々の意識内容に属せぬ実在は皆客観として対立することができるのである。(後略)(24ページより)」⑥
「(前略)認識の超越的対象というものは何らの意味においても内在的対象即ち意識内容となることのできないものでなければならぬ、苟くも我々の知覚、感情、意志と関係するものであってはならぬ。リッケルトは知覚、感情、意志の心理的作用其者も認識主観より見れば既に内在的対象であると言っている。(後略)(24~25ページより)」⑦
「純論理派を叙述するといえば、フッサールやコーヘンを充分に研究するべきはずであるが、余の知る所ではリッケルトとフッサールとは大体において同一主義の人であり、特にリッケルトが近来主張する超越的論理学において知的作用を超越する客観的価値を説くあたり、益々フッサールに近づき、フッサールよりなお一層明白にフッサールの言おうとする所を言い顕しているではないかと思われる。しかのみならずリッケルトなどはカントより出ただけ、それだけ認識論的問題を明にしているようである。(後略)(25ページより)」⑧
「(前略)規範とか当為とかいう処に基礎を置いては、到底主観的意義を脱することができないのであるから、リッケルトは「認識論の二途」において意味とか価値とかに客観性の基礎を求めるようになったのである。(29ページより)」⑨
「(前略)純粋経験の統一は当為である、規範である。規範とか当為とかいうことは意味の要求であって、即ち我々に最も直接なる何らの仮定なき経験の自発的傾向である。リッケルトが近来全く主観的認識作用を除去して単に価値より出立せねばならぬというのは、一方より見れば、一層純粋経験の立場に近づくものと見える。純粋経験の世界は価値の世界である、意味とか価値というのが経験の直接的状態であって、或主観がこれを知るという如きは後から附加した考であると思う。カントが経験的統覚に反して純粋覚を明にし、リッケルトが先験的心理学より先験的論理学に転じたのはかえって純粋経験自発の真面目に到ったものと見る事ができる。(後略)(33ページより)」⑩
「(前略)リッケルトのように論理的範疇によって経験せられぬものは経験といわれぬといえば、議論は単に名称上のこととなるのであるが、論理的判断の加わらない前に既に直観的或者があるではないか。リッケルトはこれをdas Ursprungliche,das Bekanntesteではあるが、das Vorbegrifficheとして不可解であるとしている。(中略)此者の論理的に不可解なることはいうまでもなきことであるが、論理的に不可解であるから、混沌たる雑多であってすべての意味において無意味であるとはいわれまい。我々の具体的生活は論理的にその根柢を理解することはできないかも知れぬが、意、意と相触れ、情、情と相応じ、知情意未文以前経験の具体的体系を有するものとするならば、理解以前の理解ということもあり得るのではなかろうか。(中略)いわゆる純理論派はこの点に対して余りに独断的であると思う。(34~35ページより)」⑪
「次に如何なる知識も既に論理的規範を仮定しているという議論について純粋経験からの考を述べて見よう。リッケルトなどは直接経験ということはKateogorie der Gegebenheitに当嵌まって始めて認識となるという、例えば現前の色覚は「この色がある」という判断の形となって始めて認識となるという。此の如き考は極めて深く鋭き考ではあるが、元来、経験の直接状態というものがあってKateogorie der Gegebenheitがあるのであるか、この規範があってかの状態があるのであるか。意識がなければ論理的規範が現われぬといい得るでもあろうが、後者がなくとも前者があるということは、前にもいったように、リッケルトなどでも許している。もしかく考えるならば、意識は規範以外に立つものであるということができる。「ある」というのは既に論理的規範であるというかも知れぬが、意識するということはとにかく規範的「有」の以前になければならぬ。このdas Vorbegrifficheは余の主張するように、統一的、発展的のものである、規範は意識以外に別個の根源を有するのではなく、この中に含蓄的なるものが発展につれて、顕現的となってくるのではなかろうか?例えばKateogorie der Einheitについていえば、直観は即ち統一である、而して我々がこれを体験するという時既にこの統一を破るといっている(中略)。しかしかく反省することのできない、思惟の対象とならない直接の活動的統一を反省していわゆる統一範疇が出て来るのではなかろうか。(中略)経験の発展なくして思惟の発展があり得るであろうか。勿論右の如き議論に対しては、純理論派からは、これ即ち意味と事実とを混同したものであるという反対が起こるであろう、リッケルトは白色の知覚作用は白にあらず、理解作用は真にあらずといっている。(37~38ページより)」⑫

 ここで西田が考える意識や理解とは理解以前のもの、判断や認識以前のものである。その言ってみれば即自的現前の然る後に、と言っても瞬時であるが立ち現れるのが論理的規範である。この物の見方は故に即自的ではない。対自的、客観的である。ヘーゲルにとって「意識と世界との区別は自体としてあるような区別ではない」から、その言ってみれば境界の曖昧さを克服すべきであるという姿勢から例えば自己と他者の峻別は「否定さるべきもの」という様相によって始めて認識されるのである。この否定の論理はサルトルにも多大の示唆を与えたが、西田の意識はヘーゲルやサルトルが行ったような意味では存在論的ではない。今日のように存在論が不在である時代には寧ろ自然に我々には感じられるが、ここで西田の言う意識はヘーゲルのように区別するものとして立ち現れてはいない。西田が言うリッケルトの「この色がある」(⑫参照)という判断が認識を形成するも、それ以前にも我々はその色を知覚してはいる。勿論言語を有した我々はすぐそれを「ある色」として識別するが、識別されることのない、例えば言語習得期以前の、あるいは臨界期の子供には寧ろその色が白であるとか黒であるとか以前にまずその色の現前的な性質が感知されるだろう。しかしそれは理解以前の理解であり、我々が言語で世界と社会と他者と対峙してゆくこととなる現実に対して自己固有の世界や現実に対する理解の仕方(それがある個人の固有の意味、体験性に根差した真の意味<概念化作用以前の>である。)があり、それを手掛かりに我々は林檎を林檎として、テーブルをテーブルとして、世界を世界として認識する。だから当然ある人間の林檎と別の人間の林檎とは概念化された意味では共通の事物ではあるが、その持っている意味は異なる。港に打ち寄せる波が気象予報士にとってと、漁師にとってと、観光客にとって意味が異なるような意味での相違である。
 西田のリッケルト解釈において示されているように直観によって支えられている概念化以前の意識は、あるいはこう言って差し支えなければ「個的な意味」、概念化と意味自体を個の内部で醸成する個的で「根源的な意味」はカオスである。そのカオスに形を与え(その与え方はそれぞれ異なった仕方でであるが)語られる対象にすること(意味の統一)、ヘーゲル的に言えば否定されるべきものとしての別の事物と区別されるべきものにそれ固有の意味を付与してゆく行為が言語的思考であり、意志伝達に依拠した言語概念化の作用である。少なくとも西田の謂いを信じればリッケルトが言う価値とは事物や対象を意味として捉えること自体であるように思われる。それはカオスの統一化作用そのものであり、西田が言うような先験的心理学から先験的論理学に移行させることをリッケルトが実際なし得たとするなら我々は彼の業績の中に明らかに、内観心理学の欠落を補うような意味での現今の大脳生理学、神経学の考える脳内の論理的思考、思惟の自然に向き合おうとするスタンスを読み取ることが出来るであろう。
 そこで西田がリッケルトを通して得た考えから我々はこう結論することが出来よう。「根源としての意味」はカオスであるが、それを統合することで「価値と置換し得る意味」が生じる。その「我々自身にとってア・ポステリオリな意味」は、しかし「超越的なもの」であり、それは「経験の綜合あるいは統合」という我々の当為によって現出する。そして認識とは「意味を価値と置換し得るようなものへと統合する際の判断によって生じる」。
 西田が採用する哲学的態度は仮にそれが芸術や宗教に触れていても、基本的には客観的な科学者のそれに近いと思われる。それはこの意識を客観的に捉える姿勢に起因する。
 さて西田がリッケルトから引き出して意識内容に属さぬものを皆客観と呼ぼうとするものとは明らかに名詞的な把握である。名詞はその対象が何であっても静的なものに還元される(たとえそれが動きを伴ったものであっても、その「動き」自体は出来事として事後的に報告出来るし、想起においてもそういう風に内容として認知し得る。意識それ自体は即自であるが、その内容は対自である。その意味で意識を真に主観的であるとしなければ、それ以外の自己とは無関係に存在する事物や世界の構成要素は全て客観となり得る。(⑥参照)それはヘーゲルが言う「否定されるべきもの」である。自己と峻別化されたものである。名詞はまさにそういうものとして認知されたもののことである。
 これに対して動詞はどうであろうか?動詞はあらゆる主語になり得る対象(名詞)を再現前化しようとする。それは仮に止まったものでもその止まったもの自体を発話する記述する自己の側からの関係において把握しようとする限りで志向的である。故にそれらは名詞と名詞を繋辞する志向的関係の示唆であるから、「私」が主語であれば必然的に自己の側へ引き寄せられる。客観と客観の主観化である。(「私」もまた客観である。)フッサールが「経験と判断」において言う「対象が規定をうけるのは、つまり、経験的にあたえられるのは、経験的行為においてである。」(288ページより)ということは、対象は経験によって始めてその意味を持つということである。その経験行為とは一つの文章においては明らかに動詞が示す役割である。
 勿論動詞によって繋辞される名詞であるところの目的語は主語と同等ではない。目的語はあくまで主語にとっての対象であるから、西田が言うような意味では客観的である。先程主語を客観的と言ったが、それは文章構造成立基盤においてであって、語る主体にとってはあくまで主観的な位置にある。だから主語は発話上では省略されることがあるのである。「昨日東京へ行ったんだよ。」という風に。そして目的語は動詞によって性格付けが行われ修飾され限定される。そこで我々は目的語に対する主語の志向性を理解し、主語の側からの目的語の関係を知る。しかしだからと言って陳述において常に主語が一番重要であるわけではない。
「昨日私は東京へ行った。」というのは私が行ったのは、語る本人がここにいるのだから、第三者のことを語る場合以外はあくまで私が陳述の最重要事項ではない。あくまで東京が最重要である。そういった陳述において主語よりも目的語の重要性を強調したものこそが、形式的に目的語のない文章であり、その文章は目的語を有していないのではなく、あくまで文章全体が目的語の位置を占めるのである。だから主語+動詞だけの文章とはあくまで便宜上の構造解釈であって、その文章まるごと目的語であるのだ。だから「昨日東京へ行った。」は東京が目的語である場合は、既にコミュニケーション上では何処かへ行ったこと自体が会話上で話題にのぼっているか、あるいは休暇なのか仕事なのかにはかかわらず、兎に角何らかの行為をする時間の使い方に対する会話上の話題の素地は出来ていて、その場合に成立するのである。しかしまたこういうことも考えられる。それはこの文章全体が目的語である場合である。こういうシチュエーションを考えてみよう。ある人間が自分が一度も東京へ行ったことのないことを知っている別の友人に電話している場合である。この場合その友人に向けて発話される陳述においてある人間は「東京へ行った。」こと自体を目的語にして完全な構造形にすると、「私はあなたに<東京へ行った。>ということを伝えたい。」という意識内容になる。それは報告したいという願望によって支えられた陳述であり、その感情の表明であり、<東京へ行った。>という事実が目的語なのだ。だから仮にその陳述が「昨日東京へ行った。」であったとしても、東京へ行くことがその本人にとってそれほど大した「ハレ」でない「ケ」とすれば、東京が目的語となろう。しかし今語った電話で報告したい地方に住むある人間にとっては、その陳述自体が目的語となる。
「彼は警察官だ。」という文章は「だ。」が動詞(断定)であるから補語が警察官であるが、これも目的語はある。警察官という職務についているからこの陳述の意識内容は「彼は警察官という職務についている。」である。ここで目的語は警察官という職務である。しかし「彼の職業は警察官だ。」となると警察官が補語になるだけである。しかしこれも例えば警察官の汚職が社会問題化しているような状況下で、彼が真摯な性格であることを知る人間が彼の潔白を主張し、敢えて「彼は警察官だ。」と陳述する場合、あくまで「彼が警察官という職務に付く真摯な性格の人間であるから<そんな犯罪に加担するようなことなどする筈はないから>彼を信じる」ということ(意識構造)、「私は(彼は<真に>警察官である)ということを信じる。」ということが文章全体の意識内容であるから、当然「彼は警察官だ。」はその文章全体が目的語となる。
 例えば「中山という男がいる。」とか「ピカソという芸術家がいた。」という陳述はその陳述自体の意識内容は「(中山という男がいる)ということをあなたに伝えたい。」(太字が目的語)である。また「(ピカソという芸術家がいた)ということを皆に思い出して欲しい。」である。勿論他にも色々考えられる。中山が極悪な犯罪者であるなら「こんな奴のこと思い出したくもないが、君にも罪を犯した中山の存在を伝えておかなければ。」ともなるし、見合いを勧める人間なら「私の知人で中山といういい男を知っているが、あなたに紹介したい。」ということの省略である。
 あるいは「私は東京に住んでいる。」も「私は(東京に住むこと)を選んでいる<が、それを気に入っている。とか、本当は引越ししたいということを伝えたい。あるいは君にもすぐ近くだから遊びにきて欲しい、ということを伝いたい>。」という意識構造が考えられる。「選んでいる」が背後で語られる動詞ならそれは既にどこに住んでいるかということが話題に上っているのである。それに対して<>の中の陳述が省略されている場合、真の目的語は(東京に住むことを選んでいる)になる。これらのことを図式化すると次のようになる。

中山という男がいる。→ということを‐伝えたい。(あなたに彼のことを知っていて欲しい。)
→ということを‐知っている。(あなたは彼のことを私が知らないと思っているようだが、私も知っているよ。)

伝達意欲(願望)、伝達誠意(知らない人に報告してあげる)、伝達責務(報告義務)、言わば報告欲求か誠意の伝達か社会的な使命による伝達か、いずれかの範疇に属すのが、主語+動詞+補語、あるいは主語+動詞だけの文章、目的語のないようでいて、陳述それ自体が目的語である意識構造の文章である。
[勿論( )の中の陳述はあくまで例証であるに過ぎない。他ケースもあり。]
 文章というものも述語論理的な文章である場合と、そうではなく命題論理的な文章である場合もあり、それはその場その場の陳述される文脈上のケースによって変わってくる。そういう意味では文章自体は相対的であるが、意識構造においては明確な目的語が備わっているのである。だから「東京に住んでいる。」がどのような意識構造であるかによっても、

私は(東京に住んでいる)という生活を 楽しんでいる。

                   仕方なしに享受している。

ということをあなたに知らせたい、というのも私もすぐ近所に住んでいるから。

という風になるのである。文章自体の構造にはかかわりなく、陳述される状況性に依拠して、その陳述の感情論的意味合いあるいは意志伝達様相はその都度変わる。つまり言語行為はそれ自体が既に感情的な行為であるのだから、どの様な客観性を動詞の志向的対象という目的語の意味があってさえ、そこにはその陳述がそれを伝える他者にどのように受け取って欲しいかということが、発話者の伝達対象者としての対話手(他者)への信頼度や親しさの頻度にかかわらず必ず存在する、ということがコミュニケーションの本質である。しかし少なくとも主語と動詞が省略された文章自体が目的語であるような陳述でも、内包的には確かに主語も動詞も目的語も存在する。しかし文章全体が目的語である場合、それは通常よりもそっけなく語られるか、そうでなければ通常よりも感情移入して語られる機会が多いのではなかろうか?そうではなく通常であり、極めて論理的に装われて感情(ファナティックであってもそっけなくても)が隠蔽されやすい文章構造こそ、主語+動詞+目的語の文章であろう。しかし言うまでもなく、こういった文章さえも内包的に充実したつまり述語論理であるか、そうではなく外延的であり、主語や動詞が省略された形であるかは、その発話上の語調が標準(この数値も難しいのだが。それはその対話者の平均化されたものと言えよう。)よりそっけないか、ファナティックであるかによって判断するより他はない。だから「中山という男がいる。」という陳述がもし、「中山なんて男はいなかったぞ。」というもう一人の話者の発言があったとすれば、これは「私は(中山という男がいる)ということを確信する、信じる。」ということの感情表出であることとなる。その場合はファナティックな語調になるか、冷笑的に上位者によって下位者に対してなされる<諭すような言辞>になるかのいずれかが通常である(こういった場合にどちらでもない場合は説得力を半減させるからだ)。
 西田がリッケルト解釈において「超越的でなくても我々の意識内容に属さぬ実在」と言ったものは、我々にとって一見無関係に思われる全ての客観的事物とか対象(関心ある客観的事物とか対象とは関心事項であるから既に主観的対象でもあるのだ。)である。「そっけなさ」は、自己と無関係であるものに対する無関心によって引き起こされる。次章で詳しく進化論的生物学の認識とのかかわり合いにおいて述べるが、真に無関係であるよう対象的事物などというものは少なくとも可能条件としては存在し得ないのだが、と言って全ての対象(可能性としては全ての事物は対象であり得る。)へと関心を注ぐことは不可能である。そこで「意識の生存戦略」として無関心のものに関しては、論理的に主語+動詞+目的語として陳述するほどのエネルギーを費やすことは差し控えねばならない。しかもたった一つの些細な事実報告にまで論理的筋立てで陳述することはエネルギーのロスになるだけではなく、無関心のものを論理的に陳述することは消耗故に嫌悪的感情表出ともなり兼ねない。たった一つの事実をも陳述することに感情を一々表出していてはたまらない。これが「何故文章形式上目的語を省略する必要があったのか?」という問いの答えである。あるゆる省略は目的語に限らず感情表出抑制の役割がある。
 「昨日東京へ行ったんだけど。」という言辞に対して「誰が?」と問うことは、二人で対話している場合にはスットンキョウな質問であろう。誰か第三者の話をしている限り「私が」という主語を入れる必要はない。推察するに言辞に感情を直接表出することが意志伝達の続行において、生存戦略上の「他者からの信頼獲得」というメリットにおいて支障を来たすことが多かったのであろう。そこで主語+動詞+目的語というように一々全部語ることで生じるエネルギー消耗に関する不快感情を必要性において目的語を反故にして省くことが、単純事実報告の体裁を「建前」において採ることで、感情表出を払拭することを促したと思われる(それこそが「素っ気なさ」だ)。単純事実報告は、それが感情表出を差し控える為に、敢えてそれをどう思うかという陳述(この場合主語+動詞、あるいはもう一つの目的語である。例えば「あのアイドル歌手が結婚したって。」というのは「そんなに興味がないけどあのアイドルが結婚したって言うことを一応伝えておくよ。」の省略である場合も多いし、もう一つの目的語使用とは主語+動詞+目的語+目的語である。「君に伝えようと思うあのアイドル歌手が結婚したことを僕はそう大したことと思わない。」ならばいっそ話題にしなければいいのと思われるが、会話上では沈黙の長さを埋める為にしばしばこういった会話はなされる。)を省略しているのである。それは「感情表出の抑制意図を隠蔽する」為になされる簡略化という名の体裁付けである。だから形式的に目的語のない文章はそういった諸事情から必然的に簡略化されているだけであり、必ず意識構造的にも意識内容的にも目的語を背後には有しているのである。

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