Thursday, October 22, 2009

B名詞と動詞 7、 名詞と動詞を中心とした様相的変化認識と理解及び記憶の構造における言語学的、大脳生理学的、行動遺伝学的考察によるアプローチⅣ‐無関心事項としての対象と名詞化、動詞化された二つの形容詞

Ⅳ‐無関心事項としての対象と名詞化、動詞化された二つの形容詞

 我々は通常自己とあまりかかわりのないものを興味も持たないし、往々にして自己の洞察力のなさを棚に上げて、本当はもっと深く追求した方が役にたつと知っていながら、経験的事実にのみ依拠してそれ以上知ろうとしない、しかも最初に躓いた場合、ネガティヴな思い出があるものには二度と振り返ろうとしない傾向もある。本当は実は最初の経験というものは些細なものに過ぎず、例えば楽器を最初から巧く弾きこなすほどの天才ではないということを知ると趣味であってもそれなりに巧く弾ければ結構楽しめるのにそれさえも諦めてしまうということも多い。無関心であるというのは、しかしこちらから何か働きかけることのないものであるが、逆にこちらは関心がないのに、向こうは関心を持ってこちらへ働きかけてくるかも知れない。それは他者、友人である場合もあれば、恋人や将来の結婚相手かも知れないが、ネガティヴなものとしては病気かも知れないし、天災かも知れない。昨今のインド洋における地震の後の大津波は多くの死傷者を出したことで記憶に新しいがインド象は一頭の死者も出さなかったという。それは彼等が低周波の音を遠く離れた同一種内他個体と連絡を取り合うことが出来、しかも大津波が作る低周波(象の発する低周波同様人間には感知出来ない周波数であるが)によって人間が視覚によって大津波を何とか知覚し得るよりもずっと早く感知し得たことが未然に同一種を集めて大挙して退去し得たということの起因だったと言う。天災の場合我々はその脅威に立ち向かわなければならないが、往々にしてそれらは普段は余ほどの専門家でない限りなかなか察知し得ないものであり、その意味では西田の言う自己とかかわり合いのない意識に実在しない無関係物であり、無関心事項である。またそういった最悪の状況を未然に防ぐことだけで日常の生活を満たすわけにもいかない。そういった予防措置はあくまで常に最悪の被害を防ぐことだけしか出来はせず、無傷で全ての犠牲を出さないようにすることなどコスト的にも日常的な労力から言っても不可能である。故に地震対策においても最低限に留めおきたいとは言うものの死傷者数は換算する。
 ここでちょっと進化的な適応というものの理想的在り方というものについて考えてみよう。
 死をもって完成する生はその只中においては即自的に常に未完であり、死を迎えるその瞬間まで未来へと開かれている。これはサルトルが「存在と無」で考えたテーゼでもあるが、そういう生が仮に何らかの偶発的な不慮の死において突如中断したとしても、それは予定調和的に仕組まれたものではないにしろ、幾許かのそういう不慮の生の中断もあり得るという可能性においてどのような種においても例外なく生を営んでいるのだ、ということを生物と自然によって育まれる世界は教えてくれる。
 ある生物あるいは生命体が自然の秩序に従い生を営む限り我々人間を含む全ての生命体は皆自然の構成要素である、と言える。しかしそれらは皆独自の立場を持ち、それぞれが生存の為に何らかの他の生命体を自己種の利己的な目的の為に利用し、そういった犠牲を払って自己種の存続を確固たるものにしている。そういう意味では各種毎に異なったその種固有の世界観があり、主観が存在し、世界とは言わばそういった全ての生命体としての種とそれを取り巻く物質界の物質毎の性質や作用といったものとが絡み合って一つの総合的な姿を構成している、と捉えることが出来る。その意味では全ての立場からの主観の綜合が世界だ、と言ってよい。進化は、だからそういった世界の中で各生命体や物質がそれ自体の立場からの主観を持ちながら、それが他の主観とぶつかり合い、そのぶつかり合いがまた新たな主観の様相を生じせしめそこから関係的なメカニズムが発生しそのサイクルの中から自然と構築されてゆくのであり、そこには生成と消滅が繰り返されるもそういった反復自体が自然にある綜合的に見られる特徴を構築しているのである。勿論その種毎の進化過程では勝者と言われる者もそうでない者も含まれるが、では一体勝者とは何なのかという視点に立ち戻ると一概に絶滅したもののみを敗者と決め付けることさえ出来ないかも知れないのである。なぜなら絶滅した種のある絶滅に追い遣られるような形質や行動、あるいは性質、性格的傾向性が、その種の絶滅の後に別に生成される新種の自然選択に貢献しているとも思われるからである。絶滅があって始めて新種が登場するというようなことがあり得るのなら、我々は絶滅がある個体の死同様今までの観点からとは全く別個の「実験場」という観点から自然を認識するなら必然的にある条件に沿わない自然選択的な形質、行動、性質、性格的傾向性といったものがそういった絶滅をもたらしはするが、それと別個の新種の誕生を促しもするという再生のドラマの中で育まれる自然の進化というものも考えてみることが出来るよう思われる。自然は待たない。しかし自然選択において自然もまた学習するという観点から我々は生命の歴史を考えてみよう。そうした中で我々の心中に巣食う考えが言語を性格づけもするのである。勿論個体毎の世界観や主観の綜合たる自然の学習は一面的ではない。しかし例えば隕石の衝突によるものと考えられる恐竜の絶滅が哺乳類に活躍の場を与えたような意味では自然は同じ歴史を二度と繰り返さないのであるから、無意味な反復もまた避けているように思われる。(勿論それはその場その時の自然条件が固有であるという事実から引き起こされるのであろうが)「自然が思惟する」ということは、自然が人間のような心を持っているのではなく、寧ろ人間の心もまた自然の一部にしか過ぎないということを物語っているのだ。「自然が思惟する」こととは一面では自然の中での一切小さなことには干渉しない、ということでもある。
 自然選択というものは自然全体から見ればいかにも歪で不合理に思われるような偏向したものさえもしばしば作り、自然はそれを糺すようなことは一切しない。自然は待ちもしないが、特定の自然選択に対して、それが不合理であると判定して、その成り行きに干渉するようなこともしない。コンラート・ローレンツは自著「攻撃」の中で興味深い例を挙げてこのことを説明する。

 雌によって行われる性的淘汰(著者注、筆者は以後も淘汰ではなく選択と言う積もりである。)も、ライバル闘争と丁度同じ役割を果たしていることが多い。雄が多彩な羽毛とか奇妙な形態などで極端な装いをしている場合にであうと、この雄たちはもはや戦わず、相手を選んで決めるのは雌の方ではなかろうか、雄はこの決定に対して異議を申し立てる「法的手段」はないのであるまいか、という疑いを当然かけたくなる。たとえばゴクラクチョウ、エリマキシギ、セイランの例がそうだ。セイランの雌は、雄のみごとな斑紋のついた大きな翼に反応する。求愛のとき、雄はそれを自分が言い寄った雌の目の前で広げて見せるのだ。その翼は非常に大きいから、雄はほとんど飛べないくらいである。しかも翼が大きければ大きいほど雌は激しく興奮する。一羽の雄が一定期間に生ずる子孫の数は、その翼の長さに正比例する。それが極端に発達していることが、別の点で持主に不利になる場合がある。たとえば彼ほど求愛の器官が気違いじみて発達していない競争相手よりも、遥かに早く捕食者に食われてしまう。それでも彼はふつうと同じか、それ以上の数の子孫を残すのだ、だから翼が巨大になる素質は、種を保つという働きと完全に一致しているのである。かりにセイランの雌が、雄の翼にある小さな赤い斑点に反応するのであっても、いっこうにさしつかえないように思われる。この斑点ならば、翼をたたむと隠れて見えなくなるだろうし、飛ぶ能力も保護色もそこなうことがないだろう。だがセイランの進化は、すでに袋小路に迷い込んでしまったのだ。というのも、この雄たちは翼の大きさを競い合うことになった、言いかえると、この種はもう決して理にかなった解決策を見つけることはできないだろうし、この無意味な競争を今後も続けて「しまう」だろうからだ。
 ここで初めて、わたしは系統発生学上の事件にであったわけである。たしかに、偉大な設計者が行う盲目的な試行錯誤が、その結果ときどき目的にぴったりかなうとは言いかねる設計をすることがあっても、それは驚くにあたらない。もとより自明なことだが、動物や植物の世界には、目的にかなうものと並んで、淘汰が選び出して捨てねばならぬほど目的からはずれてはいないというものも無数にある。だがここでは、それとはまったく別のことが問題になっているのだ。合目的性をきびしく見張っている番人が、「大目に見て」二流の構造をパスさせてくれているばかりではない。(著者注、最良のものを選ぶような自然選択とは時間がかかる。)それどころか、ここで破滅に至る袋小路に迷い込んでしまったのは、淘汰それ自身なのだ。淘汰は、同種の仲間たちの競争が、種外の環境と関係なしに単独に行う場合は、つねにそのようなことをするのである。(「攻撃」中、第三章、悪の役割から、上巻、67~69ページより)
 
 ここで問題となっているセイランの翼の大きさに関する雄の側の同性間の競争(競争意識もあるであろうし、それと同時的な選択圧の形成もあるが)は裏を返せば雌の側からの雄の選定基準の激化、雄にとっての苛酷さが考えられよう。なぜそのように雌の雄の選定基準における競争が激化したのかということに関しては何らかの自然条件(セイランの生存に対する)とか、セイランの雄の雌に対する不信(雄の行状が喚起したのであろうが、これもまた自然条件が関係しているかも知れない。)とかもあったのかも知れない。しかしこれ以上は専門家の研究に任せておくこととして、そういった外部から見たら少々歪な自然選択と思われるものに対して、仮にセイランの「雄の翼の巨大化」を促す自然選択が種自体の生存に関してマイナスに作用しているとしても、それ以上のメリットがその雌による雄の翼をめぐる選定基準の存在から喚起される事実にあるのなら、そういった一見歪な自然選択もそう容易にはなくなりはしないであろうし、自然はそういった一々に関しては一向に無頓着のままである(ここで有神論自体への懐疑が我々に投げかけられる可能性もある)。
 カントが「判断力批判」で崇高ということについて自然を前にした人間の実像から分析したのも、こういった自然の細かな現象に関して日頃より抱いていた感慨から齎されたのかも知れない。
 我々は日頃あまり自己とかかわりのないと一見思われるあらゆる外界の出来事に対して、それがいつ何時自己個体や自己の家族に何らかの災難として振りかかるかも知れないような可能性がゼロではないと知ってはいても、尚そのようなことを考えなくてはならない契機が訪れるまでは静観するしかない、というより他の仕事や多くのすべき日常的な忙しさの中に埋没することで、寧ろ積極的にいざという時の為に、そのいざという時にことはなるべく考えないようにして、無駄な不安と心配に注がれるエネルギーを浪費することなく蓄積しておいた方がよいと認識してさえいる(このことはまさに自然の一部でもある我々の心が「自然が一々に干渉しはしない」ことを身をもって体現しているかのようである)。このような考えが生存戦略的なメリットという点では理にかなっているという一事をもって全ての対象へ関心を集中させることも出来はしないという認知も手伝って、その場その時に必要な事項にのみ関心を集中させるように、それとは無関係の事項に関しては意識を集中させることを積極的に差し控えているのである。
 ここで初めて我々は対象を叙述し、それが主語となっても目的語になっても修飾することが心的に対象に対してどのような質の関心と感情を持っているかという対象に関する欲望のバロメーターとして形容詞の存在理由が俄かに問題となってくるのである。
 形容詞は関心事項に関しては共感と反感という二つの志向性を有し、そのプラス、マイナスの両方の作用を心的に保有した時に得られる感情である場合と、そうではなく無関心事項に関してもその感情(無関心であるという)である場合に語彙選択される。形容詞の語彙選択は様相的には、ある対象(あるいは出来事)に関する共感、反感という関心(フッサール流に言えば存在充実であり、充実綜合である。)とそうではない無関心(フッサール流に言えば存在幻滅であり、幻滅綜合である。)の両方において、ある感情の質にそれぞれ対応する一つ一つの形容詞の語彙をその都度選択することである。
 形容詞はあるゆる品詞の中で最もその語彙選択の基準に関して対象に対する感情の入り込む余地の大きいものである。感情依拠的語彙選択の順は次のようになる。

名詞 < 動詞及び副詞 < 形容詞

 動物に感情があるかという判定は論理的にはどのように考えたらよいのであろうか?最も有効な考え方とは次のようなものではなかろうか?
 まず一つは先程もローレンツの叙述から引用したセイランも例でもよいし、雄の孔雀でもよいし、ライオンの鬣でもよい。彼等動物たちが何らかの形で翼や角あるいは毛といったもので雄が雌を惹き付ける時、その選択基準が何らかの形であり、それは貫禄である場合もあるし、凛々しい武功でもある。そこには強さや威光といったものに対する価値観、どちらかが別のどちらかよりも優れているということに関する判定基準があり、それを色々の知覚によって確認出来るデータによって彼等が心的に判断しているという事実が考えられるが、少なくともそういった個体識別が可能であるという事実は、その個体をある程度の形容詞的な認識(我々が考えるような遣り方に当て嵌めると)を持っていることから、感情を有していると判断してよい、ということである。一方は鬣が大きいが老化現象が見られるということと、他方は若くつややかではあるが、鬣の威圧するような量には今ひとつ欠けるというような場合、その二つの個体のどちらを選択するかとなると、ライオンの場合既にハーレムを築いている雄に対して後からやってきた部外の雄がそのハーレム支配者に挑みかかる、ということが常習化しているからそれ程雌にとっては大した意味がないであろう。しかしそういった判定基準を有している種においては、きっと何らかの判定基準があるのかも知れないが、今のライオンのケースのように優劣を判定し難い場合もあるであろうから、そういった場合はきっと個的な主観を採用していると思われる。するとそこには形容詞的な判断、大きいとか小さいとか、あるいは若いとか年老いているとかの知覚判断的な判定は当然あるであろう。するとそこには、それが、我々の様な言語による語彙判断ではないだけで、感情論的な判定基準としてそういった状態性の理解というものはあることとなろう。それは我々人間においても同様な心的な心理であり、感情である。そういった個々のケースを語彙に置換し得る能力として我々が社会生活を営む為に採用しているだけで、赤い林檎がおいしそうだ、という感情はあくまでそれを言語で表現し得ることとは関係なく先験的に備わってもいる。その「おいしそうな赤さ」という知覚判断、それは当然のことながら嗅覚とも関係があるであろうが、そういう判定が形容詞の語彙選択の基礎として当然のことながら考えられる。勿論「おいしそうな赤さ」という基準は各個人で異なるようにどのような動物においてもそのような個体毎の判定基準の差異はあろう。あまり赤い林檎を見たことのない人間の持つ「おいしい赤さ」よりも、そういった林檎をよく見て育った人間の「おいしい赤さ」はより厳しい判定基準を持っているであろう。そういった差異は全ての形容的識別をし得る種に介在するに違いない。

 さて我々は形容詞が対象に対する感情によって語彙選択される感情的様相→感情様相表意語彙選択という言わば各感情様相に対応する語彙学習の結果なされる言語的思念について考えてきた。では一体この感情というものは何によって支えられているのであろうか?
 それはまさしく欲求であると言えるであろう。欲求はどこから引き出されるかと言えば紛れも無く身体である。身体から生ずる欲求が感情を引き起こすということは身体そのものがこの世界に属し(世界と対峙するという意識を我々に持たせることが自我の役割であるが)、世界に属しながら、ただじっとしているわけにはゆかず、絶えず世界に働きかけることが身体を世界に所属することが維持されるように努めることに他ならず、そういった行動とその行動の意志を構築することが生である、という認識を我々に覚醒させるものが、我々が抱く現在の常に未来へと可能性の存在として開かれている(生きている限り)、そういう自己の完成へと向けられた志向性、つまり常に現在においては未完成なものとして生きていることの実感である。
 経験論者の言うように経験的現象こそが現実的存在(カントの表現であるが実在と同義と考えてよいであろう。)とするが、それは当たっていないであろう。にもかかわらず我々自身にとっては、世界とは現在の知覚及びその集中をも含めた経験(記憶によって収納されている過去の経験とその想起をも含めた、つまり記憶としての経験を持ち、記憶をしながら行動する我々の行為)の総体である。そしてその総体の中で我々がその時々で抱く感情は形容詞によって表現される。我々がその形容詞を選択する(思念上においても発話、記述上においても)ことは形容される感情的様相(対象へと向けられた、ここで言う感情とは事物、現象、事象の全てである。)、つまり関心と無関心という両極を持つ関心度のバロメーターが不断に作動していることの証拠である。では次に我々が無関心なものに注ぐ知覚や記憶のそうではない集中されたそれとの対比において示される記憶と知覚と関心の関係と、それによって形容詞においては名詞化されたものと、そうではなく動詞化されたものとがやはり関心と無関心の両極の如くバロメーターとして作動している現実に関して考えてみよう。

 まず副詞について考えてみると、これは主に動詞や形容詞を修飾しているわけだから、副詞は動詞や形容詞自体の強調や限定をその役割として担っており、その限りで感情的ではある。しかし形容詞のような意味では決して感情的ではない。というのも形容詞自体がその形容する対象への直接的感情である(それは関心と無関心、あるいは快、不快といった感情表出における)し、その感情表出の為になされる語彙選択の結果現出するのに対して、あくまで文章の文脈上の強調や限定においてのみ感情的なのであり、言わば間接的な感情表出であり、それは寧ろ発話者や記述者が聴者や読者を説得することに貢献しており、その限りで自己主張性は皆無で寧ろ奉仕的である。それに比べれば明らかに形容詞は直接的感情を対象性質、性格を判定し、それを直接表示しているのだから、あくまで一次的直接選択である。(副詞は動詞や形容詞に付随しており、二次的付帯選択である。)
 今度は動く物体とそうではなく静止している物体を知覚する際の相違に関して考えてみよう。静止している物体も実はどんなものであっても少しずつ変化をきたしており、全く動じない変化のない物体、対象は現実にはあり得ないにもかかわらず絶えずひっきりなしに動く対象と、そうではない対象の知覚的な行為において自ずと相違が生じる。
 絶えず動く物体(それは断続的、周期的でその瞬間だけでもよい、つまりすぐにその動きが止まっても良いが)は必ず形容される時には事後的である。それが今ゆっくりと動きつつある時には、目まぐるしいというような形容さえ思い付かず、即座にそう表現して陳述することさえ不可能であることの方が多いだろう(観察)。目まぐるしく変化する物体を形容する時は、一時その物体への注視を中断している場合が多い筈であろう。それに対して既に動きを止めているものに関してはそれを注視しながら、その対象に関して言述することは容易いことであろう。つまり動き自体は一瞬の体験(眼球を移動させるような意味での生理的な変化を要求する)であるから、その形容はあくまで対話手の方に向き直って語ったりという、つまり一時の体験の中断によって齎されることが多いのに対して、静止物体についての注視体験は体験しながら同時に(実は実人生においては、その静止物への注視もまた動きのあるものへの一回性同様のその時固有のそれなのだが、そのことに関してその時には気付かないのだ。)形容して語ることが可能なので、それは共有体験のリアルタイムでの確認を伴う。前者は共有体験の事後報告である。「今の見た?」、「うん、見た、見た。」というわけである。それに対して「あの山すごく大きく見えるね。」、「そうだよね。此処から見ると意外と大きいし、高いよね。」というわけである。
 形容詞がある動きのある物体、対象物を指す時は「ほら、あれ、あれ!」というような形容になる筈である。しかしそれが事後的な確認や報告となると「今の凄かったよね。」となる。形容詞には名詞化されたものがあるが、それは山のようなそれ自体の動きが知覚され得ないものに多く用いられる。山の一部である木々のざわめきや動きはそれ自体では動きであるものの、山という総体自体は微動だにしない。そこで我々は無常の中で変化しないものに関しては自己や自己と他者を含む共同体の力ではどうしようもないという意味である種の諦観を持つ。カントが「判断力批判」で叙述した崇高なるものへの感情とその知覚を通した判断とは明らかにこの諦観に属する。動きのなさの確認は脳神経的にも諦観を促進するであろう。それはどちらかと言うと、過去から大きな時間の流れが現在を支配している感情である。しかしそれに対して形容詞でも動詞的なもの、動詞化されたものも多く存在する。自己や自己と他者という共同体の力によってそのものが変化を蒙る可能性があり、自己や自己を取り巻く自己中心の世界のかかわり自体が世界自体を変化させる、そういう相関性において認識される場合、我々はその関係の変化や関係を持つこと自体を形容する時動詞的になるし、その形容詞は動詞化される。だから同じ大きいということでも、背が高い人となると山自体よりは動詞化されるし、また態度自体が大きいあるいはでかいということとなると、もっと動詞化される。その態度のでかさは何とかしたい、ということなのだから、未来への意志が感じられ、それは明らかに感情論的にも動詞化されている。
 この場合、先述の名詞化された形容(それは過去データから換算される概念化作用の確認である。)と違って過去はどうあれ、現在と今後(未来)への自己とその形容された事物や対象への自己(あるいは私とあなたを含むようなものも含んだ自己)のかかわり合いという未来絵図、意志確認であり、動詞化されている。しかもそういう形容をすること自体が話者にも聴者にも脳神経を刺激させ、未来への意志形成と既に芽生えつつある意志確認をなす。
 今度はそういった感情の差異、諦観と未来への意志、あるいは、関心と無関心、快と不快ということをまず社会学的に、続いて生理学的に捉えてみよう。
 先程までの同じ「大きい」という形容が、全く二つに異なった感情様相において示されることは一面では字面では同じでも全く異なった感情からの帰結(語彙選択)が大いにあり得ることも示している。一つの語彙が示す感情は一つではない。一つの感情を示すのも一つの語彙ではない。「態度がでかいなあ。」という言葉が指示すことは受容拒否である。不快、軽蔑、嫌悪の情とかがこの一つの「でかい」で示されている。だからこれは受容拒否という未来への意志表明である。しかしこの同じ「でかい」も雄大なる自然を目の前にすると途端に異なってくる。「こうやって近くでつくづく眺めるとでかい山だよねえ。」と言えば、それはそれ(でかい山)が過去から現在に至る迄ずっと変わらずにそうであったし、これから(未来)もそうであるということを称讃し、積極的に肯定しているのである。
 同じ語彙形容であっても異なった感情様相による語彙選択なのである(あるいは語彙そのものへの意味付与と言ってもよい)。前者は受容拒否、後者は自然の崇高さへの尊敬心に満ち溢れているのである。尊敬心は心的にはそこまでは自己の能力では行き着くことが出来ないという諦観に通じる。それに対して受容拒否的な不快、軽蔑、嫌悪の表現に供せられる形容においては未来の主体的な自己意志が漲っている。そこでこういった受容拒否や、あるいはもっとポジティヴな肯定(ポジティヴな肯定は、それを否定する側の選択や論理、感情を拒否するという側面が強い。)等は明らかに未来の自己行動を積極的に断定出来る、感情論的にも意志論的にも未来意志的な決断、あらゆる決断という決断には皆それを蔑ろにする輩に対する積極的な批判が介在しているのであるが、それが示されている。それに対して諦観には大いなる関心と同時にどこか、無関心をも決め込むような趣もある。だから拒否というのは意外と積極的な関心でもあるのに対し、逆に諦観はどこか自己責任にはかかわりのない無関心(無責任)という趣はある。というのもそれ程偉大で自己能力を遥かに上回るような絶大な威光には逆らえないのだし、敵わないのだから、そういう対象は凄いと認めはするものの、観光で訪れた大きな山や恐らくこれからもそう簡単には覆されないであろうように絶大なる権力や時代の趨勢とかは総じて一部積極的に関心を払う部分もありはするものの、一方では消極的に認知しつつ自己の自由は別の場所へ求めるというような意志も含有されているのである。だから畏敬の念とか崇高さ、威光や絶大なる権威に対しては、それ自体と共にそれに仕方なく、遣るかたなく付従う者や彼等の心理はほとほと呆れ果てるという感情様相も充分あるのであり、関心と対極の無関心ではないものの、極めてアイロニカルな諦観、非日常的であり、それを拒否したい願望、でもだからと言って、そうそう簡単に拒否して無下に出来はしないという苦渋性も充分兼ね備えているのである。
 我々はそれがどんなに素晴らしいものであっても例えば現在ヒットしているポップスよりは昔自分が若かりし頃に聴いたお気に入りのポップスを好むというような傾向というものは確かにある。それは新しいポップスに対する無関心というよりは、中年をとおに過ぎたこの年になってまで今風を追い求めること自体のエネルギー・ロスを避けたいという一事であり、そういった保守性は、それが悪質な権威に対して阿ることとなり、新しいいい意味での優れたものの出現を否定したり(一応の関心と一応の認知さえしておればよいという)阻まない限りで容認されるであろうし、少なくとも新しい価値あるものを否定して真っ向からその活躍の場を阻まない限りで容認される自由(積極的に受容しないということは否定することと同じではない。)というものはあるし、それは静観して事を見守る(積極的に推進したり、賛同したりすることではないものの)限り、許された行為である。勿論それはあるゆる社会奉仕活動やデモ、平和運動、被害者救済のキャンペーンというような活動に関しても、それを拒否したり邪魔したりしない限りで、積極的に参加することを差し控えることそれ自体は非難すべきことではない。
 人間には不快なものを避けたいと思う一方、それに対しては結構積極的に関心を注ぐという側面がある。寧ろ心地よい快に対しては、それが容易に入手し得るものであるなら無関心をさえ決め込むところがある。それに対して特別の快に対して人間はやはり特別の超関心を持つ。しかしこれは最早関心の領域ではなく(というのは関心というのはあくまで現在の自己能力の可能性としては不可能である、つまりそのように我々が未来への希望として自己の介入し得る余地があるからこそ、自己参画の名において関心を持つのである。)熱中の域であり、妄信の萌芽である。また若い頃聴いた音楽が好きだという傾向性は古い経験から得たものについ一々深く考えることなく、付従うということは、それまでそれに対して自己が投入してきたエネルギー、つまり投資してきた関心量に比例して殆ど無条件反射的に受容するということがあり得るのである。このことはドーキンス等も動物行動において証明している。70代や80代の人間に現在において更に40年後にやっと手に入るような価値や財産を期待させることの方に無理がある。価値や関心あるいは未来への意志行動に直結し得ることとはおしなべて、それが自己の生のある限りでの実現可能性の範疇である、ということである。
 まただからこそ観光で訪れた地域が、どんなに気に入ったとしても、それが即、ではそこに引っ越すということがどれだけのメリットがその人間にあるかということに関しては甚だ疑問である。たった一回訪れたからいいのであって、また高く聳え立つ山も美しいのであって、そこに住むとなると肯定的に賞賛ばかりはしてはいられない、自然の脅威とも日常的に接していなければならないであろう。そういった地域で居住するにはそれ相当の決心とそれに見合った生活力を要求されるであろう。そういった地域に居住することが慣れているような経験の持主でなければならない。それはそういった自然の豊富な地域に居住することに慣れた人間が大都会で暮らすことにおいても同様な事態であろう。
 今までのことを綜合して下図のような事態は想定出来る。



無関心


不快事項=関心
___________

適度の快事項=無関心


関心
_____________________________________
特快事項≡関心が最早熱中に成り代わり、更に妄信と非懐疑として常套化する。


特別の快とはとりもなおさず共感であり、不快事項はその対極故に反感となって現出する。それは不快であるという一事で印象的な為に反措定的な意味においてどのような個人にとっても関心は惹く。しかしそれは反感であるから否定すべき対象である。否定すべき対象を関心事項にする時に人は、それがより多くの他者においては大きな共感を共有を得ている場合が多い(逆により多くの他者が否定するのに自分だけが肯定するものがある場合でも、同じである。それは依怙地となることにおいて同様である)。もしそうでなく他者もまた反感とまで行かなくても、余り多くの関心を誰もが持ちはしないような対象には適度の快を感じる事項同様徐々に埒外に追い遣られやがて無関心事項となるであろう。反感の持続はだからより多くの他者の大きな関心によって維持される。このことから見ても人間が社会的な動物であることは明白である。
 関心が形容詞を語彙選択させるモティヴェーションであることは、これではっきりした。
 そして自己の影響の及ぶ対象の性格が未来志向的形容詞の動詞化作用である。それは肯定的な場合も勿論多い。例えば親しい友人であり、誰に会わせても恥ずかしくないような誇りをその友人に抱いている場合、通常人間はその友人に関しては他者に自慢したりするし、そういった行為は明らかに尊敬心であるから名詞化された形容詞のようであるが、実はそうではなく、それは自己も対等の友人関係であり、それなりのその友人に対する自負があるからこそ、対等に交際出来るのだから、それは自己の影響が及ぶ範囲であり、従ってそれは動詞化された形容詞である。「あいつ(彼、彼女)はいい奴なんだよ。」という謂いには明らかに未来においても自己の選択として、その友人との友好関係を維持したいという意志が内包されている。これは形容詞の使用様相においても一際関心事項である。その次にやはり思想的に否定的に捉える友人とか、敵対する人間への関係においては、自己のバソプレシンが放出されるような報酬欲求が、敵対者を意識し、自己正当化領域を維持せんと欲し、我々はこれを関心事項にする。どちらともつかない、しかもそれほど印象にない他者は必然的に最も無関心な領域に記憶においても関心においても追い遣られやがて記憶からも姿を消す。悪い人間ではないのだが、とりたてて素晴らしい所も皆無な人間においてはその種の無意識的な判定から忘却選択がなされるのである。
 芸術家は他者や社会が目に留めるような事物をモティーフにしたり、あるいは自己の芸術スタイルにしたりする。しかしその根底には自己にとっても関心を惹くモティーフや考え得る最良のスタイルでなければ決して作品等仕上げられるものではない。芸術とは神経生理学的なアルゴリズムの顕現、あるいは具現化作用である。それが物質によってなされるのなら美術となり、記号によってなされるのなら文学とかコピー、あるいは音や空気の振動であるなら音楽となる。その行為の結果が作品である。その作品は公共的な価値を帯びる。しかしそういった公共的な価値物を作者に形成させるものは自我の欲求であり、故に作品とは自我の表出欲求の対象化である。
 創造された観念(哲学、文学)も物質や形態(芸術<美術>、舞踊、舞踏)も音声(音楽)も、ある人間一般がその平均値的な範囲で(個人差は勿論あるであろうけれど)受け取り方において心地良かったり、多少の挑発を受け取ったりという発信と受信のシステムにおいて機能しているコミュニケーションである。そこには概念化された統一的な意味に加担して作る側も鑑賞する側も参加しているという事実が厳然とある。それは無関心の対象という側面、つまりどのような人間でも同じような反応を示すであろう部分を想定して創造され、鑑賞する側もそれを知っているのだ。関心領域とは明らかに個的な意味の世界において浮上するし、そこからその関心を共有するという意識が共同体内で他者との間で成立するか否かが共通理解を生じせしめる。しかし無関心領域とは形容すべき言辞がどのような個人においてもそう変わらないであろうようなものとして恒常的に日常に存在する。個的な意味の世界では形容はどのようなものであれただの言葉でしかなく、空虚である。しかしそれを他者にその個的意味を示そうとすると途端に統一化された意味や概念を武器にしながら、他者の理解を頼りに自己‐他者の連関の中で共通性を探り出そうとする。理解はだからあくまで統一された形容、統一された常套的な事物に対する反応への自己の側からの加担である。自己内の個的意味における了解さえ、他者であればこれこれこのように判断し、かつそれは自己においても納得するという自己と他者の隙間を埋めるような共通した理解システムを前提としている。カントが「判・批」で示した「他者も自己と同じようにこのことに関してはこのように反応するであろう」ような判断に基づいて理解そのものが成立している。自己内では確かに形容し得ないものをも形容しようとしながら、形容はそのような形で成立し得るであろうという判断によって個的意味→概念化された形容という順序を辿り、何らかの自己と自己以外の他者との共通性において個的意味を削ぎ落とし、共通意味へと転換させている。

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