Tuesday, October 13, 2009

B名詞と動詞 7、名詞と動詞を中心とした様相的変化認識と理解及び記憶の構造における言語学的、大脳生理学的、行動遺伝学的考察によるアプローチ

 Ⅰ受験者と評定者
 選択肢が多いということは必ずしも幸福なことであるとは限らない。なぜなら選択肢が多いと選択することに躊躇したり、逡巡したりすることも大いにあり得るからである。小さい子供は当然のことながら語彙は大人に比べれば不足している。すると意志伝達におけるモティヴェーションに関しては、語彙や表現方法が豊富に脳内にインプットしている大人に比べればより熱情を持って意志伝達することに腐心するので意志伝達の真意は伝わりやすい。これに対して極端な例で言えば権謀術数の大人は仮に真意を伝えようとしても、それさえも偽装的であるとかただ単なる社交的辞令としてのみ受け取られやすい。(政治家による別の政党の代議士に対する労いの言葉とか)また語彙が少ないということはそれだけ使用すべき語彙の不足から選択において逡巡する必要性がない。するとそれをどのように伝達させるかという面に意識を集中させやすい。選択肢が多いことはそれだけ可能性の多様の中で逡巡する可能性も大きい。かつて職業を選ぶことが自由でなかった時代の方が若者にとって選択肢で悩むということはなかったに違いない。そういう時代の若者はただ自分に与えられた職務を邁進することだけに意識を集中させ、脇目も振らずに前進するだけでよかった。現代になればなるほど先進国では職業的な悩みが多くなる。そして選択することだけで人生の大半を費やしてしまい人生の内実を知る時には残り時間が少ないという事態も大いにあり得る。しかし同時に選択肢があるということはある余裕を人間に与える。人間は寧ろ選択肢のない時代には選択することに大した意味を見出さないが、一端選択肢が多いと知ると途端に選択すること自体に意味があると思うようになる。選択とは選択することでなく、選択した後でその意味を知ることに意味があるのに。
 人はある意志伝達をする時、必ず伝達内容を選択する。それはその伝達する他者と自己との関係によって選択内容も大幅に変わってくる。つまり何かの面接試験の時にはその面接官の要請に従った、質問の意図に沿った返答をなすことであろう。なぜならその時の自己にとって採用か入学、進学における機会獲得こそが真意であるから、その目的性に沿った陳述以外の何らその目的性に沿わないような不利な陳述内容はなさないように努めるからである。するとこういった場合における伝達内容というものは明らかに目的性によって限定されている。するとこの場合の選択肢はある程度狭められており、その具体的内容を選択するのも誰か特定の他者に対して語る陳述内容を示すこと同様容易い。(例えば囲碁のサークルで他者と語る自己の話題選択は紛れもなく囲碁に焦点化されている、というように)我々はこのように特定の他者、特定の目的性というようにその場その場ではかなり明確に意志伝達意図とそれに沿った内容を選択していることとなる。つまり面接において示すべき態度、「この会社に入社したい。」、「この大学に入学したい。」という意志、意欲、その理由を出来る限り明確に示し、その為の最も有効であると自己の他者(面接官)への想定の範囲内において選択された言辞(礼儀正しいものであることが要求される、と自己によって判定される)、内容、示すべき態度(誠実であることが要求されると、自己によって判定される。)といったものが自ずと限定されてくるし、その限定された目的性によってその場の雰囲気(面接官の態度やその場の雰囲気)に応じた対応を瞬時に我々はそれが最も結果的に有効に作用する(良い印象を与え面接試験が入社や入学に功を奏す)と思われる行動(面接官に)、つまり出来る限り入社して良い仕事をしたいとか入学して良い学問をしたいとかの意志と意欲を示し得る態度と言辞を採用するという目的成就に沿った選択を実行することによって目的性の明確な意志伝達を全うするのである。
 入社、入学の論文試験では短い論文の範囲で、どれだけ強い印象を持たせるか(良い内容、それは入社以後の展望や入学以後の勉強内容や研究内容を明確に示すことと、その意図<貢献意欲と研究意欲>を示すことである)に腐心するわけである。そしてその際の判断はそれまでの人生経験によるデータ処理的な判断(過去の成功体験と失敗体験をベースとした)とその場での思い付き(今回はこういう風に実行してみるのが一番いいだろうとか、いや案外こっちの方が巧くゆくかも知れないとかの)とが合併したものであろう。選択とは予め決定していることの遂行とその時点で咄嗟に思いついたこととの合併した意志的行為であると言えよう。そしてその決定されたこととは極めて経験主義的なもの(今までの体験に根差した有効であると思われる方策)とそのように意志的、意識的のものでなしに、その場でぱっと閃くような無意識的な条件反射行為というものがある。しかもその条件反射には明らかに幾つかのパターンがある。それでさえある程度の経験的な知識や体験的感情に根差したものであるか、でなければある程度性格遺伝子とか個人の遺伝的な性向であるとかの部分に依拠したものである。実際我々はこのどちらの方がより多い場合に良い結果が上がるのかということに関しては中々判定が下せないということなのではないか?というのもある行動を決するものがどういう部分からの判断であるのかということが判明し得るということは、どういうことが経験的に判断し得るのか、ということと、どういうことが自己の資質とか性格で判定し得るのかということが明確にカテゴライズし得る、つまりそういう判定能力を持つということである。しかしそれは極めて難しい。というのもある行動を引き起こすことを仮に今迄実行してきた行動に沿って成功した時には自己の経験を考慮に入れた行為選択であった、と言えよう。しかし実際そういうことを考慮し得ても失敗すること(試験に不合格になる)と、そうではない場合とがあるからである。すると今度はあまり明確に自己経験に根差して判断したと明確に言えない場合、それが経験的事実に根差した無意識であるのか、それとも性格遺伝学的な行動によって誘引された結果の偶然的な作用であるのかということが実際は峻別不能であるからである。
 だが論文審査によって入社、入学資格のある者を判定する立場の人間にとって見れば、その選択基準は明確である。一つはその入社、入学するセクションや学部の内容に沿ったものであるかどうか、ということである。そしてある程度の応用力を持った柔軟性があり得るかどうか、ということに関する判定である。そしてその年度においてその会社や教育機関そのものが、全社、全校挙げての方針と、各指導上司、教官の個人的な資質の相性である。この場合どのような論文が良いものであるかどうかはその論文の文体や内容がその評定者の評価基準に沿ったものかどうか(それまでの機関自体や教官自身の経験的データによる)による。その評価基準は理解出来る文体と内容ということとなる。
 内容に関してはその時代によるその専門分野に特徴的な事項の把握ということとなるが、文体ということとなると、その時代にある程度支配的な職業的世界や学問、専門分野の方法論に準拠したものを採用したいと願う評定者にとってはオーソドックスなものを、それとは逆に自己の指導、教育方針から今現在の支配的なものに対して反権威的な志向のものを採用したいと願う評定者にとってはあまり世間的な知識に準拠していない、自己の立場から率直に語った文体を選択する傾向があるであろう。(いやひょっとすると内容さえもそういう評定の仕方があるかも知れない。)あるいはその二つの評価基準の両方を考慮してその綜合的な評定を下す評定者、あるいはそういった選択そのものの基準を一律には決めないで、両方の優れたものを選択しようという意図も考えられる。いずれにせよ選択するということは選択して貰う側からも選択する側からもなされるし、また選択して貰う側も選択出来れば選択する側も選択されるのである。というのも選択して貰う機関を多く持つ(複数の受験をする)場合、全部不合格になるか、何処か採用、合格したところならどこであろうと選択の余地なく入社、入学しようと思う場合以外は、その合否そのものを袖にすることもまた自由だからである。
 しかし一般的には文体に関しては性格遺伝子的な選択理由が、内容に関しては経験的なデータによる選択理由が多いように思われる。というのも内容は理性的に判断出来るが、文体というものは生理的な相性というものが大きく作用し、ある文体はある人間にはよく伝わり、別の人間には伝わり難いということがあり得るからである。これは一つのものに関して全く異なった評価、評定基準が存在するということである。そして内容は良いと思われるのに文体がなっていない、つまり伝達方法が良くないと思われる場合もあるし、逆に文体による伝達方法は良いし、技術があるのにその内容が陳腐であると思われる場合というものもあり得るのである。その二つのケースに直面した時にもどちらを選択するかは専門的知識を優先する(内容は良い)か、伝達技術を優先させるかという二つの判断が存在するが、これも勿論この場合の二つが微妙に絡まり合っている。しかもその年やクール内でそういう人材が現在揃っているかつまりその場その場の既に所属した構成員の顔ぶれを考慮に入れて今回は、こういうタイプを選択した方がよりバランスが取れているという選択基準が左右するものと思われる。そしてこの場合の選択者の決断もまた経験によるものか極性格的相性かという面がある。

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