Wednesday, October 7, 2009

A言語のメカニズム 4、小説

 暫く言語を小説に限って考えてみよう。
 数学がプラトニズム的視座から俯瞰すると、実在そのものの様相、ひいては自然に実在する事象であることとなるが、経験論的に捉えれば数学はポアンカレ的に言って人間が便宜上作り出したものに過ぎなくなる。小説をこの例で考えてみると、小説という形式そのものは日常的言語によって営まれた一つのコミュニケーションに過ぎないが、我々自身の日常的現実そのものかと言えばそうでもない。ただ描かれる人間の像は、行動生理学的なモデルであり、それはことに短編小説に顕著である。その点長編小説は、執筆している作者の側の時間的推移が顕著であるために、その間の意識の変容(どんなに計画性をもって臨んでも、長期的創作は予定変更が必ず介在する。)そのものが全体的に浮上してくる関係上、どうしても時間論的にならざるを得ない。つまり小説は明らかに便宜的な創造物でもないが、現実上の物理的真理とも無縁である。フィクシャスであるという事実は確かに非日常的でもあるし、それでいてそれを読む行為は愛好家にとって日常である。そういった二重の意味において我々にとって小説世界は例外的な言語活動である。
 近代以降の小説世界は所謂「物語構造」からの離脱を旨としてきている(勿論そういったことへの復権、回顧はあるにせよ、全体的には)、と言えよう。それは人間像の認識方法において一人称的な視点がより近代以降の人々にとって理解しやすかったということと、市民社会における自我意識の平等な獲得が挙げられよう。確かに物語構造には啓蒙的俯瞰主義が徹底している。幼児相手にお話を聞かせる構造に近い。また主人公と共に旅する構造においてより小説世界に没頭し、共感し得るという利便性も手伝う。しかも歴史小説とか、サイエンス・フィクションであるとかの半現実、半虚構世界の非現実性が、現実を一時忘れさせる効果もある、ということであろう。小説世界の言語が現実社会で流用される例も枚挙に暇がない。これは小説的ものの見方が、詩的言語より寧ろ抽象性が希薄なだけに日常言語に転用しやすい、という利点もある。詩的言語は作家のイデーの世界であり、日常的コミュニケーションに転用するには哲学的過ぎるとい傾向もある。
 ここで一つの結論が導き出される。詩は日常を非日常として捉える物の見方であり、小説は日常を日常的に切り取りながら日常において非日常を挿入するものである、ということである。
 詩は言葉を使用しながらそれが概念化される一歩前において作者の認識した意味の世界の息吹を残したままそれを読者に彷彿させるような形で提示されている。それに対し、小説における世界の肉付けに必要な各道具立ては説明される為の言述には概念が積極的に多用され、形容詞、一般名詞等によって情景やシステム等が描出され、人間の心理もまた一つの道具となって概念の重層性によって意味を醸している。詩の言語が意味の名残を留めた概念化の手前の言葉であるとしたら、小説言語は詳細描写の為の概念の重層である。
 小説が「人生を生きる」人間の行動を対象とし、詩が生を、生の機能を、環境と生の相関性を対象としつつも、詩的小説、散文的詩というものもあるから、我々はただ一律に詩と小説を弁別する心的機能を持ち合わせているわけではない。寧ろ個々の部分における詩的、散文的、物語的機能と効用、意味論的主張をそこから汲み取り、それを総じて「この小説は詩的要素が大きく、故に詩的言語で解釈すべきである。」と法則的解釈と秩序構成的意味論の解を求めているのである。それは我々の生が「人生」と「生活」という二重の価値観による、一面では身体生理学的な、一面では論理的な、一面では生物物理学的な、一面では倫理価値論的な定義を我々自身に適用しているのである、ということの証拠である。

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