Thursday, October 1, 2009

D言語、行為、選択/1、認識の命題とカント

 私たちの周囲には私たち自身が立たされていると認識できるそういう外的環境が先験的に存在している。だがいつからそのように当たり前にそれが存在していたのかは誰にもわからない。空間が時間同様起源があるのか否かはある意味では絶対命題であるが、科学の知識をもっても壮大過ぎるこの命題には手のつけようがない。取り敢えずわかることからはっきりさせてゆこう、ということから数学や物理学が発達し、やがて相対性理論や数多くの科学的発見がなされ、今日に至っているが、それもこれも我々自身による大脳思考による判断の蓄積として今日まで育まれた論理的真実、法則的事実の全てであり、言語というものがなく、言語以外の思考方法はこの世にあったなら、一切の秩序に対する認識も法則的真実も今とは全く別様であったにちがいない。だからすべての自然秩序はとどのつまり我々自身の言語による解釈に過ぎないということになる。一般化される論理的法則性は特殊なあらゆるケースをその範疇に入れてなおあまりある共通性、されを我々は普遍と呼ぶが、それを見出した時に設定され得る。それは極めて大脳による判断の所作であって実際上全くその法則性からはずれる真実の発見によって一気に覆される可能性を常に孕むような脆弱さを有している。だからそのたびごとに修正を余儀なくされる判断はその場その場での普遍への希求に過ぎず、それは我々による言語的営みの産物であり、言語が我々の日常を思考回路から支配している限り実際にこの現象界には存在し得ないものの全ても言語的に可能である限りにおいて想定し得る、つまり可能条件であり、論理そのものの能力である。これはしかし論理が生み出したものであり、人間が作ったものではない。人間はただ色々あり得る手段の中から幸か不幸か兎に角言語による思考方法を見出したのだ。しかしその秩序はやはり先験的に具わっていたものであり、ある言語秩序がまた新たに誰かによって見出されたとしても我々はそれをその人を通じて見出したに過ぎず、やはり先験的に言語には元々あったのに、それが発見されずじまいであったに過ぎない。それはある種のDNAのように人生の半ば過ぎもで抑圧されて発現しないような事実にも近い。そしてそれが先験的にあったのに発見されずじまいだった、と思考し得るのもまた言語による恩恵である。理性はだから人間にア・プリオリに備わったものではなく、言語がその可能条件的に見出し得る価値である。人間が言語を使い、言語でものを考えるから理性という概念が発生し得るわけであり、その概念が我々にその存在を模索させるわけで、言語は現象界において存在するもの以外の何物をも表現し得るのに、実際に存在するすべてを的確に表現し得ているわけでもない、あくまでも論理を育む言語は言語自体の秩序として現象界とは無縁でないものの、切り離された独自の自由の領域に存しているのである。だが自然界に対して、いつかは表現しきれないものを表現したいという欲求が数学や物理学、天文学などによって我々は表現しようとしてきたのである。そして現象界に関しても、全自然界においても常に中途半端なかたちでしか表現しきれていない、という現実的宿命を言語は常に背負っている。言語がその思わぬ能力を見出すのは、何か自然界の新たな真実が、例えばニュートリノであったり、そういう発見によって我々自身が我々自身の言語によってそれを説明し得た、つまり我々自身の立場から理解し得た時である。
 我々はだから常にそのように自然界に対してその場その場を切り抜けてきたのだ。自然界に対してその場その場での対応をすることによって徐々にそういう自己も僅かばかりだがその正体を見出してもきた。その一回一回の判断は論理的決定性であり、選択である。行為をすることそのものは一回一回の選択的判断であり、行為がなされることによって選択は終了し、意志を生じる。意志は行為以前にあったものではなく、行為されることによって意志となる。カントが先験的理念と呼んだものも、それは実際言語論理所上不可避的にその存在を見据えずには済まされない事情によるのだ。それは実際上はそう容易には実践せられない現実があるからこそ見出されずにはおれない概念でもあるのだ。実際全ての人間が全ての行為を理性的判断によって生を生きているのなら、寧ろその種の概念は拵えられようもない。事実は逆であるからであり、誰が考えてもそれが正しいのに、そうはいかないような、当たり前が最も難しいということの好例である。だからカントの言う先験的理念をある種の理想と置き換えて考えて見るとわかりやすい。誰もが理想は持つ。それは常にはっきりとしている。しかしそれは現実ではいつも、もう後一歩というところで実現しないものである。もし簡単に実現されたのなら、寧ろそれは理想ではない。だがかといってあまり実現不可能過ぎても理想ではない。夢という言葉に置き換えても更に判りやすいが、カントはそこまで俗な意味で使ったわけではない。なぜなら理性はそれが正しいと論理的にも倫理的にもそう判断し得るような、つまり人間が自然界の法則を先験的な一般化し得るものとして後天的に発見するような必然であるし、それはある努力によって摑みとるものだからである。だから一般的な夢というような俗なレヴェルでは推し量れない、カントが言うように快、不快の論理から言えば不快である場合も多いのであるから(「実践理性判断」)西田は論理(自然法則から導き出されたもの)と善をはっきり峻別し、論理的充足性と倫理的価値を別次元のものとしている。カントもそれは別次元でありながら、自由(これも厳しい不快である場合も多いものである)、霊魂の不死、神の存在においてその定言命法の範疇に適用されるものこそ論理的にも充足し得ると考えている。それは言語による認識は言語が実際の自然界を写像するには不十分であるにもかかわらず、それでいて言語自体の秩序からは実際上の倫理的行為や現実の活動や自然の姿すら見下し得るような理想を可能条件的に認識し得る、ということを自ら全哲学人生をかけて証明しようとした、とも言える。その意味ではカントこそは大脳思考による言語の可能性をはからずも明確に示した最初の哲学者であったと言えよう。理想は言語がつくる。希望や願望も言語がつくる。倫理も言語がつくる。当たり前のようだが例えばデカルトにはその種の発言をする余裕はまだない。
 ところが選択が行為と直結し得る地点が意志と言い切れるほどそう単純ではないケースを我々は知っている。そうである。行為するのに躊躇したり、逡巡したり、明らかに明確に自発的に行為するのではなく、致し方なく行為するということも、日常的には多いからである。システム工学的見地にたてば逡巡も躊躇もまた行為の一つではあるが、それをも我々は意志と割り切ってよいものだろうか?
 ちょっと話は変るが真意というものの所在は、そもそも我々がコミュニケーション上表明することを憚る何物かが表明の躊躇や臆することがあり、そのやり方として偽装という形となったり、秘密にしておきたいので暈したり(暈すことは勘の良い人には明示であるのと同じであるが)という行為があるからである。だから古来より人は他者の真意を知りたがってきた。この真意の表明を憚るものの正体が沈黙やディスコミュニケーションを誘発してきもしたし、あるいはこう言ってもよい、そもそも真意を表明したり、告白したりすることに何の意味があるのか、という疑問さえ常に我々にはある。これは行為の躊躇や逡巡とも密接に結びついた問題ではなかろうか?
 確かに我々ははっきりとこれが私の意志であるとまでは言えない、そのような行為や判断の方がずっとそうでない、つまりはっきりと自発的な意志と言えるものよりも多いのではなかろうか?勿論生きてゆくうえでははっきりと意思表示しなければならないことはある。しかし惰性とまで行かなくてもはっきりとした意志とまでは言えないような行為は意外と人生には多い。だからサルトルならこう言ったであろう。「私たちに真意などというものはない。あるのは行為だけであり、意志はあとからくっつけた価値判断でしかない」と。
 ウィトゲンシュタインが自身の言語哲学の論理展開上言語が意味や意思表示の道具として投げ出された現実を機能として、慣習的な行為(社会行為)として捉える視点は明らかにメルロ・ポンティー的な身体性と無縁ではない。しかし倫理的な意志(それ自体、倫理的判断の欠如態として営々と執り行なわれる生の時間が多い現実が生み出したものであるが)によって支えられた行為やそれによって示される判断は西田の善の理論を待つまでもなく、実際はかなり自覚的、決意を要する代物であり、そうでない、サルトル流に言えば実存のまにまに漂うようにしか思えない身体の外的環境自体が有するアルゴリズムへの条件反射的反応でしかないものとしての行為や判断が我々自身の生活の大半を支配している、という現実の前で我々自身の生の時間における行為と行為の選択、それが言語や言語的思考とどうかかわっているのかを明確にしておかなければならない。
 カントが快、不快で言えば不快でもあるようなしかし、論理的にも、倫理的にも正しいと思われる判断(そのようなものが実際あり得るのか、という問いは別に想定し得る)こそ、実際我々が躊躇や逡巡を引き起こしつつする行為や判断である。行為がすべて論理的にも倫理的にも更にその行為者にとって幸をもたらし快であり、かつ他者にとっても幸があり快であるようなケースは極々稀である。いやある意味では皆無といってもよい。ヘーゲルはだからカントの理性に対して苦言を呈しているのだし、(カントはそういう自身の論理に対する後世の批判は想定していたであろうけど)そのヘーゲルに対してキルケゴールが批判したり、その後の哲学は賢明なる読者諸氏には周知の事実であろう。さてこの行為しながら快とまでいかないもの、あるいはこうしなければと思い実際はそうはいかないことの多さ、つまり齟齬が言語的思考、思惟や想念をより活性化する。それは言語と現象界を含む全ての自然界の様相を言語化し得ることの不可能性はカントも「純粋理性批判」でもすでに指摘している。自然界が人間にとって不可知領域を無限に我々に提示し続けることが、それをあらゆる謎を解明せんと欲しつつ大脳内の言語によってのみすべてを理解しようと試みる人間にはカントの謂いを借りれば「いつまでもたっても全く解決できない問題」(「純粋理性批判」(中)岩波文庫 篠田英雄訳、44ページより)として残される。ある行為が正しいか正しくないかが言い切れない、一概に明言できないような行為は溢れるほどある。日常的な平穏において、いつもなら正しく敏速にできる行為や判断も身体の老化、記憶力減退、病気、事故や災害といったカタストロフィーによって一挙に奈落に突き落とされる。意志や倫理といった人文学的判断のレヴェルばかりか、身体生理学的にも、例えば癌はその掬う身体の宿主細胞が若ければ若いほど増殖しやすい。癌細胞はその宿主が癌に耐え切れずになって生命的に死滅すれば自身も生き残れないにもかかわらずそんなことにはおかまいなく増殖し続けるし、癌細胞自体に対する抵抗を示しながらも、結局はそれに増殖する機会を与えてしまう免疫細胞は逡巡と躊躇に支配されつつも癌細胞に支配権を明け渡す敗戦国の行為と判断に極めて近いものである。我々はそこで不安を生じさせる。免疫細胞もホルモンレセプターも自己と相同のシステムを持ったものは容易に認知し得るのに、自己と全く異質のものは無視するか、もしくは騙されてしまう傾向さえある(「免疫の意味論」多田富雄著や「奪われし未来」シーア・コルボーン、ダイアン・ダマノスキ、ジョン・ピーターソン・マイヤーズ著にそういったことは詳しいので参照されたし)(第5章「言語論」を参照のこと)。

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