Sunday, October 11, 2009

C翻弄論 4、嘘つきの魅力、嘘つくことの快感

 誰しも子供の頃は「嘘つきは泥棒の始まりですよ。嘘をついてはいけませんよ。」と両親から教わる。あるいは学校の先生にも低学年の内はそのように教わる。しかしそれも大人になってゆくにつれて、何でもかんでも自己の心中を口外し、告白すればよいというものではないということに覚醒してゆく。時には社会的上位者に対してはおべっかも使ってみるし、あるいは時としてもうじき死にゆく者に対しては不幸な事項を知らせずにいてあげる、といった配慮的な決断も起り得るし、要するに世間というものを知るである。
 ある意味では出世する人間は嘘を巧みにつく人間である。それは俗なことであるが、適度の嘘や誇張とは社会機能の面から言えば潤滑剤である。尤も社会的地位が高くなることが人生の目標であるかどうか、出世が人生の目標であるかどうかという問題はまた別個の問題であろう。しかし取り敢えず本章ではそういう堅いことは言わず嘘をつく行為について考えてみたい。それは恐らく責務の問題、社会的倫理の問題、例えば守秘義務といった問題とも絡むから極めて重要であると思われる。
 私は以前カントの「実践理性批判」を日本語訳で読んだ時、そのあまりに真面目な、律儀なカント哲学において行為の格律という概念に、ではもし人間がそういう風に理想の生き方が出来ないような状況であるなら、どうなるのであろうか、という疑問を抱き、真実、自己内の真意に忠実に生きねばならないことに苦しさを抱いたものだった。しかしよく考えるとカントは何も「何もかも告白せよ」、とは言っていない。「真意を告げよ。」、とも言ってはいない。そういう観点からカント・テクストを読み直すと、そこには皮肉的な言辞であるカントの伝達方法から、かなりの部分でニーチェの考え方と相同な部分を見出し得たのだ。
 確かに一般的にはニーチェは罵詈雑言によってキリスト教教義とかキリスト教の良心とかの倫理規定に対して痛烈なる批判を浴びせかけたと言われる。だが先述の68節も、そのような傾向性を抑制しろ、と言っているのか、それともそういうことが社会生活ではあり得る、と言って褒めてはいないのだろうが、それくらい生きてゆくことは厳しいことである、苦役である、と言っているのか定かではない、と思われた。恐らくその両方を意味するようにニーチェは記述したのであろう。カントにも恐らくそのような両義的な意図で記述を行ったと考えてもよい余地があると思われる。
 例えばあるビジネス行為に関して、自己の知識が十分ではなくても尚、一応全て心得ているという態度を営業先でも、ユーザーに対しても採らなければならないことということは大いにあり得る。それは社会的な責務の問題である。果たしてそれは嘘と言えるのだろうか?そうではないだろう。しかし会社自体が不正を働いているというような場合、上司の命令にただ忠実であってもよいのだろうか、というような事態も容易に我々には想定し得る。神に対して真摯であるなら、上司の命令に従う積もりの表明をして(嘘をつき)告発することが正しい場合もあるのではないだろうか?それが社会性としての責任倫理と言うべきものではなかろうか?(後述する。)
 しかしそれが親子とか夫婦の関係内であるなら、すぐさま外部に密告することは倫理的に正しいのだろうか?それではまるで東南アジア某国のようではないか!近しい関係の者がそういう状況にあるのなら、せめて今後の状況打開について真摯に相談し合うということがあって然るべきではなかろうか?
 そういう問題に関して具体的な解決策を実は聖書も哲学も与えてはいない。結局自分で考えろということなのだ。
 それはその場その時に応じて異なる判断が成り立つ問題である。哲学で分析的であるというのはその当人にしか判断し得ないことなのである。そして重要なこととは、正しくないこと、つまり嘘の方がより真実よりも説得力があることもままあるということである。あるいは嘘を告げることの方がよりその嘘を告げられる人にとって幸いであることもままあるということである。
 現代哲学ではしばしば倦怠とか憂鬱とかを肯定的に捉える。不安を最初にクローズアップさせたのはキルケゴールであったが、不安さえも実は命題として対象化された途端に肯定的に捉える可能性を帯びた意味範疇に収められたのである。しかし倦怠を感じることというのは倦怠を払拭することの必要性を感じている時に限るのである。だからこそ不健康さのバロメーターを身体の何らかの現象が我々自身に語るような意味で倦怠には肯定的な意味合いが十分あることは了解されよう。沈黙を守ることには忍従があり、告白し過ぎることには倦怠が付き纏う。心身が不健康なのに健康であることを信じて疑わない欺瞞よりも価値があるのは、嫌な思いの後には気分いい状態になりたい(悔いなく過ごしたい)という希望があるからである。嘘をつき通すことには忍従が要るが、同時に真実に耐えることに忍従が要る場合もある。分からないことをそのままわからないままにしておくことには倦怠が付き纏う。嘘つきの嘘がすぐばれるものであるなら他者の嘘の傾聴は倦怠を伴うものである。
 嘘をつくことの嘘つきにとっての魅力とか快感というものは虚構に真実を見出す場合に限る。嘘をつき真実に目を塞ぐことというのは実は一番真実をよく知っていることである。真実に目を背けるということは真実が一番近くに存在することなのだ。だから嘘つきの人間に魅力があるとすれば、それは意外と真実を知っていることに自信があるということかも知れない。小説家は皆嘘つきである。政治家も皆ある意味では嘘つきである。
 自然科学に対する信奉が確信になるに従って我々はそれを信じたくはないという心理に陥ることも稀ではない。自然科学者の中にも大勢宗教家とか神学者が昔からいたという事実も、科学的真実と信仰心がどこかでは必ず齟齬をきたすということを証明しているのではないだろうか?嘘つくこと、勿論それは他者に対してだけではなく、自分に対してもある程度は快感であるのだ。というのもナルシシズムはある意味では嘘っぽく振舞うことにおいて真実を見出す英雄的な行為であり、それは嘘を真実らしく語る術であり、それは一面では真実を嘘っぽく語るよりも功があるとさえ言い得るのだ。真実を嘘っぽく語られる者は倦怠に見舞われるが、嘘を真実っぽく語られる者は納得するのだ。
 だから嘘の付き方によっては、その嘘は真実味を帯び、説得力ある性格を有しており、そこに魅せられることは我々が素晴らしい演劇や映画や美術品を目の前にした時に経験済みである。あるいはニュース映像をニュース番組の体裁で放映されたものに真実を見出す現代人にとってマスメディアそれ自体が巨大な嘘であるとさえ言える。あるいは社会とか国家といったものはそれ自体で巨大な幻想であるのかも知れない。民族とか人種とか生物学における進化論的な分類、学問の分野、職業の全ては巨大な嘘であるような機構であり、虚構であり、本来的とは言えないものではないのか?
 他者という考えもその範疇に入るかも知れない。他者のために殉じるといった道徳的意思決定性にはどこか嘘を真実として受け入れる、あるいは嘘に対する信仰のような心的様相がありはしまいか?あまりにも素晴らしい演技が演技ではなく、最早現実機構に対する大きな政治力となり、変革の推進力となり、社会自体に楔を打ち込む行為となると場合さえある。そういった嘘に真実を見出すことを我々は幼児から思春期に突入する辺りで経験してゆくのだ。それは価値規範的な判断である。小学生は「嘘をつくことは如何なる場合でもいけないことである」という両親から植え付けられた基本的な倫理感によって全ての事例を判断するが、中学生になると思春期固有の正義感によって通常では嘘をつくことはいけないことであっても、場合によっては例えば家族を守るためには仕方ないこともある、あるいは嘘も方便な場合もあるということに覚醒する。
 しかしこういった社会的倫理の問題ばかりではなく、我々人間は自分たちが作ってきたものによって対象を見ることで、それが未だ作られていなかった時にはない認識を持つことが頻繁にある。例えば自動車がなかった時に感じる距離感は車社会では全く異なった様相で立ち現れる。距離感覚は自動車で移動出来る範囲のものに拡張されている。あるいは写真がなかった時代にはない風景に対する認識が我々に所有されている。カメラ・アングルという認識で風景を見るということが我々には最早自然となっている。それは一つの風景がまるで風光明媚である故に観光地になっている場所では、ただの自然ではなく、名所として、絶景として、観光地としてその場所の自然を認識するのと同じだ。ある枠組みに応じてそのフィルターを通して我々はそれら一切を認識する。テレビで放映された場所は、メディアに登場した場所として認識されるし、何か悲惨な出来事があった場所は、その歴史的事実を通してしか認識され得なくなるという事態も多く存在する。
 画家は絵を描く素材として風景を認識し、動物写真家はよい写真を撮るための素材として動物を観察するし、気象予報士は天気予報を報道するための素材として空、雲、風、雨を認識している。国会議員の見る都市とジャーナリストの見る都市と映画監督が見る都市と田舎に長く住んだ人間が見る都市ではそれぞれ微妙に異なった様相でもって展開している筈だし、そのような心的様相は、他の何に対しても注がれる固有の観点を構成している。これはサルトルが自己欺瞞と呼んだものによって職業に就いている人がその勤務中は、その職業固有の倫理感、使命感によって自己の私人としての感情を捨てていることとも通じることである。これらは全てある意味では嘘ということ、虚構としての認識を通して自然や人間が形作ってきたもの以外の全てを人間社会の固有の事情から判断することを促している。一人の市民は私人としてはこういう人であると判断しても尚、ある職業とか仕事のレヴェルでは私人性とは全く異なった相貌の下で認識され得る。仕事の有能さとは私人としての性格とは異なった価値基準である。だから仕事上での業績といったものに対する評価という現実からは、言ってみれば本当であることで陳腐な真実である私人としての性格判断よりも、嘘であるけれども説得力ある真実の方を高く評価する傾向が社会自体に存在するとさえ言えるのだ。
 先にも述べたが、社会では全然儲かってはいない企業が外から来る顧客とか営業回りでは一切そのようなことを口外することはしないであろう。それはその企業を顧客として利用する客の心理を台無しにしてしまう。出版社ではどこでも公称何部という部数の公表を実際の数字よりは割り増しして明記しているが、これもまた嘘の常識である。
 ニュース原稿を読むアナウンサーはどんな有名人が亡くなっても、その有名人を自分がさもよく知っているかのようにニュース原稿を読む。そうしなければ伝えられる側は不安になるであろう。極端なことを言えば、その有名人を知らないでいても知っている風に語れる能力の人の方が、よくその有名人のことを知っていてもそれを伝える時、知っているような振りの出来ない人よりもよりアナウンサーの職場には求められているのである。
 先日映画監督の周防正行氏がヴァラエティー番組に出演し、十何年ぶりかでメガホンを取った作品が司法関係の叙述の多く登場する映画で、今までの映画監督の多くが、実際に施行されている司法的な現実の知識に基づいては描いていなかったということを主張していた。彼はそのような現実に即した映画が作りたかったのだそうである。しかし彼の批判するような今までの映画作家の目論見を生じさせるようなある種の創作上のフィクション、それはしばしば実際の刑事と映画やテレビのドラマの刑事とが異なった実像であるという意味でのずれは、恐らく全ての職業の人々が抱く感想ではないだろうか?というのもフィクションというものはそれ自体で独立した価値のものなので、実際の実像に即して描くのならノン・フィクションに任せておけばよいというわけである。勿論実際の事実を知らないで例えば時代ものの実録小説とか企業小説というものは描けないであろう。しかしそういう意味での実録的なものの価値と文学自体の、あるいは映画自体の表現上の価値というものは往々にして全く異なっている場合も多いものなのだ。
 例えばフィクションにおいては、作家の哲学、文学上のスタンスとかから引き出される倫理や手法に則って作品を書いている(描いている)。その場合何に関心を示し、何を優先すべきなのかということにおいて、その価値は事実描写の正確さ以上に重要視されることもある。例えば冤罪に巻き込まれた家族の懊悩が主題の小説に、必要以上の弁護士とか検事の職業的実像を詳細に事実に即して書いても、勿論いい加減に事実を捻じ曲げて描くことは批判対象となることは仕方ないであろうけれど、一定以上の詳細の努力には意味がないと言えると思う。
 勿論事実に即した詳細な記述と表現上の主題という異なった二つがいい意味で両立し得るのなら最高であろうけれども、実際は実録というものでさえ、実際とはかなり異なっているということを私は言いたいのである。例えばその典型的な例がニュースである。ニュースというものはある意味ではニュース的な真実以外の何物でもない、それは既にマスメディアの作為性に多くの国民が気付いている今日別に殊更珍しい論理とは言えないだろう。
 ニュース映像はある一連の事実を長い時間撮影していることに関しての一部の切り取りであることは確かである。それは特に放送局の意向というものが手伝って、その責任者の判断によって編集的な意図を指示されている。勿論その意向がプロデューサーに任されていようと、ディレクターに任されていようと、誰かに委ねられているということに関しては変わりない。左傾的に、右傾的に報道されることがどの立場の人間からもその都度別の批判が出ることはあり得る。だからと言って主観的であるから、どのように編集してもよいということにはならないが、何も編集せずに放映することもままならない。そのディレンマは誰しも報道にかかわらず出版や表現にかかわる人間は必ず一度は感じたことであるに違いない。
 要するに報道というものそれ自体が何かの事実をニュース化しているという一事において、どの記事を一面の筆頭記事にするか三面記事にするかというような決定を主筆が新聞では握っているような意味で放送局も、誰かの意向を受けて決定されているということを認識するなら、我々には事実に忠実な報道というものは本来存在し得ない。その場に居合わせた人、ある事件に巻き込まれた人にしか理解出来ないということがある限り、フィクションとノン・フィクション双方がフィクションであるとしても尚、ある事件の事実に接する時、その時現場に居合わせたか、少し離れたところから見ていたのか、新聞やテレビのニュースを通して知ったのか、ということの間に横たわる推移には限りなく段階が設定されることになり、事実上、伝達がフィクションであるというのなら全ての言語活動は実存、現実、事実に「対する言及」なのだから、全てフィクション以外の何物でもないという結論に達する。しかし我々はこのように言語活動が何物かに対する言及であるという意味では外在的事実に関するものであれ、内在的心的事実に関するものであれ、何物かに対する言及であるところの言語というものの本質が仮にフィクションであるとしよう。それは嘘つきの魅力であり(演説の巧い政治家は、大袈裟に表現するという意味では巧い嘘つきであるとさえ言える。)、何かを誰かに伝える時に、大袈裟に、オーヴァーに表現する時、我々は嘘をつく快感に目覚めているのである。歌手が大衆の前で歌を歌い、魅了するという行為には他者を陶酔させることを通して自分自身もまた陶酔的な境地にあると言ってよい。画家は絵画の鑑賞者に対して陶酔させようと試みながら、自分自身でもまた陶酔して描いている。それは心地よい境地を得ることに関する翻弄を受容していることでもある。しかし我々は嘘という作為性とは無縁のように思いたいという気持ちも保有している。価値論的に。それこそが愛である。次章では愛に関して哲学的に考えてみたい。

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