Monday, October 19, 2009

D言語、行為、選択/9、選択の歴史と再認

 ある行為を選択することとはあらゆるそれ以外の行為を断念することでもある。それは人間が生まれてから死ぬまで不断に繰り返されてきている行為である。身体生理学的に言えば例えば、我々人間は<幼弱時には、大脳皮質の視覚領など、運動に直接関係のない部位からも脊髄へ軸策がおりているが、成熟するにつれてこのような軸策は消滅していき、脊髄へは、直接運動に関係した運動領とその周辺のみになる。また、大脳視覚領では、脳梁をへて対側の大脳視覚領へ投射する軸策のうち、Ⅱ層、Ⅲ層(大脳皮質は六層構造を示す、表面からⅠ層、Ⅱ層…….Ⅵ層である)に存在する細胞以外からのものは消滅してしまうことが知られている。>(「脳の可塑性と記憶」塚原仲晃著、紀伊国屋書店刊より)あるいは免疫システムに計り知れない大きな役割を果たすことで知られる<「胸腺」のもう一つの重要な特徴は、胸腺自身がかなり正確な「生物時計」であることである。「胸腺」は、十代の前半に最も大きく、以後経時的に小さくなってゆく。細胞の密度から見ると、すでに生後まもなくから脂肪が入り込んできて、40代ではすでに半分、60代では4分の1に縮小する。80代になるとほとんどが脂肪に置き換えられて、「胸腺」そのものは痕跡程度になってしまう。何が「胸腺」をみごとな「生物時計」にしているかも、いまだに不明である。(「免疫の意味論」多田富雄著、青土社刊より)つまり我々は皆身体上の仕組みから生きてゆくその過程で、あらゆる可能性を切り捨てて、選択に選択を積み重ねて生きてきているのである。それは選択して、あらゆる中からその可能性だけを活かして生きてゆくということなのだ。では、どうせ殆んどを棄ててしまうのなら、最初から一つの可能性だけが与えられておればよいではないか、と思うかも知れないが、実際はそのあらゆる可能性から敢えて一つを選択するという行為に意味がある、ということなのである。つまり決断、それは身体生理のような付随意運動も、我々自身の日々の決断も一環として流れる摂理である。そして、最低限のルールだけは守ろう、最低の数値的リスクだけは避けよう、という日々の消極的決断が集積されて、やがて大きな可能性への飛躍がなされることにもなるのである。そもそも生きるとは選ばれること以外のあらゆる可能性を棄ててゆくことに等しいのであるから、その可能性の中からさらに絞ってゆくことは行為で意志を表明してゆくことである。そして選択拒否というような最悪のシナリオだけは避けることで、最良の選択を摑んでゆくこと、これが生ということなのだ。だから選択の拒否は生の拒否なのだ。選択を恐れることは未来へ踏み込むことの躊躇なのだ。しかし我々は躊躇する。躊躇がしかし、最悪のシナリオだけは避けるべしという観点に変わった時に、我々はその中から自らの意志を掴み取ることになるのである。だから安易な積極性よりは、消極的なリスク回避の姿勢にこそ、生きてゆくという行為の実は極めて大きな生存戦略上のメリットがあるのである。
 躊躇の末にたどり着く最悪のシナリオだけは何としても回避すること、これはあらゆるケースにあてはまる真実である。積極的選択を極初期から行っている者が多くの場合失敗しているケースを我々はマラソンのレースに見ることが出来る。最初からトップを狙う者はやがて後続の集団に追い抜かれることが多い。人間はなかなかその真意が、自分でもわからない。だから最悪の選択肢だけは回避することから徐々に積極的な選択肢を浮上させるのだ。躊躇しない選択行為の連続はやがて不安を増大させる。「もっと考えた方がよかったのではないか?」という潜在意識を生じさせる。しかしもし最初からあらかた何を選択した方が良いかはっきりしている場合でも一応逡巡を示してから選択に踏み切った方が、仮に逡巡が所詮わかりきった確認であってさえ、その慎重さに自信を持つことが出来る。「これからもこうやって慎重に選択してゆこう。」そう思えるのだ。だから人間社会に保険があるように、人生に、人生の選択に保険を持つことは大切である。しかし、こう言う人もあるだろう。選択を躊躇していたがために他者に先を越されてしまった、ということもあるではないか。それは勿論ある。しかし、ここぞという時に躊躇しないためにも、普段あまり決する必要性のない時には極力躊躇しておいた方が、いざという時のエネルギーを確保しておけることになりはしまいか?最悪だけは回避する消極的選択の集積はいざと言う時のエネルギーを貯金するための最良の方策である。しかし人に先を越されたといって後悔するような一大決心などそう容易には我々の身に降りかかるものではない。少なくとも大きな選択を初期段階で果たしている場合には。その大きな選択、つまり決断とは最悪のシナリオだけは絶対回避する、ということと、大きな選択(それは大いに積極的なものである。)を迷わずに何回かするために、小さな選択は一々躊躇しておいた方がよい、ということである。
 大きなミスを回避するために小さなミスを恐れない、大きな幸を得るために小さな不幸を恐れない、ということである。だから真意はここぞ、という表明すべき時のために出来るだけ表明せずに、軽い罪のない技巧的偽装を常に心がけておくべきである、とは言えることである。我々が過去の先人のテクストから学ぶこととは、人生のすべての瞬間において選択する意志なしには、過去の何人たりとも人生を送ることなど出来なかった、という真実を知るために先人の選択(あるテクストの次にこういうテクストを書き残した、という事実は既に大いなる選択である。)を顧みることから、私たちの生の実像を反省しつつ見据える、ということにテクスト読解が等しいということを再認することなのである。

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