Tuesday, October 13, 2009

A言語のメカニズム 7、意味と概念、ビジネス

 結論的に言えば名詞と動詞を使用する際の脳波の状態や流出するホルモンは違うというのが直観的な筆者の判断であるのだが、この話者が聴者に与える名詞と動詞(形容詞は基本的に叙述内容<意味>に関するのでここに入る。)における印象において伝達性に頗る影響を及ぼしている、と思われる。代名詞は名詞の概念性をより具体性を持たせることに奉仕しており、それ一つでは名詞同様概念的であるがそれが名詞と組み合わさって意味的伝達性を生じさせるわけである。恐らくそれを使用する時も、使用する他者の発話を聞く時も脳波、ホルモン物質の差異は歴然としており、話者と聴者双方において言語共同体的幻想としても一つの表現を巡って全く異なった印象を与える。例えば
 「予想外にもその時彼はすぐに動き出したので狼狽した。」
 「その時の彼の予想外な即座の動きには狼狽させられた。」
 この二つの文章が我々に与える印象の差は歴然としている。これはただ単に動詞と名詞で、動くことを表わしているばかりか、いわゆるその事実をストレートに表現する(前者)か、その事実に対する、言辞的には省略されてはいるものの主語の側の立場を強調している(後者)かということ以外にも、再現前化と事実報告的言辞との違いが明確である。
 後者の文章の場合、それを小説や報告文で目にすると黙読する分には何の変哲もないが、発話されると違和感がある。それはこういった言い方がある種の形式的言辞のニュアンスと間接的表現であるというイメージを与えるからである。しかし前者の文章は極めて常套的ではあるが、形式的言辞という風には受け取られないであろう。事実報告におけるこういった違いは前者が具体的で話者が聴者への信頼に満ちているのに対し、後者は抽象的で、話者の聴者に対する警戒心が垣間見える。もし普通に言えば「そんな常套的な物言いしか出来ないのか」と言われそうな相手に対して予め予防線を張った物言いである。つまり具体的で動詞を何の躊躇なしに語る時、話者は聴者への伝達意欲を受け止める相手として信用しているのであり、逆に後者では動的行為を名詞に置き換えることで抽象性を増した言辞と化すわけであるから、話者は聴者に対する伝達意欲の発信先として、ストレートな感情は抱いておらず、その素直な受け止め方に対する懐疑に満ちている。どういう理屈っぽい相手に対しても何とか切り抜けられる処方を探った物言いである。
 言語行為において言辞における直接性や間接性、具体性や抽象性といった性格の選択は話者の聴者に対する態度の違いや信頼度の差が生み出すという側面が大きいということとなる。公式文書や法律文等が一様に抽象的、間接的表現に終始しているのは、それらが各成員の個別的な体験性に依拠した意味論の世界から離脱した最大公約数的な制限的な秩序、概念的敷衍性に立脚しているからである。それらは意味論的世界が多義性と両義性に取り込まれていることで、一律な概念規定に遵守することに依拠した法的、社会的実践を困難にするからである。もし公文書や法律文がすべて具体的、直接的言辞に彩られているなら、それらはある独裁者とか曲解嗜好者たちによって都合よく解釈され、差別的で特権的な矮小化、歪曲化された法的執行を許すことになる。意味とは個別だが、ある概念によって規定を受けた現実に直面し、法的、社会的に実践する段になって初めて発生し、それらは概念的一様性に対する批判的意見を発する権利を必然的に帯びる。つまり個別的意味の世界は概念の履行、執行に伴ってその中から抽象的言辞への発言権を見出し、ある具体的立場からの力を発揮する。言語が行為の実践において、意志伝達の方法として最小の労力のみを行使するだけで最大の効力を持つ人間学的生を実現する能力として位置づけられるなら、あるいは概念という<制限主義的に意味論的な多様を封じ込める装置>を利用しつつ、建前としてはそれに対する遵守を奨励しながら、同時にそこから逸脱する価値を常に模索することをも奨励するかの如き免疫学的予防装置としてアンヴィヴァレンツで対極的価値の併存した、不動点を求めながら同時にそれを反故にするような運動として捉えられるなら我々はそれを作りつつ壊し、壊しながらも求めているような生の現実を目の当たりにすることになる。
 数学は純粋概念の世界であり、そこでは意味の世界も構成することが出来るが、構成されている要素そのものはおしなべて概念の世界であり、抽象的である。それに対し、絵画はそのイメージやスタイル、描写された内容、創造のために選ばれた素材、その全てがどんなに抽象的であったり、抽象されていたりしても、とどのつまりそれらは皆物自体であり、物質の世界なのであり、画家、美術家の追い求めるのは意味の世界、つまり各自異なった個別的な意味の世界である。それは音楽家にも当てはまり、音という空気の振動を通した表現は皆独自な空間と時間の意味の世界である。ビジネスマンたちにとって社会機能維持、利潤追求の中で執り行なわれる仕事は生きてゆくということの意味の追求のために概念的な<制限主義的に意味論的な多様を封じ込める行為>において自己を見出そうとする。意味はその中にある。概念とは社会的事項なのである。だからビジネスマンにとって意味は概念的行為の社会学的利益の還元という行為の報酬として社会的地位という価値を他者から業績に対し付与されつつ、経済社会維持貢献する成員として、その歯車の中に自己のレゾン・デ・トルを見出してゆく時に見出されるものである。
 ビジネスはビジネス的生を「人生」としてより寧ろ「生活」として受け入れながら、生がそこから立ち上ってくる、そこから浮かび上がってくることを期待し、期待せずとも自覚せざるを得ない地点において「人生」を「生活」の中から見出すことを本論としている。ビジネスの意味は問うことよりも実践されることで意識されるものだし、生を営むための方策として「生活」行為が正統化される教義の中から社会的実践が営々と営まれる、もう一つの生である。ビジネスの言語では利益率とか収入と支出とかの配分がビジネスそのものの性格や意味を顕現しており、概念はア・プリオリに認識させるものでしかない。ビジネス・モデルは実践される為のディスカッションにおいてしか意味をなさず、モデルは過去像の一つの捉え方に過ぎない。実践されればたちまちモデルの存在は空無化し、現行の実践形態のみが唯一の実践モデルとなる。概念よりも意味が大きく立ちはだかるのは、外的にビジネスの常識を判断する段ではなしに、内的に自己実践による実践形態の認識においてである。社会概念の履行が外的には義務、責務であっても、内的にはそれへと向けられた実は実践形態の推移の間断ない注視である時、我々はビジネスが行動モデル自体を実践形態の中から認識する絶え間ない自己反省と自己客観化による個別な意味的考察であり、権利問題と理性認識、社会学的良心とも無縁ではない倫理性への究明でもあるということを知る。それは「生活」の完成であると同時に限りなく未来へと開けた「人生」の時間への突入でもあるのである。ビジネス言語の実践はだからビジネスの履行によって責務的履行を完遂することで行為性そのものから実践される<意味>を捻出し、やがてそこに概念を超え概念を再認さしめ、再考、修正するように、ビジネスに取り掛かる時に概念自体を被認識対象とする積極的概念使用の受容をもたらし、<意味>を概念への意味の<仮託>から解き放つア・ポステリオリな受容を顕現させる。しかしそれは実はビジネス的生を受け入れる時点で、すでにア・プリオリな受容を無意識の内に施行してもいるわけだから、ア・ポステリオリな受容とア・プリオリな受容の邂逅である、とも言える。しかしそれは回帰ではない。回帰というのは、あくまでそこから出発しそこへ戻るということだが、<仮託>からの意味の開放は原点回帰ではない、寧ろ創造である。だからア・ポステリオリな受容とア・プリオリな受容の邂逅は創造的帰結である。目的である。
 ビジネス言語はだから意味の概念への<仮託>を前提しながらもそこからの離脱でもあると同時に、意味の側からの積極的なる初期概念受容との邂逅でもあるようなビジネス行為自体を問い直す為の哲学用語といっても過言ではない。しかもその哲学用語は現実のコミュニケーションにとって我々の全ての他者との意志伝達、そのための社会的行為の雛形ともなってもいるのである。例えば家族や友人、恋人との会話も基本としては他者との意思疎通を意図したビジネス言語が横たわっている。
 ビジネスの<生きてゆくための手段である>という真意に対するあからさまな表明行為とは、取りも直さず「私はビジネスマンです。」という責務宣言である。そしてそのための方策としてのビジネス言語を使用することは、責務と社会的義務履行のために当然の必須行為として社会から認知をされており、保障されたルティン・ワークである。しかし生きてゆくために他者とかかわりコミュニケーションせざるを得ない我々はすべてこのルティン・ワークを実践している、と言える。ビジネスとは所謂ビジネスマンだけのものではない。あらゆる階層、あらゆるフィールドで人間社会にかかわるすべての知的存在者たちはこのビジネスの言語を通した意識、無意識にかかわらず、何らかの形でビジネス行為の渦中にいるのである。

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