Thursday, October 29, 2009

C翻弄論 7事実化

 ウィトゲンシュタインの言った像、映像はそれを認識することで事実となる。たが像とは全て過去の行為の痕跡である。記述すること、発話することの全てが像(本、新聞、メール、テレビの映像その他)に記録されている。しかしそれを像として認識し、痕跡を現在に再生させて有用なものにしながら把握すること自体は現在の行為であり、それ自体もまた一つの目的である。
 ここで気を付けなければならないのは、本が出版された時、新聞が店頭に並んで、配達された時は既にそこに書かれている文字は過去の痕跡である。そしてその時それを書いた人間はそれを書いた時とは全く異なった別個の行為を目的として今現在どこかにいる。もう既に全く違うことを考えているということである。しかしそれでもそれを今読めばそれが今現在のこととなる、少なくともそれを読んだ者にとっては。自体存在的な理性に照らして言えばそれくらいの長期的スパンでなかったならそれを書いた人間の思想はそうは変わるまいという前提に立っている。それは本ではある程度当たっているが、新聞では当て嵌まらない。新聞を読む者はそれを個人の発言とは受け取らない。事実報告と見做す。映像でも事情は同じだ。しかし生中継でない限りそれは過去映像である。過去映像だからこそ、何度も反復可能なのだ。それらは恣意的に作られた記事であり、映像である。
 映像が現代においてこれだけ隆盛を極めていることの最も大きな理由は、マスメディアにおいてリアルタイム状況と出来事の進行が映像の中継で、あるいは過去出来事においても現在進行形の如き様相で全てを一瞬に伝えることが出来るからである。それは活字にしたものを事後的に時間をかけて読むという行為からは決して得られない特質があるのだ。映像はその意味では文字だけの情報による理解し難い部分のミステリアス性を一瞬で氷解させてくれる。文字がどんなに早く印刷されて、早く送信(メール類一切)されても、それはあくまで行為(記述すること)が過去化された痕跡としての体裁であることには変わりない。(チャットは除く。)そこで中継は大いに通信の時間短縮性において意味を持つ。だからリアルタイム映像でことの成り行きを知っている者にとって、それが事後的にニュースとなって伝えられても(それは国会中継であってもスポーツやオリンピック中継であってもワイドショーであっても)自分も半ば参加していた出来事がどのようにニュースとなって報じられるかという好奇心からそれを見るということとなるのだ。そこで実際のニュースソースに立ち会っていた人間(中継を見ていた人間のこと)は、ニュースが独自の切り口で編集されている、全体のほんの一部だけが切り取られているということに覚醒するのである。そういう感想は実際の出来事をニュースでしか知ることのない人間には持たれないものである。尤もリアルタイムではないもののメールの有用性はあくまで他者のプライヴェイトな時間を干渉することを回避させる(メールはかなりあとになってから知らせてもよい内容を選んで伝える。だからと言って近い内にということであり、一ヶ月に一回しかメールチェックするような非常識な人間は相手にはしていないが)意味合いがあるとは思われるので、リアルタイムは映像の中継に、それ以外はメールにという風に、役割分但させているのが現代の通信事情というものであろう。

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