Tuesday, October 27, 2009

B名詞と動詞 4、記憶想起における願望による歪曲と生理的欲求に歪曲される想起内容や真意の所在

Ⅴ‐語ることが目的な言辞(あるいは文章)と語ることが未来の目的へと向けられた言辞(あるいは文章)

 語ることそのものが目的であるような言辞やその文章は明らかに自己と他者の関係が密となり真意内容を全部語らずともその真意や意図が相互に汲み取れるような形態(他者信頼の充実がある。)でのコミュニケーションで示される筈である。これに対して語ったことそのものが後日の真の目的性へと奉仕するような言辞とその文章はあくまでその為の手段であるようなコミュニケーションで示されよう。ここでは真意表出が至上命題であるし、概念化作用としての他者理解が要となる。そこではその理解と仕方そのものの自己と他者の合致が求められ、他者‐自己連関の社会認識を堅持しようと欲する姿勢に裏打ちされている。
しかし今ここで理解ということの本質をしかと見極めておかなければならないであろう。
というのも理解ということが目的性を意志伝達に与えるからである。目的性が意志伝達自体であるということは真意が容易に汲み取れる関係において成立するし、敢えて真意を推し量る必要のある意志伝達は後日しかと意志伝達を取るか否かを相互に探り合うことが目的となり、その目的へと向けられた手段(相互の意志<今後意志伝達をするべきかどうかという>の探り合いの為の)となる。理解はそういった真意の汲み取りそのものである。
 今後意志伝達する意味が相互にあるのかどうかを模索する真意と真意のぶつかり合いである。この場合理解は努力によって引き出される。一個は文法的理解である。そしてもう一個は内容的理解である。相互の真意を既に探り合う必要のない関係での意志伝達においては文法的理解<内容的理解が通常である。また逆に真意を探り合う必要のある親しさの度合いが希少な関係においては文法的理解>内容的理解が通常となる。これは勿論先行する意志伝達における理解における性質であり、両方とも小さい方もやがて大きい方に追い付くのである。前者は意志伝達自体が最初から目的となり、後者はまず意志伝達が手段となる。しかしそれもやがて意志伝達拒否させなければ目的となってゆく。文法的理解よりも内容的理解が大きい場合は率直さが主たる要素となり、文法的理解の方が大きい場合は形式的同意が主たる要素となる。しかし記憶すべきであるか否かはこの二つの理解が自己にとっての重要度に比例する。
 というのも人は通常文法的に理解しても共感し得ぬものは記憶しないし、また逆に文法的に理解し得ないようなものでも言わんと欲する真意を汲み取り共感するものは記憶する。勿論逆に反感を持つものは通常記憶しない。その話者が殊更重要な事項、つまり自己の天敵とかであるような場合以外は。
 しかしそれ以上に重要なのは、文法的理解先行型においても内容的理解先行型においても同様なこととして、伝えようとする意志の表出が陳述を構成しているという一事である。そしてそれは表情、語調によって伴われており、叙述する事項に関する感情的意味合いもまた表情、語調によって表現されるし、伝達意志によって指示された内容は大きくこれに左右される。どんなに重要な事項さえも素っ気無い口調や無表情で言ったら、その重要性は容易に右の耳から左の耳へと通り過ぎよう。
 これに対して文法は内容を盛る容器である。これは論理的に意志が伝達されることを目的とした形式である。故に意味作用的(シニフィア的)である。

 以下のことを綜合して考えてみると言語活動においてある陳述が示すことは文章自体が目的語化したものも相当数あり、その文章自体の目的語化はあくまでその文章を成立させる前後関係において意味を持ち、それは同じ語彙を使用しても語順の配置によって大きくその文章のメッセージを変える。あるいは能受動の関係を転換するだけで同じ事実陳述が大きくその様相を変える。(陳述自体のスタンスもその陳述された内容も)また言辞の様相も大きくその意味を変える。言辞一つでその文を発話したり記述したりする当の本人のメッセージ受信者に対する態度や位置が明確に変わってくる。まず語順の配置転換によって変わってくる文章のメッセージ的な意味について考えてみよう。しかしその際出来るだけ内容的には挑発的なものを避け、日常的に平易のものにしようと思う。(そうでなければ陳述すること自体の大きさに気を取られ、語順によってその意味を変えること自体に意識が向かわないからである。)まず日本語で、次いで英語で同じ意味の文章を考えてみよう。

私は東京へ仕事で行った(んですよ)。(基本形1)

私は仕事で東京へ行った(んですよ)。(変形1)

私は行った(んですよ)東京へ、仕事で。(変形2、A)

私は行った(んですよ)、東京へ仕事で。(変形2、B)

私は東京へ行った(んですよ)、仕事で。(変形3)

私は行った(んですよ)、仕事で東京へ。(変形4、A)

私は行ったんですよ仕事で、東京へ。(変形4、B)

私は仕事で行った(んですよ)、東京へ。(変形5)

この文章群は全てまず「私は」から始まるものであり、それだけに関してまず考えてみようと思う。(変形5)は明らかに他ならぬ仕事で行ったということ、つまり遊びで行ったのではないということの強調が感じられる。つまりそれはこの陳述以前にそういった観光とか休日とか旅の会話があったであろうような痕跡が伺える。それに対して(変形2、B)は「行った」ということの強調である。(変形4、A)は「他ならぬこの私が」行ったということの強調であり、もっとそれを強調すれば「私が」ということとなる。しかし仕事で行ったということと、私が行ったということの両方を強調する場合(変形4、B)となる。(変形3)は東京へ行ったということ、大阪でも名古屋でもなく行く先は東京であったことに関する強調である。あるいは「東京へ」と「行ったこと」と両方強調したものが(変形2、A)で、(基本形1及び変形1)は語順そのものからではなく東京へ行ったことについては一般的には基本形、また仕事で行ったことについては一般的には変形1が該当するものの、ストレスをどこに置くかどうかによって大きくその主張は変わり得るし、また上記した全てにそれは当て嵌まる。しかし一般的にその語順から察せられることに関してはこの語順にはこの事項の内容強調であるということが明白であり、それは発話によってもそうであるし、ストレスを記述出来ないエクリチュールの場合はこの秩序で読者が理解するということは順当なことである。またそれぞれ強調したいことのみを残して後のものを省略することも可能である。例えば(変形5)は「仕事で行ったんですよ、東京へ。」あるいは[仕事で、東京へ]あるいはもっと「仕事で」あるいは「仕事」ということとなる。それは前後関係において先にかわされた会話内容による。もっと例を挙げるなら(変形4B)は「私は行ったんですよ、東京へ。」あるいは「私は行ったんですよ、仕事で。」ともなるし、後で出てくるが倒置法で「行ったのは私ですよ。」となるともっと「私が」が強調されることとなる。あるいは「私ですよ。」がもっと短い伝達で、これは「行ったのは誰ですか?」という質問を受けてのものであり、「私」が最短のものであり、これは「行ったのは誰?」という、どちらも三人以上の会話で成立し得る。(変形3)は「私は東京へ行ったんですよ。」あるいは「東京へ行ったんですよ。」ともなり、最短では「東京ですよ、行ったのは。」か「東京ですよ。」あるいは「東京」となる。これも最初から順に「大阪に行ったんでしょう?」(前二者)、「行ったのは大阪でしたよね?」(その次二者)、「行ったのはどこだっけ?」(最後二者)が質問として該当すると思われる。勿論全ての文から「私は」を省略出来ることは言うまでもない。

 次に倒置法をも含めた多くのこの事実内容の文章から引き出される語順のものを見てゆこう。
(変形5)において示された「仕事で」を強調したい場合は自然に「仕事で」を初頭に持って来れば良いのだ。それには次のような形が考えられる。

仕事で私は東京へ行った(んですよ)。(基本形2)

仕事で東京へ行ったんですよ、私は。(変形1´)

仕事で私は行ったんですよ、東京へ。(変形2´)

仕事で行ったんですよ、私は東京へ。(変形3´)

仕事で行った(んですよ)、東京へ私は。(変形4´)

仕事で東京へ私は行った(んですよ)。(変形5´)


(変形1´及び2´)は補足的な言辞である。「私は」や「東京へ」は予め会話に出てきた事項であるから一度は省略しようと思ったけれども誤解を招かないように補足したような言辞である。それよりはより(変形3´)は「東京まで(恐らく遠い地方から)仕事で行ったというニュアンスが強く、また(変形4´)は他ならぬこの「私が」行ったという事実が強調されている。その次に東京まで行ったことが強調されているのが(変形5´)であろう。(しかしこれは少々不自然な文であるが)そして同じように東京へ行ったことが強調されているのが(変形1´)であるが、この場合のみこの「東京へ」にストレスを置くことは無理がないし、不自然でもない。あるいは(基本形2)も同じように東京へ行ったことが強調されている。しかしこの場合既に東京という事項は話題に上っていた公算は強く、その為に補足的な印象を与える。
 ストレスの強調ということは語順と無関係にあり得るも、(変形5´)を「私は」の部分や「行った」にストレスを置くことは可能性としてはないではないが、かなり不自然な言辞であり、やはり基本的には除外すべき対象となろう。それは言い間違いに近い。特におかしく感じられるのがこれであるが、他の全てもやはりそういう風にある途中で出てくる部位にストレスを置くよりは「私は」や「東京へ」等を文頭へ持っていく方が自然であり、ストレスをわざわざ置かなくても(変形1´及び3´)は「私は」ということが強調されている。この場合は却って「私は」のストレス布置はおかしい。しかしもっと私を強調しようとすれば「私は」を前の文章から位置は変えず、句点を打つ場所だけを変え「私は」だけを孤立させるとより効果的となる。(下図参照)あるいはより「東京へ」を強調したい場合は(変形2´)が既にかなり強調されているが、下に示すように別の可能性として(変形3´)も考えられる。


仕事で行ったんですよ私は、東京へ。(変形3´B)<「東京へ」を強調>

仕事で行ったんですよ東京へ、私は。(変形4´B)<「私は」を強調>


「行った(ですよ)。」あるいは「東京へ」を文頭に持ってゆく場合について最後に考えてみよう。「行った(ですよ)。」の場合は「行く筈がない」あるいは「行ける筈がない」という観念を前提した会話上の言辞である。また「東京へ」を文頭に持ってゆくと、東京以外の場所へ行ったと思われているか、あるいは東京へは行けはしない(かった)であろうと他者が思うに違いないということを想定している言辞である。他者推測の否定を意味した逆肯定の言辞である。この種の受け答えはあくまで前後関係において意味を生じ、これだけを取り出しても中々伝わらないということもないが、決して順当ではないし、また多少の不自然さは拭い切れまい。まず「行った(んですよ)。」そして「東京へ」を文頭に持ってきた言辞例を下図に示そう。

行ったんですよ、私は東京へ仕事で。(基本形3)

行ったんですよ、仕事で東京へ、私は。(変形1´´)

行ったんですよ、私は仕事で東京へ。(変形2´´)

行ったんですよ(、)東京へ、仕事で私は。(変形3´´)

行ったんですよ(、)東京へ、私は仕事で。(変形4´´)

行ったんですよ、仕事で私は東京へ。(変形5´´)

東京へ私は仕事で行った(んですよ)。(基本形4)

東京へ仕事で私は行った(んですよ)。(変形1´´´)

東京へ仕事で行ったんですよ、私は。(変形2´´´)

東京へ行ったんですよ、仕事で私は。(変形3´´´)

東京へ私は行った(んですよ)、仕事で。(変形4´´´)

東京へ行った(んですよ)、私は仕事で。(変形5´´´)

 前者の「行った」を文頭に持ってくる場合は行く行為、事実に比重がかかるのは当然のことであるが、反語的なニュアンスが濃厚である。また「東京へ」を文頭に持ってくることは、何か東京のことに関して話題が既に出されていて、補足的にあるいはたたみかけるような反復効果として東京のことを持ち出す、連鎖、連動的な言辞の場合に多いと思われる。そうでなければ東京に行くことが話者同士で珍しいと思われる場合だけである。
 まず「行った」を語頭に持ってくる文では殆どそのことを言いたいだけで、後は全て省略出来るといっても決して極端ではない。ただその次にどれを特に強調したいかということだけが語順を決する。その点では「東京へ」もまた東京へ行ったことだけを強調しているが、「東京へ」は仕事と同格であるが(仕事に関して話しが進行しているか、あるいは東京自体が話題に上っているかによってどちらを文頭に持っていくかが決まるのである。)、「行った」は仕事であれ、遊びであれ、行ったことがあるかどうかが問題であり、それを文頭に持ってくることはより特定指示的、強調的である。
 はっきりさせておかなければならないのは、このような幾つかの異なった文頭を持つ文章であれ、いずれも同一の前提と主要叙述があるということであり、前者は主語、後者は動詞である。名詞である東京と仕事は会話中でも書記中でもその発話、記述最重要事項としてその都度選択されるに過ぎない。それを下図に示そう。

主語(私)=前提       



内容<動詞>(行った)<住んだ、滞在した他>=叙述前提


↓          ↓


目的語(東京へ) 補語(仕事で)

 目的語と補語は発話や記述、つまり陳述においては同格であり、また叙述前提の上で成立する関心領域的な主要事項である。
 この前提を踏まえて、陳述を成立させる会話、書記状況から、既に「行った」という過去事実が基本にあり陳述自体が過去形によって表現される内容だと前提されている場合、殊更「行く」という動詞の報告意志が強烈に立ち現れることはない。つまりその場合、これから行くということの上に成立しているのではないのだから、他の報告事項の重要性に順位をつけると、上から、
 
私、仕事、東京(基本形3)
仕事=私、東京(変形1´´)
私、仕事=東京(変形2´´)
東京、仕事=私(変形3´´)
東京、私=仕事(変形4´´)
仕事=東京、私(変形5´´)

という風になる。
また「東京へ」が報告事実として前提されている場合の他の報告事項の重要性に順位をつけると、

私=仕事、行った(基本形4)
仕事、私=行った(変形1´´´)
仕事=行った、私(変形2´´´)
仕事、行った=私(変形3´´´)
私、行った=仕事(変形4´´´)
行った、私=仕事(変形5´´´)

という風になる。(変形3´´´)では既に行ったことが話題に上っており、その行った場所の特定に文の関心集中化が行われており、よって「行った」とその行為主体者の「私」が同格になるのである。
 言語は存在論的には品詞自体に独自の役割があるが、その組み合わせ、つまり語順、語調の入れ替えによって相対的に品詞の存在意義の優劣をその都度変化させる。「行った」を文頭に持ってくる遣り方は明らかににエピソード叙述に関しては副詞句的なメッセージ性を用いている。というのもここで示される動詞は付帯的な体裁であり、完全に文全体を目的報告的なメッセージという伝達様相にしているからである。
 今ここに挙げた例はあくまでただ単なる事後的な報告文である。しかしこの東京への仕事での訪問に対してある感情、ある心理的な印象を叙述した内容文について暫く考えてみよう。

<基本的な概念構成=東京への仕事での訪問→楽しい経験という印象、感情的な位置づけ>
仕事で行った東京は楽しかった。(変異形1)

仕事での東京行きは楽しかった。(変異形2)

仕事で行った東京だが楽しかった。(変異形3)

仕事での東京行きだ(った)が楽しかった。(変異形4)

仕事での東京行き(だった)にもかかわらず楽しかった。
(変異形5)

東京での仕事は楽しかった。(変異形‐省略1)

東京の仕事は楽しかった。(変異形‐省略2)

先ず(変異形1及び2)は順当な表現であり、特に内容的には変わったところはない。敢えて指摘するなら前者が「仕事で行った東京」が内容的には「仕事で行った東京での生活、あるいは滞在中の出来事」ということであり、後者は「仕事で行った東京の訪問全体を振り返った印象<事実>」ということである。(主語節の叙述内容)
それに対して(変異形3及び4)は、意味的には通常仕事での訪問とは楽しくないものである、という言外の考えが示されている。そして行く前は楽しくないと思ったのだが、いざ行ってみると予想外に楽しかったということが全体的な意味内容である。(変異形5)は意味内容的には前二者と同じであるが、「かかわらず」という副詞によってより以上の意外性の強調となっている。また(変異形‐省略1、2)は色々な場所で仕事をしたけれど、とりわけ東京での仕事は楽しかったという特定状況への言及であると察せられ、同時にそれ以外での場所での仕事に関する話題も既に上っていることも推測される。
 一つの陳述は、その陳述が言辞的な様相性に依拠しながら、それが自己充足的な叙述である場合(述懐的、詠嘆的陳述)<この場合には原則としては文章としての体裁が明示されており、論理的充足が前提となる。しかし親しい者同士では省略した言辞は充分考えられるから顕現されたもののみを取り出しても意味はない。要は対話においてどのようにその言辞が対話者たちに作用するかが問われるのである。>と、その陳述が別の話題へと転化することへと奉仕したり、あるいは今後の意志伝達の為の糧として作用させたり(誘導的陳述)という、つまり自己目的的な陳述と手段的な陳述とがあり得る。そのような観点から今度は考察してみよう。ある「語られた言葉」は文章という体裁で考察することも可能であるが、根源的な意味では伝達意志表示としての言辞であるから、文章以前の言葉として考察することも必要であろう。そういった考察態度から本章表題の示す分析スタンスにおいて、その分類が意味するところを考えながら、同時に今まで取り上げた例分はどのように位置づけられるか見てみよう。
 
 一般に名詞化された形容詞は述懐的、詠嘆的である。それに対して動詞化された形容詞は誘導的である。目的的(語ること自体が目的であるという)な陳述に奉仕するような述懐性が「名詞化された形容詞」の心的様相には内在するのに対し、手段的な陳述に奉仕するような誘導性(他の話題や後日の話者同士の友好的、非友好的とにかかわらず接触機会になされる会話内容に奉仕するような)が「動詞化された(つまり諦観とは反対の未来志向的で変更可能性に満ちた)形容詞」の心的様相には内在していると思われるからである。しかし勿論ことは形容詞のみではない。本質的には名詞であろうと動詞であろうと陳述全体に対して叙述要素であるということに関しては同一条件下にある。副詞はちょっとそこのところが違う。副詞は形容詞と質的には似ているが、補助的であるので、形容詞に付帯する時には形容詞の性質に依拠しやすい。しかし単独に使用される時には(つまり動詞を修飾する場合のみ)動詞にのみ奉仕する。ここに副詞のニュアンス指示性がある。
 ところでまだ取り上げていなかった品詞が二つある。格助詞(英語ではほぼ前置詞に当たる。)と接続詞である。接続詞から先にゆくと、これは繋辞をする役割に他ならない。そしてこれから述べる手段的陳述においては、この繋辞が最も重要な役割である。誘導的であるところの手段的陳述は繋辞的なものでもあるのだ。その一番顕著な例は疑問文である。あるいは依頼文もこれに相当する。(疑問文は広く言えばこれも依頼文の一部である。というのも疑問文は自己が発する疑問に答えて欲しいという請願であるし、依頼であるからである。)というのも疑問文は全てある別の陳述、つまり他者の意見、発言を得る為になされるものだから、繋辞的である。格助詞、前置詞に関しては次章に譲ることにして、まずこの繋辞と、それに対して存在する判断的、結論的な目的的陳述との関係、性質的な差異について考えてみよう。
 つまり手段的陳述は<機能的>であるのに対して、目的的陳述は、<対象志向的>である。目的的陳述の一番顕著な例は命令形である。尤もこれはある状況において階級的序列や命令意図を示すための手段となる。あるいは請願でも生存危機や自己防衛の為になされるような自己に対する不当な行為の中断を緊急に請願する場合の陳述が挙げられる。(これだけは一般の請願とは事情が違う。)次のような例を挙げよう。
「さっさと仕事を終わらせろ!」
「やめてくれ!」
それに対して述懐的(過去に対して)及び詠嘆的(現在に対して)である目的的陳述は次のようなものが考えられる。
「いい人だったなあ。」<一般に亡くなった人に対して>(述懐的)
「うわー、綺麗な花だなあ。」(詠嘆的)
「やっと終わった。」
また名詞化された形容としては
「凄い、(凄く)高い山だなあ。」
とかが挙げられる。それに対して、
「いい人だったねえ。」
「うわー、綺麗な花だねえ。」
「やっと終わったね。」
「凄い、(凄く)高い山だねえ。」
などは全て心的様相的には手段的陳述となる。というのもそこには他者(対話手)へと同意を求めているからである。(英語では付加疑問文となる。)だからこれは目的的陳述の体裁を取ってはいるものの性格的には依頼とも共通した他者への請願、共感して欲しいという願望が含有されているから手段的であるのである。(「なあ」という言辞は男子では女子の「ねえ」と同じ役割を果たす場合があり、その場合は手段的であろう。しかし独り言を他者にもそれとなく聞かせるような場合、それは目的的である。自己に対する対話が他者との対話中になされるということ<他者の同意を求めずに>はよくあることである。それは意思表示とも受け取れる。また女子が「なあ」より「ねえ」を多く使用するということは女性の共感誘導的な性的特徴を表している気がする。)
では勧誘はどちらに属するのであろうか?
 勧誘は依頼と詠嘆の中間のものである。というのも他者に何かを勧誘するということは他者に自己の欲求を同調させるべく素地として「ねえ」詠嘆と共存した同意請願意図(心的様相的に共有することを確認したい)が仄見えるからである。
「あーあ、疲れた。ちょっと一休みしようよ。(しない?)」
も同様(目的的陳述と目的的陳述の中間、つまり勧誘)である。それに対して
「あーあ、疲れた。ちょっと一休みしよう。(かな。)」(「止めた。」と同じである。)
は逆に手段的陳述である。この陳述の持つ言辞性は恐らく我々の中にある「同意して貰えなくても自己の決断は揺るぎないぞ」という誇示の意識が備わっている。周囲にその言辞を聞く人間がいようといまいと休む積もりなのだから、周囲に人間がいたらいたで、「まだ休んじゃ駄目だよ。」と言わせないように敢えて聞かせようという意識である。その意味でこれは独り言以外の場で言われる時には厳密には詠嘆ではない。「あーあ、疲れた。」と言うだけなら、それは詠嘆的であり、目的的な言辞であろう。

 さて品詞の分析もいよいよ大詰めになってきた。最後に残されたのは助詞の世界である。これは英語では前置詞である。しかし前置詞には色々の種類があるが特に分類はないが、日本語では英語の前置詞のいくつかは格助詞、いくつかはただの助詞である。
 格助詞は主語の叙述を円滑にするばかりか、動詞の持つ方向性や場所、時間的な状況性を示唆する。動詞が目的語、目的節(名詞及び名詞句)に対して動作がなされていることの言及であるような意味で自動詞の動作自体の向けられた方向性に関する叙述を副詞、副詞句的に指示す。尤も日本語には主語に付帯するまさに膠着語ウラル・アルタイ語系言語としての面目躍如たる「は」、「が」、「や」、「と」(後者二つは英語では接続詞。)といったものがあるが、前者二つは英語にはない。このことは別論文で述べようと思う。
 また通常の助詞(英語では前置詞)は「まで」、「から」、「より」は場所移動の比較において二地点、二つの事物を関係付ける。

 今まで主に対話の前提について考えてきたが、全く触れてこなかった問題は音韻的側面からのアプローチである。それには理由がある。音韻論そのものは極めて音響学的な学問である。しかし言語にはその音韻を発生させる基盤としての口蓋とかの身体生理学的な機能というものがあるけれど、それを物理的に発生させるものの追求はその専門家に道を譲ることとしよう。だがそういった学究でさえ最も見落としてはならないこととは、言語とは音を弁別するということである。あるいはもっと言えば弁別しているように他者に理解させようとすることである。となると例えば病気になった患者が何を言っているかは、それがかなり発声にも影響を与えるようなものである場合、親族だけが何を言おうとしているかを判別出来るというような現実、あるいはまだ言葉をやっと少し覚えたての幼児が何を言おうとしているかは母親だけは直に了解出来るというような部分から我々は言語を考えてゆかねばならないということを意味する。まだ日本語を習いたての外国人が何とか語彙と語彙を繋ぎ合わせて意志伝達しようと試みることを我々は何とか理解出来ることも多い。それはその外国人のメッセージを何とか聞き取りたいと願うから理解出来るという側面もあるのだ。それと同じことである。最も大切なこととは語彙と語彙、つまり音と音を弁別して個々の意味へと対応させ、それをある一定の統語的な秩序に当て嵌めるということこそが偉大なる言語学者たち全てが主張してきたように最も大切な事実である。そういう意味で本論では語調とストレス、そして抑揚、音節(シラブル)に限って考えてゆこうと思う。ただ日本語と英語ではかなりの違いがある。そこで英語は別論文で扱うが、その音節化の最も基本的なこととは何なのかということにだけ絞って個々の事項を考えてみようと思う。
 音節の歴史は恐らく人間が発話する語彙を通した意味内容の形成という観点から伝達意志とも大いに関係があるであろう。また抑揚の歴史は欲求(生理的にも心理的にも)に大いに関係があるであろう。あるいはストレスもまた意志とも欲求とも大いに関係があるであろう。そういう観点から考えてみよう。
 例えば個々の語彙そのものはある意味<その意味には叙述機能的(動詞、形容詞、副詞→動作、様相)や叙述指示的(名詞→事物、事象、現象)の二つがある>が、ある恣意的な事情(言語共同体毎に異なる。)で弁別された音韻を通して顕現されるし、またそのような顕現を意志して初めて言語活動に加担しているという意図を相互に汲み取り発話行為は対話となる。その意味では弁別とは聞き取り難い発声法の人でも、それが弁別されておれば何とか伝達だけは成就するものである。そして音韻に関しては意味的な対応であるが、統語は本論でも触れてきたように語順としてその強調したい事項の配置に関係があり、その語順としての配置性が伝達内容と感情様相の伝達意志を相互理解規範の俎板に載せる。統語とはだから、あくまである恣意的対応に基づいてなされるレキシコンからの任意な語彙選択をやはりもう一つの規範である特定の各言語固有の統語性に則って話者がそれを信頼していることを明示する表情と態度で利用されるのだ。ここに意志伝達における共同体通用言語への相互信頼という運命共同体的な思念が成員間での暗黙の同意となるのである。

 最後に日本語の「です」、「ます」について考えてみようと思う。目的的であるか手段的であるかと言えば、この二つは特有の省略を持っている。「です」に関しては「 これは~です。」となると英語だとThis is ~となるように思われるが、実際英語ではこのような言い方は殆ど見られない。Here is~ということの方が多いと思われるが、実際日本語の「これは~です。」はそれとも微妙に違う。恐らくこれは英語に直すとI believe this is~へと対応するものと思われる。あるいはその都度の語調によって段階的にI suppose~やI thinkとかになり得る。「ます」もその語調によってI’m supposed to~やI’m going to~やI willとか未来意志やIt becomes~ やIt makes~(英語ではこちらの方が多い。)になり得る。日本語においては語調を強めてそれらを言えばIt’s just~やI absolutely think~となる。これらは所謂敬語というのとも少し異なる。「思われます」が客観的言辞である。敬語だと「存じます」となる。語調を弱めて「です」、「ます」を言えば英語では寧ろyou knowに近くなる。こういったことに関しては別論文で取り扱おうと思う。ところでこの「です」、「ます」は文章自体が目的語(格)となっている最も顕著な例である。そしてそういうことを常習的に使用する日本語は心的様相としては全部言い切らないで多少の含みを残して表現することを潔しとする文化的体質が反映されている。それは雅的に会話自体を目的的にすることを一方で尊びながらも同時に常に未来への契機として手段的にこの対話関係を聴者との間で継続してゆこうという意志を表明した言辞であると言えよう。だからこれは美徳的には手段的に一つの陳述を持とうとしながらも(文章自体を目的語(格)にする)、このように最後に付け加える仕方で表明することを日常的にする意図からは明らかに目的的、つまり友好関係維持表明型の言辞である。日本語は性善説にたった言語である。
 では英語はそうではないかと言えば、ある程度そうではないと言える。しかしこれはかなり哲学的であり文化人類学的な命題なので、改めて別論文で取り扱おうと思っている。

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