Wednesday, October 7, 2009

C翻弄論 2、同語反復と価値転換

 近代以降の哲学者で、我々の常套的につい使用してしまいがちな考え方の価値転換を図った人物とは誰であるかというと様々な人物が思い浮かぶであろうが、ニーチェがその中の一人であることに異論を差し挟む者はいまい。彼は「病人と罪人にする」と言う。これは病気を治癒することの本質に内在する虚妄性を告発した、と捉えられる。
 我々は各自健康に対するバロメーターを携えている。しかしある日健康に支障をきたすと途端にそれ以前の状態へと戻そうと躍起になり、病気を治そうとする。そうしながら、そういう病気にならないような身体を作ろうとする。しかしそのような病気にならないような身体とはそういう病気に鈍感な身体ということにもなる。ある病気に対して抵抗力がつくということは他の病気に対しての抵抗力が落ちるということでもあるのだ。もしある試みが失敗したとしよう。例えば大学受験である。そしてもう一年浪人して再びその大学にチャレンジするとする。しかしまた落ちた。ここで考える。もう一年浪人して再びその学部を狙うか、それとももうそこに受験するのを止めようか、と。
 ある試みを失敗してその結果から反省し、その試みが功を奏さなかった理由を考え、再びチャレンジすることはよいことであるかも知れない。しかし何度試みても巧くゆかない場合もある。そういう場合目標自体を変更した方が賢明ではないのか、という疑問も沸き起こる。そもそもその試み自体が的外れな、自己の能力にとって相応しくない考えであったのかも知れない、という考えは試みに対する結果から学ぶ教訓であると言えよう。
 病気に罹らないように心掛けることは大切であるが、その病気を感知する能力まで失っては元も子もない。病気を悪と捉えるか、自然において存在する不可抗力として、それと共存してゆくかを考える契機として認めるか、という判断はその場その時によって異なることであろう。しかし少なくとも病気に対する抵抗力というものが、ただその病気に対して鈍感であるのではなく、きちんと覚知し得る能力であり、かつその病因に対する共存の意識のある対処でなければ、あるいは同様の病因に出会う時に、ただ闇雲にその病因となるものを退散させる、あるいは打ち消すことであるなら、その解毒作用のある薬物自体の弊害というものも当然考慮されねばならないであろうし、病気に対する対処の仕方、治癒のさせ方というのは実に難しい。そういう現実に対して、医学的見地に関しても、社会倫理に関しても提言したのがニーチェであった。
 さてニーチェの価値転換というものは、ある意味ではある現象が現出した時、それが憂えるべきものであってさえ、ただ闇雲に除去する前に、その現象が立ち現れた元凶を突き止め、それに応じて対処すべきであるという観念を我々に植え付けるようなものであった。この考え方は例えば癌治療のような急を要するものに関してはやや悠長な印象を現代人に与えはするが、実際癌にせよ、それを未然に防止するような試みにおいては、ただ闇雲に癌を悪と決め付けるだけのやり方では今後の治療的な進展は得られないような気も私にはする。もっと根本的な価値転換が医療にも求められていると思う。
 さて価値転換という事態について考えてみたが、ある現象に対する対処法を巡る認識論において、最も有効な思念を提出してきたのが、数学であったとも言える。ある解を求める場合、代数によってなすのか、あるいは幾何によってなすのかというような選択は、その解自体よりも恐らく解を求める目的に応じて変化してゆくことであり、どのようなものが一律に正しいとかは言い切れない。
 ある政治的な課題や問題に取り組む政治家の決断によって、その課題自体はある程度克服されたとしても、また新たな課題や問題が噴出してくるということは日常的に多々あり得る。ある事態に対処すべく制定された法律が、別の事態、例えば犯罪の温床になるということも大いにあり得る。つまりそういうモグラ叩き的状況を産出させないような方策、それはきっともっとマクロな視野にたったものであると思われるが、そういう政策や法律の制定が求められる。要するに犯罪する必要がない社会(そんなものがあってのことであるが、少なくともそのような理想を持つことには意味がある)を目指すということである。
 勿論それが簡単に見出せれば何も我々は苦労などせずに済む。実はそれが一番難しいのである。そういう価値転換とはでは一体どのような形で到来するのであろうか?
 まず言えることとは、何か不測の事態が発生した時、そういう場合あまり結果を性急に出そうとはせずに、ゆっくり構える心持ちも重要である。近視眼的な認識をいったん捨て、マクロ的な視界を獲得した然る後、ある課題や問題に対する対処法を模索する、ということである。しかし勿論そのためには同時並行的にミクロな対処もしてゆかねばならない。そうしながら同時に大局的なことを考えてゆくということである。
 病気は自然なことである。それを罪悪視するということは病気を治すことではなく、寧ろ病人は差別すべき対象であるから、差別対象を消去したいという趣旨で病気を治癒することが社会において求められることになる。(ミシェル・フーコーの「狂気の歴史」参照されたし。)病気が自然であるなら、病人もまた自然であり、それは罪悪では勿論ない。しかし個人レヴェルでそのような認識を持たれていても、病気自体を忌むべき対象とすれば、必然的に健康人、健常人を通常として、その中でも社会的地位の高い人間を理想とする、そういう見解からは徐々に差別社会の縮図が見えてはこないだろうか?そういう観点をニーチェから我々は学んだ。
 「AはAである。」という同語反復において我々はAの性質とか状況とかを熟知しているかの如き錯覚に陥る。しかし「Aは同時にBでもある」場合もあるのだ。あるいは罪悪視されてきた病人だけではなく、別の観点からは健康人、健常人こそが奇形である場合もあるのである。こんな酷い環境汚染に実害ない人間は一体どういう身体をしているのだ、あるいはこんな酷い状況に耐えられる神経というものは一体全体どうしているのか、という観念が我々に起らないとも限らない。そうである。価値転換においては、今の今まで正常であったものの、異常さがただ今は発現されていないだけで、いつ何時我々の眼前でその異常さを剥き出しにしないとも限らないのである。酷い自然環境、酷い人的社会的環境に対してトラウマを持つ人間は翻って考えてみれば最も正常である、と言い得るのだ。
 何事にも翻弄されない意志の強さは必要であろう。しかしどんな過酷な状況においてもその状況の過酷さに翻弄されないのなら、その意志の強さはただの鈍感さであるかも知れない。我々は正常と異常の観念、あるいは熱中と翻弄の観念をもう一度じっくりと考え直してみるべきではなかろうか?次章においては関心を持つ対象に取り込まれること、抜けられなくなることについて考えてみたい。
 少しも堅くない話でははいではないか、とお思いの読者もおられるであろうが、分かりやすい真理とは、このような堅い内容を一度は真剣に考えなければ見出せないものなのだ。

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