Thursday, October 22, 2009

A言語のメカニズム 10、「生活」と「人生」、言語活動の段階的推移

 学者の世界ではある専門用語に依拠した非専門家に対する軽蔑、その専門家以外のどのような優秀な人々も排他し、専門家同士にのみ付帯する利害を死守しようとする歪曲したギルド意識は、それ以外の多くの世界で見られる。芸能界や放送業界ではたとえ夜中であろうと、仕事に入る前は「おはようございます。」なのだそうであるが、これなどもその典型例であろう。芸術家のコミュニティーによく見受けられるある種の反体制的倫理観の有無を巡っての踏み絵的仲間意識。風俗業界での極度に他者のプライヴァシーに一切口出しするべきではない、という歪曲的個人主義や共産主義。あるいは金融界やビジネス界における日本式「本音と建前」的使い分け主義や、偽善を承知で不文律化した常套的社会モラル。伝統芸能や国技の世界でのタニマチ的後援会を中心とした他では絶対見られない閉鎖社会。殆んど既得権益者のためだけの利権集団化した政治家の世界。出版企業界における公称と実情との本音と建前的使い分けのご都合主義。放送業界自体を手玉にとる一連の特殊広告業界の政財界との癒着など、枚挙に暇がない。こういった真意を包み隠し、偽装化されたコードにおいてその洗練さで職業的プライドと業界的仲間意識を構築している閉鎖的社会機能維持の責務感は、複雑化した社会機構とスピードアップされた業務処理システム自体がもたらしたものであるが、それよりも言語における意味の喪失と、常套的概念の必要以上の肥大化がもたらした側面の方が大きい、と思われる。言語活動自体に創造性がなければ、そこで執り行なわれる行為自体も形骸化しようというものである。ある規格化された概念以上の使用を認めないという考え方が全ての世界を閉鎖社会へと押し上げる。化学の世界で物理学用語を使うことが憚られた時代も長かったが、世界の自然科学の趨勢を見ればこのような御仕着せが甚だ時代遅れのものであることは明らかである。アートの世界でデザインを見下す感情は多く見受けられるが、デザインが20世紀以降にもたらした多くの業績を見れば、それらは哲学が科学と一体化したかつての栄華から科学の一人歩きによって哲学自体のアイデンティティーを追求しだしたここ2世紀間位の動きにも似て、アートの世界の自己同一的レゾン・デ・トルの一つの現れでしかない。つまりこういった歪曲化した閉鎖社会の仲間内での暗黙の秩序死守性は、ある種のイニシエーションを新人に対して課すわけだが、これはとどのつまりかつてのマフィアの常套的なイニシエーションにも似ている。留守番電話がヤクザ社会によって一般にも普及したり、ヴィデオがアダルト・ヴィデオによって一般化したりということは、ジャズや当時の映画を含むエンターテインメント業界が本場アメリカではカジノや飲食店、売春組織の総元締めたる当時のマフィアたちのビジネス手腕によって世界に普及したことなどを見ても何ら珍しいことではない。実際我々は仕事の息抜きにクラブへ出かけたり、ショーを見たり、酒を飲んだりといったことを古代より延々と繰り返してきた。もし学術書や専門書しか読まず、人と一切の社交をたち、酒さえ飲まない学者や芸術家がいたとしたら、その人たちは現実社会の様相を無視した閉鎖社会的住人の一人に過ぎまい。
 我々は知らず知らず内に一見反省がなく淡々と流れてゆく時間の中で閉鎖社会の恩恵にどっぷりと漬かり、いざそのことに気付いてみてもなかなか容易にはそこからは抜け出せないということを知っている。しかもそれはある種心地よいものでさえあるのだから。だからサヴァイヴァルサインとしての言語機能よりも「生活」を死守するための文化コードとしての意味を離れた概念的な常套性の肥大化した言語行為こそ、我々は最も警戒すべき隣人として自覚しなければならない。非常事態での責務を伴わないある種閉鎖的でいて、閉鎖していくベクトルになかなか気付けない、倫理観、世界観、人生観たちこそ密やかな潜在的洗脳力をもって我々の生活を侵食し、人生に反省する余裕を与えずに済まそうとするのである。偽装することを当然としたこの種の閉鎖社会的公序良俗は、しかし一切の偽装を排除することでナチュラルさを取り戻せるか、と言ったらそうもいかないわけである。
 車がなく、電話がなく、パソコンのない社会が既に不可能なように真意表明がサヴァイヴァルサインから離脱した言語においては価値的に偽装の合間に垣間見られるようなモラルでしかなくなっていることを招聘しているものの正体は、偽装と言って人聞きが悪ければ演技といってもよいのである。最低限の演技の出来ない人物がいたとしたら、その人は周囲の全ての人々から社会的落伍者、性格破綻者としての烙印を押されることだろう。場合によってはどこかの施設に収容されかねない。
 「人生」を左右するような大事は日々の「生活」的死守に較べれば遙かに少なく、人の一生において二度か三度、少ない人はせいぜい一回くらいなものである。その点日常的レヴェルの細々とした事実の積み重ね、生活スタイルの文化的コード、日々何ということなく交際する(ただ会話するだけの)友人から我々は何と多くの影響を被っていることだろう。言葉遣いや、言い回しの癖すらもが日頃親しくしている友人から影響を与えられる、(与え合うということもあるが、一方的な場合<つまり片方が極端な場合>もあろう。)その友人がどこか魅力的であったり、気が置けないということが大きく左右して、ついつい引きずられる、といういことは多分にあり得るのだ。
 つまりこういうことが言える。我々は自己以外の大多数が実際上それ以前なら慣用的にあり得なかったような言い回しや特殊語彙を使用するようになると、それに対する抗体による免疫拒否反応は次第に薄れ、それどこころかそういう言い方が自然なものとして定着してゆく、ということは決して珍しいことではない、ただの友人からの影響さえ被る我々である、他の大多数の言語行為において言い回しや語彙が実践され、そのことに対する懐疑さえもが、大多数から消滅してゆくと、そのことに関する限り、そのことに対する言及は、言語学や文法学や国語学の専門の大家ででもない限り、大抵そのことを疑問に感じることは、どうしても受け入れられないというもの(その内容は個人毎に異なっている。)を除き、注意事項からは消去されてゆく、という事態が往々にしてある、ということである。それは言語というものの慣用的性格、使用頻度による一般化的なコードである、ということと関係がある。とりわけ持って回った言い方で、それが仮に正しいとされるものでも、あるいは文法的にも正しくても言い難かったり、あるいは学術的に正しくても生活レヴェルでの使用頻度から次第に現実味がなくなっていったりしたものは、すべからく脱落傾向に瀕している(魚を「さかな」と言うことに比べ、「うお」と言うことは余程少ない。)と言える。
 なぜなのだろうか?はっきりとした理由は今断じることは出来ないが、それは言語行為がその時代、その時代における大多数の民衆によって育まれるものであるから、そのユーザーたる民衆の支持を得ないものは脱落し、幾ら為政者やその為政者に忠実な学者が奨励しても定着しないものは定着しないということがある、というわけである。これは文法的に矛盾する事態においても例外ではない、ということである。その証拠に、例えば「凄く暑い日だった。」が文法的には正しいが「凄い暑い日だった。」という物言いには会話上では(筆記上ではなく)何ら支障がないことからもよくわかる。「行かれる」と言うべきところを「行ける」と言うのも既に自然に感じられている。

 さて文法とか文章自体の構造よりも語順(日本語場合顕著)、アクセント(英語の場合顕著)による明示行為としての言語が問題となってくる。
「昨日私は銀行へ行った。」
の場合、何か嫌疑を掛けられアリバイとして発言しているとしたら「銀行」の部分が強調されるし、他の誰かではなく、他ならぬ自分が行ったということの強調なら
「私が昨日銀行へ行ったんです。」
となる。
 また昨日行ったことを強調するなら「昨日」が最初に来て更にその部分が強調される(語順だけでなく、同じ語順で全部を言ったとしてもストレスをそこに当てる)。強調の部分が一番大切な伝達事項であることは英語でも全く同様である。日本語だと私にストレスがかからるなら、助詞が、「が」になり、日本語でも英語でも方向とか場所の自己の行動との関係を強調するなら前者はこの場合「へ」の助詞、英語だと「to」の前置詞が強調されることとなる。このように文章自体を筆記すると同じ一つの言辞がその様相をがらりと変えることとなるような文脈上の事情と伝達意志の事情とによって差異を生じさせるもう一つの恣意性(本来の恣意性とは意味と意味との間の、あるいは概念と概念との間の差異が、音韻的差異においてのみ言い表されることを言うが)とも言えよう。
 エッセイの読者にとってある一つの文章はエッセイの全体を読まずにそれ一つを取り出してみても不明確な言辞であるのに対して、明確な意味づけがされている。前後の文脈上の展開過程で示される一言辞には方向性や志向性を明確に位置づける作用を持って存在している。小説においても同様である。小説は作家の自我の表出作用であるとも捉えられるが、小説のように文体そのものが大きな要素である場合、一個の文章は前後の文脈なしには何の意味も持たない場合は極めて多い。そういう意味では小説の文章は文脈的展開と作家の示す傾向性や志向性に沿った意図的布置を伴った恣意的な存在である、と言えよう。散文の持つ性質によるところも大きいが、文章というものがそれ一個の独立した在り方としては極めて曖昧なものでしかない、つまりいろいろの文章の組み合わせが意味を生じさせる、だから一個の文章はその意味に奉仕する一個の方向指示器であるか、概念指標的サインであるかとなろう。
 ちょっと話がそれるが、哲学の世界に経験論と合理論という考え方があり、まるで振り子現象のようにその二つが攻防を積み重ねてきたことはよく知られている。そういった二つの考え方は、ある現象を分析してゆく際に全く異なった物の見方が存在することを表わしているが、例えば遺伝子工学、遺伝学、分子生物学、心理学の世界でさんざん議論が戦わされてきた遺伝的(本能とも言えるが、そう言い切ってしまうと、個人差が隠れてしまう気がする。)ア・プリオリか、環境的(学習)ア・ポステリオリかといった議論において割りと多くの学者たちが自説を主張するために対する学説の主張を裏付けるような要素のある事例や真理に目をつぶり自説に有利なもののみを重要視する傾向が学者の世界にはある。それは一流の文学者や芸術家にもあてはまる。そういった現実を目にする時、我々は学問や芸術の世界においても政治が絡んでいるということを思い知らされる。何かの主張は、別の何かの主張に対する受け答えであり、その受け答えは前者に対するエールである場合もあれば、それを批判し、こき下ろすものの場合もある。それらが自説や自分の文学観や芸術観とかの主張と「生活」上の体勢保守の欲求が一体化していることは間違いのない事実である。すると言語はこの時、自説や自己の世界観を表現するための手段となる。他者との会話、対話がサヴァイヴァルサインを離れて文化的コードに沿った営みとなり、社会成員としての自覚醸成の一端ともなったパロールの歴史においてその会話、対話自体が目的化された、サロン性は実際上はあくまで建前で、真意の部分では論述することは科学や文化を語るという社会的責務としての題目とは裏腹に自己の「生活」死守と経済的な地位獲得と安泰を願う、そのために論敵をやり込め自己にとって都合よい状況を構築する為の方便にしか過ぎなくなる。ここに論理上の決戦において、文化コードの実践という側面から再びパロール(大学や企業での講義やプレゼン等の)もエクリチュール(学術書、論文、事業計画書等の)も手段、それは現代においては、古代のサヴァイヴァルサインと何ら変るところのない必須の、決死の行為となる。
 しかし学者の論文が極一部の有識者と呼ばれる人々にとってのみ有用な価値しか持たないものであるからと言って、では一般読者を多く獲得するような当代の人気文学者のエッセイのようなもののみが社会に有益であり、そのような専門的な論文など何の役にも立たないか、と言えばそれも違う。やはり専門である、ということは一般的理解の享受という意味では程遠いが、そういうものの中からは将来今を生きる我々が気付くことの出来ない価値を有していると再認される(大概がその時初めての世間的評価である場合が多いが)可能性があるのである。一般的にデザインは当代の人気を獲得出来ないものはアートに較べてまず前提条件をクリアしているとは言い難い。というのも多くのファンを獲得出来なければメディア(それが公衆の目にとまる媒介としての)の使命を全う出来ないからである。しかしアートでは一点性が問題となり(たとえ版画のようなものであっても、所謂印刷物とは違いそれ自体で自立した作品物であるから)それを購入するファンは、自分が目利きであり、そう大多数の人々にとって人気のあるものではなく、あくまで芸術的価値が理解出来る人からのみ理解されるものであることが、コレクターの収集意欲を駆り立てるものとなる。大多数の人々にとって共感されるものは、それがどんなに大多数であっても時代の変遷と共に別の人気物に取って代わられる可能性は大きく、そういうものの収集はコレクターの使命感を充足することは出来ない。学問にしてもそこら辺は同じ事情があると思われる。それが発表された時代には、ある真理を熟知した一部の理解者にのみ理解された仕事が、後代においては多くの理解者を獲得することとなる、ということはビジネスや政治のような社会機能の制御という業務を除いて一般的真理である。それでいてそういった真実未来へ向けての遺産となり得るものは極々小数である、と言えよう。大多数はそういう使命感にのみ依拠した独りよがりなものである、と言えばやや極論過ぎるであろうか?この問題はこれくらいにして次の問題へと進めよう。
 言語活動がサヴァイヴァルサインであり、非常時信号であることから文化的営みへと転化され、そういった行為の反復自体が生の時間の不可避的な日常と化すと、今度はその利用の仕方が、責務的、業務的な成功の如何を決し、やがて真意を隠蔽し、程よい公務的、公衆面前的、他者理解享受的なイノセントな偽装性に裏打ちされた会話や対話のみが理解され、社会的認知を得るというパロールやエクリチュールが所謂再び古代以前のかたちとは異なったもう一つのサヴァイヴァル戦略となってくるという現実は軽視することが出来ない。事実人間とは自己にとって困難な事項を最重要項目に挙げる傾向がある。それはそういう難題を克服することで、社会的認知を得、自己の「生活」を成り立たせたいという目論見があるからでもあるのだ。
 例えば外国に長期滞在したり、仕事の関係で訪問する機会の多い人々にインタビューしたりする人気番組があるが、そこに登場するゲストは二通りの意見に分かれる。その番組では英語が対象であるが、「英語習得にとって一番大切なことはヒアリングである。」という意見と「英語学習にとって一番大切なことはスピーキングである。」という意見とである。前者の意見を言う人々は、自己表現としてスピーキングはそう苦労することなく克服出来たのに、いざそれでコミュニティーの活動に参加出来ても、他者の言うことが巧く聞き取れずに苦労した経験があるに違いない。それに対し、後者の意見を言う人々は折角他者の言うことは聞き取れても、自己の立場や存在をアピールすることが出来ずに、色々積極的にコミュニティーの活動に参加出来ずに損をした経験があるに違いない。自己の長所にのみプライドを持ち、その短所には目をつぶり、隠蔽しようとする器量の持ち主を除いて、一般的に自己にとって困難な行為を最重要事項として認識し、それを公言することは社会実践と言語行為においては極自然な現実であろう。もっとも自己の弱点を他者や公衆に悟られまいとする無意識の欲求が、本当はヒアリングが最も得意で、スピーキングがもっとも苦手なのに「やっぱりヒアリングが一番重要な能力ですね。」と言う場合も大いに考えられるが。この意識は羞恥偽装であり、やはりサヴァイヴァル的な行為である。(別論文「真意と偽装の心理学」特に(偽装心理について)を後日掲載するので
参照されたし。)
 取り敢えずここで一つの結論が示されたと思う。それは言語活動が共同体形成期におけるサヴァイヴァルサインである時点では真意性というものは殆んどない。というのもそれが偽装であったならその個体の信用をなくし、その者は決して共同体内の当然的な享受権利たるさまざまの特典にあずかることが出来ないからだ。しかし一端その権利を手に入れた個体の中からはかなり早い時期に偽装して、同一種他個体に対し、欺くという行為を人知れずに実践していたのではないか、とも思われる。その事実がやがて共同体機能が言語的統一に伴って形成され、パロールやエクルチュール(どちらが先かは難しいが、ほぼ同時期であったとも考えられる。ただその目的性はかなり最初から分離していたのではないか?)での意志伝達行為が手段から目的へと移行していった過程で、文化的コードとなっていったわけだが、実際上は真意性はこの時点ではかなり明確になっていたであろう。なぜなら個体が別個体、つまりある社会成員は他者を裏切ること、嘘をつき陥れること、あるいはそこまで行かなくても自己の利益の享受にとっての邪魔者として遠ざけられるようなさまざまの偽装によってエゴイズムはかなりな程度で浸透していたのではないか、と思われるからである。真意表明、表出はあくまでそれを希求する願望が産み出した概念であり、それは偽装や隠蔽、策略的陰謀が渦巻いている人間関係において初めて成立する概念であるからである。しかしそれでも尚文化的コードとして、それこそカントの権利問題としての自由や純粋理性として当然前提される行為であると、我々は長い間言語を人間という一存在者固有のコミュニケーション手段として受け取り、その事実が我々をして言語行為を手段から目的へと押し上げてきた。しかしその行為の中からも当然の如く好意的、良心的な言語行為ばかりが育まれてきたのではないことは人間の歴史を見てみれば一目瞭然であろう。つまり偽装や陰謀というほどのネガティヴアクションまでゆかなくても、自己という個体、その家族の「生活」死守のための偽装、演技は常に社会的認知の方策として不可欠であり、そういった形式的公務実践という義務履行的言語行為が実際上は大半を占め、またその事実が他者との心の触れ合いとかのオアシスを社会成員は希求してゆくわけである。言語が手段に転落しても尚そこにコミュニケーションを実質的行為として温存させる為に我々はそれ自体の目的性を付与せずにはおれない
              

言語行為が純粋にサヴァイヴァルサインであるための一手段である段階
              
              ↓ 

言語行為が言語共同体の成員秩序となり徐々に文化的コードとなり、目的化してゆく段階

              ↓

目的化という建前的前提は定着したが、その個体ごとの自己「生活」死守のための方策として、言語行為の再手段化という転落状況

私たちは今この三つの段階での言語行為の歴史的推移を確認できた。このことから我々自身が言語行為から読み取れるその本質を個々の具体例を取り上げて考察し、言語構造自体がそのこととどういう相関性を有しているか、を洞察してゆこう。

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