Monday, October 5, 2009

D言語、行為、選択/3カテゴリーと言語の相関性

 カントが先験的理念とか実践理性とか呼んだもの同士の補完的メカニズムやらフッサールが超越的知覚とか呼んだものに共通するものは超越的命題そのものである。と言うのもそれらは総じて言語の持つ論理、すなわち可能条件的、もっとわかりやすく言えば言語を通して表現し得ることの可能性である。小説はフィクションであり、実際の出来事ではないにもかかわらず我々はそこに現実を見るように、言語は現実に対してある種の対応関係をもったコミュニケーションの道具だが現実を離れて言語自体で機能し、思考出来る。言語がいつしか本来の機能であるところの現実の写像のみに奉仕することを離れてそれ自体の秩序を模索してきたことをフーコーは「物と言葉」で論じているが、実際上我々の全ての想念が言語を通している以上それは不可避的現実である。行為が選択であるなら、我々は躊躇しながらも最終的な結論を見出して生きているのだし、逡巡しながらも何かを決する選択に日々直面している。そこで理性も理念も知覚さえも言語のネットワークの中で編み出され、存在可能条件を生じ、我々が本能的な反射行動や内的敵愾心やらのすべても、やはり波長という名の他者とのコミュニケーション上の戦略的方法論の相違がもたらす、極めて言語的な前提条件の差異が生存戦略的に距離を作るのだ。だから気質的協調や同調は個人が採用する行為、とりわけ他者と折り合いをつける上での行為選択の方法論における相同がもたらし、逆に反目とはその違いがもたらすものなのだ。他者に接する時の距離感の問題、あるいは親愛の情の示し方、それらは総じてプライヴァシーと公共性の共存した社会学的問題でもある。公共性をコミュニケーションで重要視すればプライヴァシーはその時点では抑制される。しかし公共性とはそもそも個人の自由や権利、平和的生存を基調としたものである。それから離れ公共的行為のみになると何のための公共性であるか、という課題が再び噴出する。
 ともあれ言語によって論理展開出来ることは言語行為を主たる手段とする我々にとっては、ただ単なる空想ではなく、実現可能性でもあるのである。だからカントが理性や自由といったものやサルトルらがアンガージュマンといったものたちは決して絵空事ではなく、寧ろそういった言語の可能性から現実における実践の可能性を見出してきたのが私たちだ、とさえ言い得るのである。
 だからこう言おう。我々は言語的範疇における可能条件はただ単に言語の可能性であるのにもかかわらず、言語の可能性こそが現実に起こり得る可能性であり、逆に一見簡単に起こりそうなことであっても、言語によってそれが論理展開せず、立証できぬものは可能性のないものである、という論理と倫理を受け入れて、あるいは選択して生きてきているのだ、と(我々は錯視というものが多数あることを知っているが、これなども後者の典型である)。
 だがその選択にも色々のパターンとその都度の異なった経緯がある。特に積極的に何かをやりたい、何かをしなければというモティヴェーションのない場合(それが結構多いのが人生であるが)何をしたくないか、あるいは何をしてはいけないかということを指標にして意志決定システムは作用する。だから当然の如く何を言いたいかとか何を言うべきかは、何を言いたくないかとか何を言うべきでないかということを指標にして、基準にして決定される。こういった消極的意志決定システムはしかしその有用性が極めて大きい。なぜならもし何かを宣言したりしたら後へ引けなくなる、自分の責任を問われる(こういう局面からJ.L.オースティンはperformativeという概念を導き出したに違いない。)羽目に陥りかねない。それだけは避けるべきだ、それは何をやりたいかも、特にやりたいことが明確でない場合は、やりたくないことで時間を浪費したくないということから合理的に決定する場合が多いと思われる。ビジネスでは何をやらねばならないかが何をやるべきでないかによって、そして何を言わねばならないかは何を言ってはいけないか(言うべきではないか)によって決定されている。ここでもコンピューターの虱潰し思考法に近いことが実践される。それは一面では消去法に近い。しかし恐らく一番それと異なったことは自己に対して知らず知らずにタブーや禁止事項を設けている場合も多いということである。それは致し方ない場合もあれば、出来るなら積極的に回避すべき場合も多々ある。何をやりたい、何を言いたいかが、何をやりたくないかや何を言いたくないかによって決定される場合この後者が、臆することによって作られる無意識における自己に対する禁止事項である場合が結構多いのである。そしてそれは特に積極的に何かをやりたいとか何を言いたいとかがなければ、より積極的に抑制系のメカニズムが機能するわけである。あまり積極的にやりたいこと、言いたいことがない場合あたら不本意な行動や発言がなされると、その後の身体精神的ダメージが大きくそれだけは避けねばならないからである。それでいて何をやってはいけないか(何をやるべきでないか)とか何を言ってはいけないか(何を言うべきでないか)の判断は、ある種の義務感(それはやること、言うことでしばしば自らの逃れられない責務を生じさせるからであるが)、つまり本来であるなら(今のような調子で身体精神が意気消沈してさえいなければ)何をやらなければいけないか、何を言わなければいけないかによって醸成されているわけである。何もしない、とか何も言わない、ということでもたらされる最低の成果というリスクだけは回避せねばならない。

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