Thursday, October 15, 2009

B名詞と動詞 7、 名詞と動詞を中心とした様相的変化認識と理解及び記憶の構造における言語学的、大脳生理学的、行動遺伝学的考察によるアプローチ

Ⅱ‐性格遺伝子による選択と経験判断的扁桃体判断
 ある論文が示す意味内容は実際には前章で述べたような形で文体と分離して存在しているわけではなく、その二つは密接に結び付けられ、相補的であることは言うまでもない。しかしこの二つをある意味では対概念的に認識し理解しやすくする過程において、脳生理学者は意味内容を主軸に、大脳による扁桃体が海馬記憶や小脳や大脳基底核との連携性の中から何らかの理解を、共感を作り出していると捉えているのではなかろうか?しかしその際共感し得るのは理解し、その論文の定義付けを正しいと判断しているのだから帯状回による動機付けも連動しなければならない。あるいはそういった一切を覚醒状態において為す為には脳幹が、そして意識をクリアにしてゆく為に視床が作動していなければならない、といった所謂綜合作用が機能し得るかという観点が求められるが、それら一切は脳生理学者らの裁定である。それに対して行動遺伝学者や遺伝子工学者、あるいは分子生物学者たちは挙って性格遺伝子や行動学的誘引遺伝子を判断、理解成立条件に論うであろう。この二つは両方ともが連動し、同時的であり、相補的であるであろう。しかし一つの理解、共感を示す判断行為においてはどのような誘引性はどのような部位で、どのような作用によってもたらされ、どのような作用がどのような部位の先験的な機能によって成立し得るのかということは個別的に論じられよう。あるいはある作用に対してどのように個体としての人間が次の行動へと誘引されるべく反応するものなのか、あるいはその両者がどのような形で作用→作用自体への反応→行動→作用、という反復がなされるのか、という観点でのメカニズム解明に関わるアプローチが必要となるであろう。
 性格的遺伝子的な誘引性において何故文体がよく作用し得るのかということはシニフィアンとしての文章の側面から説明がつく。その文体というものは何なのかということに関しては恐らく名詞と動詞という異なった二つの品詞の大脳による様相的認知に関係があるのであろう。名詞には進行する様相はない。ここには静止された定義付け、あらゆる状態を過去データの下に位置づける様相である。これに対して動詞はあくまで変化を共有する様相に話者と聴者を結び付ける。この二つを概念図式に纏めると次のようになる。


名詞  話者 <聴者>        動詞  話者  <聴者>
↓     ↓                 ↓    ↓

名辞理解                         事実認知
           ←概念の不動性の同意→
             変化認識共有


 ところで哲学者フッサールは明らかに概念というもの(それは主に名詞によって表出される)が言語的機能で果たし得る役割が指定したり、限定したりはするものの、決して文章構造全体に変化を及ぼすものとは考えなかった。というのもそれはあくまで述語、動詞や形容詞によって形成されるものであるからである。形容詞が名詞句に付帯したり、「あの事件の犯人はこの男です。」という文章の場合は(この男)を指示しているという行為そのものが述語であり、意味なのである。つまりその陳述を行う当人(「私」である。)の(この男)を指差したり、指名したりすることの特定性こそが動詞(~です)によって表示されているから。フッサールの次の言述にその述語的な主導による概念性の恣意的な存在様相が明示されている。
「言表は決して名辞として機能しえず、そして名辞もまたその本性を変えることなしには、すなわちその意味的本質と、それに伴い意味そのものを変えることなしには、言表としては機能しえないのである。」(「論理学研究」3、276ページより)
フッサールも言っているような意味で名辞という概念作用を実効性のあるものとするのは明らかに意味作用(構造言語学者が使用したシニフィアンである)であり、その意味作用とは人間がその文章を理解した時、意味的に、つまり文章構造の背後に散見される発話者の意図や感情を理解し得た時に文章という形を構造的に採った言辞に対して共感と意味理解と納得判断を下すということであり、それ以前の理解不能状態や反感状態においては明らかに我々はそれを構造的理解にも直結し得ず、構造の矛盾と発話者の意図の不明確を認知するに留まるのである。ここにはウィリアム・ジェームス的な言語道具論、言語社会機能論が想起される。そこではフッサール流に言えば述語的意味の機能的展開が一つの構造論的な変数値として矛盾を見出すことなく受け止められるということである。矛盾は発話者の意図の不鮮明と論理矛盾によって引き起こされる。論理的な矛盾とは名辞の意味的志向性の範疇から扁桃体判断作用に合致しないことであり、そのような論理性の矛盾は経験的にも先験的にも認められないという判断によって認知され、反感意志の表明を促す。
 反感は名辞的な行為ではなく、構築的矛盾という詐称性に対する抗議であるから,意志作用的であり、能作的であり、他者の構築的詐称性への破壊意志表明である。
 さてこのような一連の実効的な機能と判断とは、まず大脳作用によって促進されることが先験的に認知されるのであろうか?それとも遺伝子の性格決定因子がその判断作用を促していることの発現として認知されるのであろうか?ここは実は非常に厄介な命題設定があるのである。大脳作用で語るなら判断というのが正しい言辞であろう。また性格遺伝子が本能的な異質性を発見した時に反感作用を伴ってそれを論駁し得るような論理的正当性を構築させるべく指令を出しているとしたら、それは行為選択の範疇で語られよう。
 するとこの二つは明らかに判断と選択という概念的理解の二者択一を我々に迫る。
 動詞は明らかに視床とか視床下部において情動的体験性を刺激する。これに対して大脳基底核は明らかに理解された真理を格納すべく安定化作用を施すので名詞による概念一般化作用を通過した理解記憶に関与している。この関与は勿論記憶の事項を海馬にも伝達していることだろう。ただ海馬はエピソード記憶に特に関与しているので具体的な映像記憶や知覚記憶と関係が深い。するとそこから考えられるのは明らかに海馬の記憶促進自体も別個の部位において視床や帯状回や小脳と連動して記憶内容の様相に沿って記憶現像を引き出しているのであろう。<連想的記憶>
 記憶が分子による作用であるのか、あるいはシナプスの作用であるのかという論争は神経科学の世界ではかなり以前から問題であった。しかしクリック(彼は元々物理学畑出身であったので、量子論にも明るく、そういった認識を利用し、セントラル・ドグマ説立証し、二重らせん発見以来は大脳神経学の世界で活躍した。<1914~2004>)のような分子生物学者は分子説を強調し、カンデルのような神経学者はシナプス説を強調するが、塚原仲晃<1933~1985>は生前その唯一のテクスト「脳の可塑性と記憶」の中で次のように語っている。
「記憶の分子説とシナプス説との論争は、かつての光の粒子説と波動説に似た情況にあるといえようか。(中略)量子力学の出現によって解決され<どちらの説が正しいかということが。注釈筆者>、本質的には光は波動と粒子の性質を合わせもつものであることが明らかとなったことはよく知られている。量子力学の登場は全く異なる次元でのこの二つの対立を止揚したのである。粒子とは物質であり、波動とはその存在様式であり、量子力学の世界ではこの二つは互いに矛盾しないものであるとして存在しうるからである。同様に、シナプスとは脳における物質=分子の存在様式であり、これがそれを構成する物質=分子と切り離しては考えられないからである。ただ、この二つの説は、いまだ統一的に説明されるレヴェルにまで達していないからである。科学的研究に一般的に存在する方法論、すなわち、対象をその要素に分解してその要素の性質を極めた上で、全体を再び構成するという考えにたてば、脳を研究する上で分離できるいくつかの階層がある。それぞれの階層には、基本的素子が存在していて、神経細胞やそのシナプスは一つの基本的な階層であり、また蛋白質や核酸といった分子はその下の階層での構成要素である。(中略)記憶が神経細胞のレヴェルで把握された上で、その分子機序が明らかにされたとき、はじめて光の粒子説と波動説とが統一されたような形で終結するのではあるまいかと考えられる。(「脳の可塑性と記憶」紀伊国屋書店刊、100ページより)
 今日でもこの終結は見られていないが、少なくともそういった必要性の下に我々は全ての身体生理的機能を認識してゆかねばならない。そしてこう考えることも出来る。フッサールやメルロ・ポンティー等哲学者たちが考えたことが、ある意味ではこういった生理的な作用性のメカニズム自体が誘引した思念であり、その思念性の準拠し得る部分が生理的機能に関する克明かつ精緻な陳述であるなら、それらは積極的に塚原も述べた不解明な部分に証明を当てて、寧ろこういった思念性の有する常習的な行為連関そのものが生理的機能の充実化を図り、しかも遺伝学的なレヴェルでの遺伝子形成の秩序とも密接に関わり、しかもそれが選択的スプライシングそのものの作用性をすら招聘しているのである、という観点をそろそろ導入してもよいのではないか、ということである。
 性格的遺伝子は行為連関にある常習的な(強化学習・マルコフ過程を考えても良いのだが)機能秩序の利用を個体毎に与える。そういった行為連関によって外部世界とパイプを持つ個人はそこから外部との折衝において何らかの反応を得、それは経験となって記憶に貯蔵される。その過去データと経験的記憶との折り合いでその都度改変される行為への意志決定システムの統合的秩序はやがて行為連関的なある傾向性を派生させ、個体に存する多用な遺伝子配列的な遺産の中から発現可能性の遺伝子の選択をやはり傾向性も持って成就する。すると必然的にそこから引き出される行為連関にもある志向性が形成され、その人間固有のホメオスタシス平均的数値が各部位、各局面から弾き出される。大脳による扁桃体の判断作用はそういった統合的秩序の中に組み込まれており、ある動作をする時に自発的になされるのか、ある程度致し方なくなされるのかといった行為選択における意志決定的観点から放出されるグルタミン酸とそれを抑制しようとするGABAの数値をその都度微調整する。発話する可能性が意志伝達において必要とされるかどうかという判断においても同様な指令と選択が大脳や小脳、あるいは脳幹による外部刺激に関する反応を作り出す作用に呼応する。それを海馬記憶的データへの何らかの索引機能が作用して必要なデータを閲覧する。その閲覧によって示されたものが扁桃体で判断され、同時に帯状回によって動機付けられて初めて視床下部において行動的な選択がなされるのである。
 選択肢が多過ぎるということが幸福であるかどうかという価値判断は一概に決め付けられない。これもまた性格遺伝子の作用如何によってその結論は変わってくる。選択肢の余り多くない時代にはその時代なりの別の選択肢があったかも知れない。しかし我々の身体がアポトーシスという細胞死をその都度行いそれによって必要である細胞のみを残し、そうでないものを切り捨ててゆくという指令をしてくれるお陰で我々は必要な代謝活動を行うことが出来、そうすることで様々な行動をも可能にしてくれる。これは細胞というものがまるで意志でも持って我々という一個の統合された身体という国家を支えているかのようである。身体自体は明らかに意志がある。それは我々の意識というものとも異なって、意識は寧ろそういった身体自体の意志によって動かされているという風にも認識出来る。
 ドイツには「人生は整理である。」という諺があるそうである。人生が整理して必要なもののみをその都度選択して、その選択されたものの中から様々の可能性を見出してゆく行為の連鎖であることは間違いない。その意味では神経組織自体もまた選択する。それは最も有効な形で我々の行動を司ることが可能なようにまるで切羽詰った状況を打破するかの如き行為選択のような選択をするのである。先述の塚原はこういった危機突破の臨機応変な身体的意志とも言える可塑性の世界的権威で「可塑性の塚原」と呼ばれた。
 塚原は神経学の現状について生前自著の中で「現在中枢神経における発芽現象の研究のほとんどは、入力繊維の一部分を切断したことによるもので、発芽形式には、神経線維の変性終末が刺激になるという考えもある。しかし、入力が損傷を受けることがないことが、同時に末梢神経系の神経‐筋接合部で証明された。(中略)まず筋活動をフグ毒(テトロドトキシン)を投与して停止させると、その筋に接続する運動神経に発芽が形成されることが発見された。テトロドトキシンでは、繊維は損傷を受けないのに、発芽が形成されたのである。脳のシナプスについては次のような研究がなされた。ネコ(成猫)前肢の末梢神経のうちに屈筋神経と組み換える交叉縫合手術を行った。2~6ヶ月飼育していると、このネコの屈筋神経は伸筋を、伸筋神経は屈筋に接続しているので、ネコの運動は最初のうち逆転する。腕を曲げようとすると伸び、伸ばそうとすると曲がることになる。しかし、次第にネコは手術した方の前肢で缶から餌を取るような運動ができるようになる。このとき、赤核大細胞から大脳_赤核シナプスによる興奮性シナプス電位の立ち上がりの波形が正常なものと比べ鋭くなった。この結果は、交叉縫合によって大脳からの入力繊維に発芽がおこり、細胞体に近い樹状突起で新しいシナプスが形成されたためである。電子顕微鏡で調べたところ、確かに新しいシナプスが形成されていた。」と述べている。(「脳の可塑性と記憶」紀伊国屋書店刊、94~95ページより)
 ここで塚原が強調していることとは、一旦失われたある部位の機能を別の部位が、その箇所が本来正常であればあるある部位が処理していた機能を肩代わりするということである。これを可塑性と呼ぶが、重要なこととは、この肩代わり機能が所謂ダーウィンの進化論における選択圧によって発芽機能自体が何らかの必要性、つまり人体全体の生理的機能を充実させねばならないという使命によって必然的に神経間の適応競争原理が働き、そういう肩代わり機能性を請け負う神経が生じるということである。
 本論ではある意味ではこのような可塑性そのものも実際は、そういった身体の可能性を信じ、失われたこと自体に何時までもくよくよしているような性格の人間には中々生じないというような心と身体の関係があるのではないか、という観点からこれからも論じてゆこうと思う。つまり性格的決定遺伝子の作用がこういった回復機能を促進するのではないか、ということなのである。
 まだはっきり証明されたわけではないが、性格遺伝子が未来予測や願望においても不可能に近いものでも可能性を信じる場合と、そうでない場合とでは全然回復機能や可塑性においては影響する性質が異なってくるのではないか。そして未来予測においてネガティヴで、ペシミスティックな不安に慄いているだけの心理状態からは良い意味での楽観性が失われ、肩代わりする側の意欲(意志)さえも削いでゆくのではないか、と思われる。つまり身体生理的選択圧に適応した神経発生的進化が、まだこれもはっきりしているわけではないが、扁桃体自体の機能に身体機能回復的可塑性を促進する機能が、無意識、不随意のものとして存在するのではあるまいか?

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