Saturday, October 3, 2009

B名詞と動詞 思考内容の整理(パラダイム化とカテゴライズの概念規定性)

 名詞はある不変性と普遍性を固定化しており、斎藤慶典の謂いを借りれば対象の同一性(「フッサール 起源への哲学」227ページより)の下で成立している。というのも名詞が果たす役割は概念性に深く依拠しており、「赤い林檎」は私が見たり食べたりしたものは、あなたが同じようにそうしたものと全く別個であり、それらに対する物の見方も、味わい方も、感じ方も、つまりは「赤い林檎」に対する私とあなたの意味は異なっているが、その異なった意味同士を結び付ける(それはコミュニケーションを可能にするためであるが)為の方便として概念は一致していなければならないのである。つまり「赤い林檎」は世界中にその唯一性と個別性を持ちながら個々において存在するのにもかかわらず、しかしそれらに該当する全ての個別の「赤い林檎」はまさに概念上ではどれも変わらずに「赤い林檎」なのである。それはどのような異なった哲学者間にも共通する哲学者独自の倫理や性向に近い。カントに対するサルトルやメルロ・ポンティーも所詮、世界一の能力を持つあらゆるスポーツ選手たちを持ってくれば、同じパラダイムの、同じ領域の思考回路を持った一群にしか過ぎない。(勿論すべてのスポーツ選手とすべての哲学者とが共通する部分もあるから、世界有数の資産家と比較した方がより解りやすいかも知れない。)つまり名詞の役割とは差異よりも共通性の方が大きく感じられる範疇的な分類上の概念の明示なのである。
 これに対して動詞は常に個別的である。それは事象的変化そのものを表現する方便であるからだ。私が駅のホームで走ってゆく(電車に乗り遅れないように)その姿はあくまで私の走り方で、私の固有の身体的条件とそれによる姿態を伴っており、それは明らかにあなたの走っている感じとは違う。つまり動詞は個別的な事物や生命体の無常と変化を表現するので、動きそのものの普遍性よりも個別的差異を表現しやすい、という意味において、極めて意味的である。また私の「原体験」としての「赤い林檎」はあなたのそれとは異なっているが、私自身の内でもどんどん変化している。私は日を追うごとに年齢を重ね、老化してゆく。すると私の「原体験」としての「赤い林檎」はますます遠い過去となる。すると私があの時食べた林檎の味(記憶像)はそれを美化されたり、如何様にも変化してゆく。(最初に食べた林檎がおいしかった時の思い出はそれ以上においしい林檎を食べても余りにも鮮烈な思い出である為に最初の林檎の方を美化しがちである。)意味は変化する。若いときの肉ほどのおいしさは老人には味わえないものである。繋げるものとしての名詞(対象化、固定化)と流動的で個別的な動詞(現前化、体験性)という全く別個の存在が「あなたは走る。」と表現される。あなたは仮に走るのを止めてもあなたであることはかわりない。でも走る行為はその走っている時だけであり、走り止めてまた再び走っても、その走りはさっきまでの走りとは別の意志的に隔絶されたもう一つの行為である。
 ヘーゲルは「精神現象学」においてこう言っている。

たとえば、目の前に塩があるとしよう。この塩は単一の「ここ」であり、同時にたくさんの性質をもっている。白い色をし、辛くもあり、立方体の形もしているし、一定の重さもあり、…….。これらの性質のすべては、単一の「ここ」にふくまれ、たがいに統一されている。どの性質一つとっても、他とちがう「ここ」をもつものはなく、それぞれが他と同じように「ここ」の全域に広がっている。が、同じ「ここ」に統一されて存在しながらも、性質同士はたがいに影響をあたえあうことはない。白い色が立方体の形に影響をあたえたり形を変化させたりすることはないし、その二つが辛さに影響をあたえることもなく、それぞれは単純に自分と関係するのみで、他の性質には手を出さない。ただ、こういう性質もあり、こういう性質もあり、と「も」が続くだけで、この「も」こそが純粋で一般的な媒体のありようを_たくさんの性質をまとめあげる物としてのありようを_示している。(179~180ページ<作品者刊、長谷川宏訳>より)

ヘーゲルのこの謂いをかりれば明らかにここでは名詞と動詞は塩(=名詞)であり、白さと重さ(=動詞)に匹敵する。形容詞は状態を表わすので本論では動詞の範疇に入れる。個々の形容詞や動詞とは実際上単一のもの(主語となる名詞)を別の角度から抽象された性質である。ただ「あなたは走る。」と私があなたに向けて言う、という行為においてのみ我々は統一されたメッセージとして受け取るのであって、<あなた>と<走る>は決して性質的には重なり合わない。だがそれらは私が同時にある出来事として語るということ(行為)の中で、<あなた>「も」<走る>「も」私の文章の構成物である、ということにおいてのみ統一させるのである。つまり異なった性質の言辞の為の要素を結び付けることが出来るのはそれを陳述する話者や記述者がいるからなのである。そういった全く別次元の事項同士が一つの事実を明示するためにのみ、同時に一つの出来事を構成する地点に共存しながら、その唯一的な矛盾を残し陳述されることの意味を表出させながら全体としては「文章的メッセージ」によって語られた(事実)は成立しているのである。
 そして錯視を錯視として認識することが出来る地平に我々はある種の絶対的なる、不動なる認識作用、独我論的真実を、見出すことが出来る。(このことについては、やはり斎藤慶典著「フッサール 起源への哲学」の第五章 世界_「現象の場所」に詳しいし、その論説は素晴らしい。)名詞も動詞も共に陳述には必要な存在だが、そういった不動なる認識作用を前提して存在する確固とした対象の同一性(メッセージの前提)が名詞の世界の明示性であり、瞬間毎に固有の事実をメッセージ内容とするものこそ、動詞の世界の明示性なのである。(動詞だけは節で表現できない。)

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