Friday, October 9, 2009

C翻弄論 3、関心と熱中の対象

 我々が通常関心を抱くものは興味が持てるもの、惹きつけられるもの、要するに好きなものである。それは事物とか事柄の場合でもそうだし、人間に関してもそうである。
 逆に何の関心も持てないものというものは要するに自分にとって印象の薄いものである。だから印象の強いものというものは仮にそれが好きになれないものであっても、印象の薄いものよりはずっと関心が持てるものである。だからこういうことが言える。好きなものは一番関心が持てるし、逆に嫌いなものは一番好きなものほどの関心は持てないが、全く印象が薄くて、関心が全然持てないものに比べれば遥かに関心がある(少なくとも拒否反応を持てるくらいには関心がある)ということである。
 例えば人間を対象として考えてみよう。好きなタイプ人間というものは関心が持てる対象であることは言うまでもない。しかし嫌いなタイプの人間というものは、その嫌いになる理由はいろいろあるあろうが、少なくとも、何の感情も持てない印象の薄い人間よりは遥かに印象は強いわけである。しかもこういうこともあり得る。まず関心がある対象とは好きであれ、嫌いであれ、自分の持っている関心事項(人間関係ではなく、例えば趣味とか生き甲斐とか別のもの)というものにおいて、同一のフィールドに関心ある人とか、それに関係のある事物に限られる。例えば競馬に興味も関心も全然ない人間にとっては競馬場、レース、ジョッキー、パドックといった存在は全て馬同様何の関心事項にもならない。しかし一旦競馬自体が好きになり、関心が持てるようになると、それら全てが関心対象として現出しだすのだ。
 こういうこともある。関心のある人間の中で好きな人間というものは別段問題はない。問題は嫌いな人間である。嫌いという感情を抱くことが出来るのは、あくまでその対象となる人間に対して、ある程度の知識があるからそういう感情を持てるのだ。尤もあまりにも第一印象が悪くて、その人間の実像を知らない内に拒否感情を抱く場合もあるが、それですら、その強烈なる第一印象というものが持てるということは何の関心も注意も引き付けない無個性的な人間よりは関心が持てるということに他ならない。だから嫌いになった人間というものはまず印象自体は影の薄い人物よりは、遥かに関心があるのである。ではそのような嫌いである、という感情はいかにして形成されるのであろうか?
 嫌いという感情はまず自分の持つ世界観とか人生観とかあらゆる価値観に相反すると思われる、つまりそういう自分にとってかけがえのない事項に抵触するもの、つまり自己の存在を脅かすような危険性を感じるものである。
 例えばギターを習っているとしよう。その教室で自分より腕前の上な生徒で自分に対して親切な人というものはすぐ好きになれよう。しかし逆にそうではなく、何となくつっけんどんな性格の人間に対しては、その人間が自分よりもギターの腕前がずっと低かったなら、そうでもないのだが、逆にずっと上であったなら、嫉妬という感情も手伝って、いっぺんに嫌いになるものである。要するに嫉妬という感情は羨ましさ、羨望というものがまず基本としてある。自分にとって能力を欠落させていることに関してある他者が充足しているとことを確認出来るということが第一に考えられる。自分にとっては苦労してやらなければ達成出来ないものをいとも簡単に(簡単なように)こなせる人間に対しては嫉妬を覚える。しかもその達成物というものは自己にとっても努力さえすれば達成可能に思われるもでなければならない。スポーツに関心がなく、スポーツをやりたいという欲望さえ湧かない人間にスポーツの得意な人間が羨ましく思える筈がない。努力すれば出来るように思われ、あるいは努力しなくても、自己が持つ能力にある程度自信の持てる領域において自己よりも秀でている者に対しては容易に嫉妬心を持つ。
 しかも人間というものは始末の悪いもので、その嫌いな人間という奴は、寧ろただ漠然と好きな人間というものに対しては、ある期間が過ぎると殆ど関心もなくなるものなのに(だからいつまでも好きでいられる人間というものは得がたい、そう出会うとのない切実な人間であると言えよう)、嫌いな人間、しかもその中でも、嫉妬という感情を抱く相手というものはなかなか脳裏から、あるいは胸中から消去されないでいつまでも残る。「汝敵を愛せよ」というキリスト教の教えとは意外とこういう感情、つまり嫌いな者に対しても、その嫌いという感情がいつまでも消えないということは、それだけで関心を抱ける対象であるということを意味するから、嫌いであったけれどいつまでもそういう憎悪の感情を拭い去れないこともない、いつの間にかどうでもよくなる人物よりは憎悪が拭い去れない人物というものは、好きであって愛情や友情の対象であるようなかけがえのない人物に次いで、関心が持てるということを意味する。そういう人物に比べれば第一印象では好感が持てても、次第に人物評として印象が薄くなってゆく人間よりは遥かに嫌いな人間というのはいつまでも印象も濃いし、憎悪の感情も拭い去れないのだから、最も愛すべき対象に次いで重要な人物でもある、と言い得るのだ。しかもその人物はたいてい自己にとって拘りが持てる同一フィールド(つまり回避することの出来ない日常的な場面)でかかわりのある人物である。もし嫌いであっても自分とは遠い場所で生活し、そう滅多に会う機会のない人間であるなら、そう関心を持続することはない。しかし近隣の住人、あるいは同一の職場、あるいは同一の趣味や生き甲斐に関する事項でかかわりのある人物というものに対しては、嫉妬という感情も更に激しくなるのだ。
 好きな人物、親友と呼べる人物に対してはある程度気を許すものであるから、人間は空気のように感じてしまう。しかしここでも「親しき中にも礼儀あり」という諺のように、ある一定の距離とある一定の礼節というものが要求されることは言うまでもない。逆に嫌いな人物であっても、その人物が自己の日常において頻繁に登場する機会の多い人物であるなら、それなりに巧く対応してゆかねばならない。そこで人間というものは好きな人間以外の人間に対する接し方において苦慮するようになる。その中でも嫉妬の対象というものに対しては、全く関心が持てない人物や、そこそこに関心が持てる人物よりはずっと大きな関心を抱いていることは間違いないのだから、何故その人物に対してそんなにひっかかるのか、ということを真剣に考えてみる必要がある。それほど関心を抱けない人物に対してなら、その人物が多少憎悪を抱いてしまう人物であっても、要するに巧く避けておればよいのである。そういう人間のことはじき忘れる。だから贔屓感情を抱けるもの以外では、憎悪の対象となる人物ほど関心を持続し得る人物というものはそう滅多にいるものではない。ほどほどの関心のものに比べれば、寧ろ憎悪の対象物、人物に対してより関心を持っているということは事実である。
 では関心の持続という事態はいかにして発生し得るのか、少し考えてみよう。
 関心の持続というものは、その関心対象に対する未理解なことへの自覚であり、そのものの魅力に対する認識の飽くなき追想であり、それらはポジティヴな対象(好きなもの)に対してと同時に、ネガティヴな対象(おぞましいもの)に対しても等価なエネルギーによって向けられる。ネガティヴな対象に対しては意識レヴェルでは拒否するのに、無意識レヴェルでは歓迎している場合も多く、それらはフロイト的な超自我によって抑圧されているだけであり、実際は大いに興味がある場合も多い。ポジティヴである場合には、その対象に対して熟知している筈なのに、更に未知の部分を認識出来るから尚関心が持続するのだ。ネガティヴな対象に対しては、その魅力に対する認識が非自覚的であるから、未知性は最も大きい。しかしそれらは一生無意識のまま留まるものも多いと思われる。敵となる人物にはこのタイプが多いが、敵でも全く自覚的に敵であると認識し得る対象から、そうではなく一生それが敵であると気付かない場合もあると思われる。
 ここで簡単に関心の持続のタイプについてカテゴライズしておこう。

① 愛すべき対象、贔屓な対象に対する愛着という名の関心 
② 拒否反応を起こす対象に対する疑問があることに対する関心(このケースでは嫉妬対象である場合も多い)

②のタイプに関してのことが最も理解することが要求される事態であろう。これはただ無視すればよいというだけでは済まされないものをそこに読み取っている場合である。ただ嫌いなだけの場合は、無視すればよい場合もある。しかし同一職場にいる人間、住む町などはそうおいそれとは忌避出来ない。そこでこれらに対しては愛着を感じることが出来るように努力するであろう。そこでこういう忌避出来ない日常的重要事項(運命、愛情、伴侶、友情、健康、資本主義社会、天皇制、男女の性差、貧富の差、政治、知性、世界情勢、金融市場の状況)とは、既に自分にとってポジティヴである場合もあるが、ポジティヴにしたいのにそれが叶わない場合、疎ましい状況であるのに忌避することが適わないものだ。しかも寧ろ①よりもより翻弄されることが多いと思われる。①は単純に親しみの持てる対象であり、自己及びその生活に馴染んだ対象である。そういうものはたとえ運命が過酷でも出会うことはあるだろう。それに対して②は嫉妬感情を抱くことさえままあると思われる。資本主義社会は金銭的な勝ち組にとっては歓迎すべき事態であろうが、貧富の差はそうでない者にとっては疎ましい事態である。だからと言って社会体制は忌避出来ない。結婚相手もそうであるし、友人もそうであるだろう。あるいは身体的な健康状態といったもの、生理的な現実はどんな人生の生き甲斐を持っていても、不可避的に人生全般に圧し掛かってくる。それらは全て運命である。しかしそれに対する打開とは、ある程度自己責任の部類に属する対象である、ということである。人間関係も経済力も健康もある程度は自己管理に属する事態である。勿論先天的な病気とか、突発的な悲劇(自分の不注意ではなく事故に遭遇するとか、肉親を失うとか、自分の勤める会社が倒産するとかの<尤もこれは多少先読みが出来れば防げる場合もあるが>)といった例外的ケースはある。
 人間社会に属している成員の全ては、ある意味では皆我慢をしている。それなしに過ごそうと思ったら自分の才覚で自由を入手するしか手はない。あまり疎ましい人間関係を避けて生きることを望むのなら、それ相応の努力によって煩わしい人間関係を経なくても済む方策を考え、それでも尚生活出来るような能力を持たねばならない。それはかなりな難事業である。
 そこで煩わしい人間関係において人間が編み出したものが法というものであろう。これらは明文化された法律をはじめ、あらゆる人間社会の常識的な現実を含む。言語もそうであろう。法を順守することは生活上の死活問題である。そしてその順守というものは、意志的な行為であるし、慣れの問題でもある。
 哲学者カントは倫理性に関して、主観的なこと、つまり対自己としては格律というものを、客観的な真理としては実践的法則というものを提唱した。これら一切を含有する至上価値は彼にあっては道徳的法則とか自由というものであった。それでも人間も動物の一種であるから、どうしても性格とか性質とか資質とかもあるだろう。それらをカントは傾向性と呼んだ。カントはこの傾向性に頼って生きることを忌避すべき事態と捉えたのだ。
 例えばある人物が別のある人物に対して優しい態度を採るのがその人間の性格とか性質から来ることよりも(それは無意識になされる行動であるから、つまり格律から来る行動ではないから)、意志的な、意識的な、倫理規範的な行動に対する欲求と決意からなされることが、つまり彼が言う傾向性に準拠した行動ではない善意志であるから、より歓迎される行動のタイプなのである。
 そこでカント流の観念を利用すると次のような事態が想定し得る。
 嫌いな人間が今目の前にいる。しかし彼は自己にとってその性格も、性質も動物本能的には忌避すべきタイプなのに、その人間は自己に対して礼節をもって臨み、決して非礼ではないような場合、自己にとってその人間は極めて関心の対象としては恰好の素材であると同時に、②のタイプに近いから、当然のことながら、その卒の無さから嫉妬を催すのに適している、と。傾向性としては自己にとって忌み嫌うべき対象であるこの人物は、社会正義上では自己に対して非礼ではない。するとその人物に対して自己はその人間の意志的決断を左脳的に受け入れ、理解出来、理性論的には正当性を認めざるを得ないから、しかもそういう人物というものは往々にして、自己の欠落点を補うに余りある、つまり自己にとって欠点である箇所を充足しているから嫉妬を覚えるのである。だが生理的に、自己の傾向性に鑑みて、その人物は①のタイプの友人とか好人物と異なって、感情的に煩わしいものを感じるから、当然のことながら熱中出来る物事に対して水をさすような人物である。だからまた忌み嫌うのだ。これが自己の生活を脅かしてくる場合(まさに弁護士に対する検事であるとかの立場の違い、他にも画家と美術評論家、画商とか、犯罪者にとっての警察とか)明らかに敵となって作用することであろう。
 しかしカントの言う格律というものは実際上極めて観念的で把握し難いものでもあろう。何故ならそのように理性論的に行動出来る人間はかなり年季が入っていよう。それはある経験が必要なのである。それが出来るのは傾向性としてもかなりよい人間ばかりでもないのである。偉大な人間というものは傾向性としては毒づいた人間も多いのである。しかしその行動、業績は褒め称えられるべきものが多いのである。これはこのことと関係があるかどうかは定かではないが、ニーチェは次のようなことを言っている。
「ある人間の性欲の程度と性格は、その精神の絶頂にまで及ぶ。」(「善悪の彼岸」75節)
 これはある意味では俗悪であっても、ある執着の濃さであっても、同じ傾向性とか同じア・プリオリが別種に作用する、つまりよく作用すればとんでもなく素晴らしいものになるのに、悪く作用さればとんでもない極悪になり得る、という事態ではないだろうか?
 要するに印象の濃い人物とはそのようなタイプであり、関心の対象として引けをとらず、逆に印象の薄い人物は、とりたてて悪いこともしないが、いいこともしないという風に解釈してもあながち間違いではないであろう。
 またカントの行為の格律というものは理想でもあるわけだから、真理に近いであろう。しかしその真理は人間が思い描く神の実像に近い。そこで次のようなカテゴリーが再び提出され得る。

真理(神、イデア、理想)
欲求(人間、実在、現実)
 
この下段の欲求におけるその傾向性において実在と現実の狭間に実存が位置すると思われる。そして前者は、実際に目で確認出来ないものであるから、<無>であり、後者は目にすることが出来る、確認し得るから<有>である。そして真理とは意味内容であり、欲求は意味作用である。何かが閃いたり、病気になったり、生理的な催しは顕現であり、意味作用であり、その内容というものは現実には顕現され得ない、よってそれを他者に伝達したり、書き留めたり、何かの形にする。(意味内容の伝達)しかしその形となったものは意味作用の世界であり、その形を通して心に伝えるものが意味内容である。それは嬉しいニュースであったり、悲しいニュースであったり、心温まる文であったり、白けさせるメールであったり、いろいろである。真理とは格律の世界であり、実践的法則の世界であり、分析し得るものであり、判断的なことであり、決意であるのに対して、欲求とは非格律的世界であり、実感であり、促進であり、翻弄の世界である。つまり感動する行為であり、それは真理が感動させる内容であるのと位相が異なるものである。
 要するにカントは翻弄される対象に関しては、客観的に眺めてみることが必要である、近視眼的な認識から離れて、マクロにものを見よと言ったわけである。
 このことはニーチェも大いに自覚的であった。
 「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する」
と「道徳の系譜」で締めくくっている。それはある意味でニーチェ哲学の結論的な意見であったと思われる。人間は好きでない対象を否定するよりは、拒否するよりは否定、拒否自体を回避させたいのである。その方がましなのである。それは豊かな人生の時間を過ごしたいということである。理想志向こそ人間本性である、と言っているのだ。
 しかし人間は不可抗力的にその死すら不条理に外部から享受する、そういう存在である。愛する対象を突如失うかも知れない。しかしその事態を引き起こした疎ましい根源に対してすら、人間は執着する。それは無を欲することである。例えば愛する家族を殺人で失った人間は復讐の念に燃える。その悲しい事態を忘れたくない。そこで怨念を持続させる。それは関心の持続の最もネガティヴなものである。人間というものは出来る限り復讐しなければならないような対象を持ちたくはない。しかし一旦そういうものを心的に抱くと、それをも一つの必要最低限のストレスとして認可し、やがてそれ(復讐)を目的として生活しだす。その計画に対して熱中するようになる。それは最早先述のニーチェの言う否定ではない。復讐という行為の自己正当化であり、肯定である。復讐がいけないことである、というのはニーチェの敵であるキリスト教の「汝敵を愛せよ」である。
 悲劇にみまわれた人間は悲劇が起らなかったという風には思わない。いや思いたくはない。悲劇的現実を受け入れ、肯定するのだ。否定とはこの場合、自己に起りつつある悲劇から目を反らせ、直視せず、負債を抱えて返済期日が差し迫っているのにとても返済不能なので、浮かれ遊び今ある金を湯水のように使いきることである。そういう人生の自暴自棄はなるべくならしない方がよいと理性的には判っているのに、止められないというのが傾向性に準拠した姿勢である。それは翻弄されることを自覚的に受け入れないで、流される生き方である。
 あるいはそういうことまでゆかなくても盲目的な尊敬心(その対象に対する不完全性を認めたくはないこと、欠点などないと思いたい気持ち)とか尊崇といったものは一旦そのものの中に理想的な観念外のものを見せ付けられ、期待が裏切られると途端にその対象に対する感情は酷いものになる。まるで憎悪にまで転化し得る。このことに関しても「可愛さ余って憎さ百倍」という諺もあるが、それはネガティヴな関心へと転換したのだ。ニーチェもまた「極めて怜悧な人々は、当惑するようになれば、不信を置かれ始める」(「善悪の彼岸」88節)と言っている。大人の関心というものはその堂々巡りを克服する。
 序章で私は真理と欲求は実は表裏の関係である、と言った。それはニーチェも実は言っているのだ。
「人間の「認識する」すべてのものが人間の願望を満たさず、却ってそれに拮抗し、それを慄え上がらせるというような場合、その責任を「願望」にではなく、むしろ「認識」に求めうるというのは、何という神聖な遁げ道であろう!「認識は存在しない、神は存在する。」何という新しい《推論の精緻》であろう!禁欲主義の何という凱歌であろう!」(「道徳の系譜」200ページより)
 この記述の前半は主知主義に対する批判、その次の二つの文はキリスト教教義、及び倫理に対する批判である。欲求よりも認識、認識よりも神を肯定する態度こそ偽善的である、と彼は言いたいのである。しかしこれもまた人間の逃れようも無い傾向性でもあるのだ。真理希求とは要するに欲求の抑圧であるし、願望の理性的認識であるし、認識以上に運命を信じる人間の非合理的な部分、すぐに逃げ道を探し、短絡する部分はこれに当たる。合理的な認識を必要としながら、同時にそれを廃棄しても尚信じることを止めないような傾向性をニーチェは言っているのだから、その主張はカントとも重なり合う部分は大きい。そのことを端的に物語っているのは次の節である。
「「それは私はしたことだ」と私の記憶は言う。「それを私はしたはずがない」_と私の矜持は言い、しかも頑として譲らない。結局_記憶が譲歩する。」(「善悪の彼岸」、68節)
 この箇所は実はかなり難しい。というのも対社会としての責任倫理としては弁解すべきであるし、自己正当化すべきである場合もあるが、それは内的な格律の問題、あるいはキリスト教教義的な心情倫理からすれば疎ましいことであるからである。
 国際的大企業の社長とか一国の首相とかは自己正当化すべき局面もあるであろうし、しかしその時の彼らの心理は彼内心の自由の面からすればかなり内的に厳しく過酷であろう。
 つまりあらゆる哲学的な問いは、それを社会責任という側面から捉えるのと自己の内心の良心という側面から捉えるのとでは全く異なった結論に至るケースも多々あり、かつそれはニーチェのこの節における主張を二律背反に追い込むこととなるのである。
 それは宗教対政治という世界観の相違である。あるいは正義感というものの在り方の観念上の相違である。
 しかしこの内心の良心問題と社会的責任の相克問題は少なくともポジティヴであろうと、ネガティヴであろうとも関心対象として熱中すべき事態ではなかろうか?次章ではそのことに関して真意を伝えることと嘘をつくこと、偽装性の問題に触れてみようと思う。

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