Saturday, October 3, 2009

C翻弄論 本文中 序

 我々現代人は情報の渦の中にいて右往左往している。一々情報に振り回されたくないと思っても社会はそれを許さない。我々の日常は一々反省的時間を持つ余裕を与えない。社会はそれを個人的な物思いと受け取る。だから哲学的な反省は非日常化された行為と見做される。思惟自体社会機能には何ら貢献しないからである。しかしそれが言語化されたとなると話が別である。人は自分の言葉に責任を持たねばならない。我々の社会では、メディアの流す情報は概ね正しいものとされ、情報を利用するように仕向けられるが、情報を摂取する個人の内面は殆ど省みられることがないが、それは反省など必要ないということを意味しない。
 昨今の脳科学においてクオリアという言葉を定着させたのは茂木健一郎氏の功績であるが、哲学においてもこの言葉は使用されていた。信原幸弘氏もまたその一人である。クオリアという概念はただ知覚像を形成する感覚質であるばかりか(もしそうならそれは感覚論の焼き直しにしか過ぎないだろう。)実際我々はそこにもっと深い意義を見出そうとしている。世界を認識することを通して一つ一つの現象を把握しているということだ。
 例えば倫理的な問い、道徳的な理念というものは、論理的に理詰めにして考えて導きだした結果ともずれていて、その二つが相容れないことも珍しくない。論理的に理解出来ても心底納得出来ないという事態は頻繁に起こる。その時納得し得るという事態には何か信じられるということと同一の基盤にある信念がある。それは論理的な手続きともまた一線を画している。それは一つ一つの信念を綜合するような何かである。
 我々は熱中している時、我を忘れるという事態もよく経験する。しかしそういった行為の埋没はいいことであれば推奨され、激励され、賛美されるが、悪いことに関しては非難される。例えば勉強に熱中する受験生や、スポーツ選手が大きな大会に向けて訓練していることは激励されるが、酒に溺れるような人間は非難され、麻薬中毒になる人間は犯罪者のレッテルが張られる。しかしそういった熱中ということは善悪の判断を超えた何かとてつもなく大きなエネルギーが働いて、我々を内部から突き動かすように思えてならない。
 例えば熱中という事態は、関心事項へののめり込みであり、その対象からの翻弄である。ただ我々はある特定の関心に対し推奨したり、激賞したりするだけである。その内的なメカニズム自体は、たとえそれが性的な快楽追求に明け暮れることであれ、貯金をすることであれ、かわりはない。熱中とは熱中する対象への抑圧の全面的解除である。株式投資家たちは株の高低、利率といった事態に対して関心を傾注させ、それは金融市場自体からの翻弄である。政治家たちは自らの政治的な理念に対して関心を傾注させ、その実現に翻弄される。政治的な権力もまた大いなる魅力、魔力があり、汚職をしない政治家も、それに取り付かれている。スコラ哲学上における神に対する論争、煩瑣哲学上の理論的な論争もまたある種の主知主義的な思弁性に傾倒した論理思考性からの翻弄である。有能な官僚は公的文章を作成する時、組織自体には何の障害も及ばないように用意周到に取り組む。官僚にしか理解出来ない、ある意味ではどうとでも解釈出来る文章を作成することにおいて彼等はプロ中のプロである。こういった行為もまた官僚の責務とか、有能さという価値規範からの翻弄である。彼らはそれが社会からの要求と信じている。そうでなければそういう工夫などしないだろう。スタンダールの名作「赤と黒」の主人公のジュリアン・ソレルはある意味では出世欲とか社交界とか、異性に対する俗世間的な野望という欲求の虜であり、世間的現実からの翻弄の象徴である。彼は他者に遅れをとりたくはない気持ちが強かったのだろう。しかしそのようないいことも悪いことも含めた傾注、極度の関心の充満、没我的な状態というものには、全て内的にある共通した心的な様相がある。そのことを考える前に、一体欲求というものとは何なのかということをちょっと考えてみよう。
 我々は空腹であると食欲がトップ・プライオリティーとなり「食べたい」という状態が支配する。しかし食事を取り、満腹感を得ると、途端に食欲に関してはあまり大きな意味がなくなる。それは一日のこともそうだし、食事すること自体が何の心配もない生活レヴェルの安定した状況の人間にとっても、食の問題は次第に重要課題ではなくなる。レヴィナスもこのことを指摘しており、欲求不満とは飢餓状態にある人間にではなく、もっと満たされた人間に襲う、と述べている。我々は寧ろ食欲が満たされると、今度は知的飢餓に襲われる。安定した生活だけが楽しいものではなくなる。
 食事し終わって新聞の読んでなかった箇所に目を通し、テレビ番組を見ようと思うし、今日一日のことを振り返ろうと思う。反省である。思惟の時間である。それと同じことがそういう安定した毎日の生活全体にも言える。すると生活が知的段階に入ったら入ったで、その状態にはその状態なりに、理屈っぽい(観念性の強い)、堂々巡り的な思弁主義が待ち構えている。ある種の経済学者にはこの種の原則論的な思弁主義者が多い。
 今までの学問は感覚的な事柄と思弁的な事柄、あるいは宗教的な信仰といったものを全て異なったものとして考えてきた。感覚的なものは快楽的な事項として、思弁的なものは論理的な枠組みとして、信仰的な行為とか感情は神学的な秩序として別個のものとして考えられてきた。しかし実際上我々はそれらを厳密に異質のものとして境界を持つものとして把握し得るだろうか?
 信仰心も熱中するとパラノイアックな心的様相を呈し、陶酔的な事態以外の何物でもないし、逆に感覚的に受け入れられる音楽に対して我々は論理的な説明を好む。それを音楽楽理として、あるいは脳波の作用として、客観的に把握しようとする。あるいは思弁的な学問自体にのめり込む人々は、そういう論理性自体に明らかにある種の快楽を見出す。感覚的に哲学を捉えることも好きだ。それらは一概に異なった事態である、と厳密に峻別し得ない。ある行為に熱中することは一体どういう事態なのか、ある対象に対する関心の持続に対する抵抗感のなさとは一体どういう事態なのだろうか?ある関心事項に多大の時間を費やしても平気であるどころか、そういうことに対する関心から抜け出すことが不可能であるような心的な状態とは、それがいいことであれ、悪いことであれ、その内的なメカニズムは変わらないと思われる。飲酒に対する耽溺も、性行為に対する飽くなき関心も、倫理的価値規範に対する信念やその信念に対する傾注も、職務に対する情熱と邁進も、皆極度に関心を示し、完全に耽溺し、多大な関心を寄せるという意味で全て共通した、何らかの対象からの翻弄である。それらはある意味で運命的な出会いをその関心領域に対して個々人に齎し、そこから容易には抜け出せないような状況を自ら作り上げる。運命的な翻弄というものに対し我々は、それを善悪判断や価値規範的な認識から開放させ、その内的メカニズムから理解してゆく必要がある。本論はそういう趣旨によって関心対象からの翻弄をテーマとした論説である。時には脱線しながら、人間にとって関心の集中というものとは一体何なのかについて考えてみたい。 六章までは哲学中心に、七章は哲学に加えて、文化人類学、動物行動学、遺伝子進化学、宗教学、民俗学、言語学他の学問の視点をふんだんに取り入れ、人間を集団同化という面と集団逸脱という面から捉え、生、性、祝祭、言語、道具、表現他の観点から文献学的な手法で考えてみたい。結論を「魅力論」としたのは、その魅力に熱中することで、運命からの翻弄を価値論的に変換してゆく人間の実像を捉える上で、その行為による反省と認識から我々が運命に対して克服してゆくという後付的な意味論から極めて重要に思われたからだ。本論を哲学と呼んでも構わないし、人類学と呼んでも筆者にはどちらでも構わない。それは読者が決めることである。

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