Monday, October 5, 2009

C翻弄論 1哲学者の翻弄された歴史と欲求

 我々の人生が翻弄されていると感じるのは哲学的な思惟に赴く余裕のない、ただ決められた日常に埋没していると感じる瞬間である。近代以降の哲学者たちも実はそのような思いに囚われていた。彼等の残した膨大なテクストが我々の眼前に残っていることがそのことを証明している。
 カントはその理性論において批判哲学という体裁から権利問題としての理性の称揚を掲げたが、実は潜在的には彼自身殆ど明示していない自我の問題、他者の問題、共同体の問題が彼の心を捉えていたと思われる。彼自身「欲求」という言葉は殆ど使用していなかった。「実・批」と「判・批」において僅かに欲求能力という言葉が使用されているに過ぎない。しかしこの欲求能力という言葉の登場はカント以降の哲学に多大の影響を与えた。事実フォイエルバッハはしきりにこの欲求という言葉を使用した。彼は意志そのもの(このショーペンハウエルも使用した主要概念)を大きく左右させる欲求の正体を把握していた。
 私は実際彼等個々の存在から翻弄を感じることは難しい。しかし彼等の歴史的な流れの中に位置づけられる個人像を把握しようと試みると途端、運命のサディズムに対してマゾヒスティックに臨むより他はない彼等の運命を感じざるを得ない。
 学問に関して我々は往々にして、勤しむことをよしとしてきた。だから同一のテーマへの着目、熱中、没頭は「一貫した姿勢」と見做される。しかし学問においても翻弄というものは大いにある。翻弄の中で最も大きなものの幾つかをここにあげてみよう。神、普遍、真理、超越である。無を入れてもよい。これらの命題に対し、説明しろと言われると答えに窮する。それだけに我々は多くこの命題に延々と取り組んできた。しかしその事実こそ人間が不可知の命題に翻弄されていることの証拠である。だからと言って答えのなかなか見つからないものを問い詰めるのは止めよう、というのは正しいとは言えない。やはり真摯に受け止めなければならない。だが取り組み方によってはいつまでたっても堂々巡りから脱却出来ないこともある。翻弄されることの正体とは一体何なのか、つまり真剣に論議していながらも、陥るアポリアの正体さえ掴めれば存外早くそれらの概念を巡る探求にある一歩を示すことが出来る。
 先ほど哲学者が欲求という言葉に目覚めだしたのは、割合最近の歴史だと言った。欲求に関する探求に、人間の目を背けたい一面、それが逃れようもない本性なのだが、そういうものだからこそ、性悪説的な堂々巡りを避けたいために可能性として性善説的一面からのアプローチ、あるいは性善説、性悪説といった二元論を超えた領域から論じようという意志が、哲学者にも働いて、潜在的な心理に対する洞察を敢えて避けてきたと言える。しかし一方でこれらの問題は真意の問題、つまり人間の欲望や願望の問題なので、そうすげなくやり過ごせない、という思念が湧き上がり、哲学者もとうとうその領域に対する視線を固定化させたのだ。精神分析や心理学が採用してきた無意識に対する着目もその延長線上にある。無意識というのは一律ではなく、自分の真意を直視したくないために、敢えて無意識と規定するが、実は真意というものが明確である場合、行動や意志選択とは、欲求に意外と従順である場合が多い。ただその欲求自体に対し贖罪的な心理が働く場合、それを無意識と決め付けたい、そこに閉じ込めたいという願望が、それこそ無意識に働く。真意に贖罪意識を抱く場合、自己の立場を利用して欲求を正当化しているだけの場合も多い。だからこそ欲求というレヴェルの問題は意識と無意識の問題へと直結しており、無視出来ない問題なのだ。
 しかし欲求を対象化して論じだすと、一旦倫理的な命題は棚上げされることになる。つまり道徳とか道義とは無縁の心的なメカニズムの探求となり、形而下的な論究において、哲学自体が本来携えていた倫理上の問いは法学とか別個の分野の課題へと押しやられる。 
 欲求という問題を哲学的に解釈すると、真理さえ理想の世界のための現実からの要求となり、現実に根を張った探求の必要性が叫ばれるが、次は現実とは一戦を画す真理とは一体どうなったのか、という問題へと我々を再び直面させる。欲求と真理は実は表裏一体だ。
 そこで真理が欲求とどういう関係にあるかから考えよう。
 哲学者も自然科学者同様、その時代ごとに異なった社会状況や思想の渦の中で哲学への要請に応じて学的な展開を果たしてきた。そこで歴史的な自己に対する認識と、時代的な要請とは無縁な自己固有の(少なくとも彼等にとってそのように思われる)認識が共存しながら、一方で双方逆のベクトルによって乖離しつつ、統合しようと図り、苦悩する姿が彼等の残したテクストなのだ。自己の立たされた地点の認識は出発点であると同時に帰着点でもあった。その出発点から帰着点への流浪のプロセス自体が、彼等にとって自己固有であると思われた領域である。しかしその領域の使用や着目行為は(彼等のテクストの論理的な展開の仕方において応用された)彼等の自己選択だった。誰かから要請されてそういう仕方を選んだわけじゃない。選択そのものは自己の欲求という地点から出発している。自己欲求とはある時代、ある地域に生活する運命を引き受けた彼等自身の生の実存から引き出された、外部環境(人的、自然的の全て)からの反応である。哲学者がある論理展開のプロセスを通して顕現させる真理は、意味内容的世界(哲学者が真理を導き出すために客体的な対象に対して付与した真実)の意味作用であると同時に、そのプロセスを彼に選ばせ、それが独特だと彼等に思わせたやり方(論理実証的な法則性)とそれによって導き出された論理で形作られる内的な相関性と緊密な必然的な構造であろう。
 真理は、彼自身の論理構築に対する欲求という実存に対し、実現させたいと願う願望と彼自身の努力と、そこから必然的に導き出される思念的な論理必然性と、それが意味作用する我々自身へ与えられる論理的な自然さ、説得力ということに帰着する。すると意外と真理と欲求は、一見遠いものと思われがちだが宗教的に言えば、神と預言者(あるいは使徒)、簡単に言えば、目的と手段とも捉えられる。実際このように密接な関係にある筈の真理と欲求において一方を理想化し、一方を俗悪なものとして捉えてきた宗教的偽善自体が、論理的な思考プロセスにおいて絶対に必要な欲求を直視することを妨げ、にもかかわらず真理の虜になってゆく姿こそ最も哲学上我々を悩ますところの翻弄である。しかし真理が崇高な心的傾向性であるとすれば我々は宗教的な価値規範にも着目せざるを得ない。
 宗教信徒にとっての幸福感は、個人の幸福感と意味が違う。それは使命感に近い。しかしその感情は宗教信徒にのみ固有のものでもない。カントにとって個人的な幸福欲求と自由や善は必ずしも両立しない。フォイエルバッハはそのことに対し苦言を呈しているが、この幸福的な感情及び幸福につきものの快楽、喜び、悲しみを支えるものは一体何なのだろう?愛とは一体何なのだろう?そう問いかけても答えはすぐには見つからない。しかし愛や幸福を何かに結び付けるとしよう。例えば愛も幸福も神と結びつけると途端にその様相を変える。そのことに着目してみよう。
 自己の幸福は、ただ自己本位な快楽追求の果てにあるのではない。他者がいて、隣人がいるから社会があり、その秩序の中で我々は自己の幸福を追求する。だからと言って、自己の快楽とか幸福的な欲求を抑えつけることは不可能だし、嬉しい時に、嬉しい表情をし、楽しい時に楽しい表情をすることは自然なことであり、そういう欲求によって生活を楽しむことも理に適っている。それを抑えつけようとする理由は、自己本位な行動や精神的な堕落が横行している状況に対して予防線を張る自戒という要求があるからだ。ここで言う堕落とは拝金主義、性的快楽追求のための乱れた男女関係などである。宗教的な信仰心は堕落的な状況の中で信仰を持ち、腐敗に塗れることなく、正義感に沿って生をまっとうし、堕落に陥った人間に待っている罰を免れたいという欲求である。そこには堕落する生活は天罰が下るという発想がある。だから日頃から欲求を開放し過ぎないようにする節制が生じる。天国と地獄の発想はキリスト教ばかりではなく、他の多くの宗教に見られる。誰しもこのように二つしかないのであれば、天国を選択したいと望む。しかしそれは死して後に対する思念である。しかし実際上我々は死する瞬間までは生きて世俗の問題に直面しなければならない。そこから目を背けるわけにはゆかない。そういう意味では宗教テクストの多くに散見されるのは、現世に対する諸問題に言及しながら、死して楽園や浄土に到達することを究極の理想としながら現世での苦悩を乗り切ろうという究極の観念論とも言える。
 真理はこの乗り越え作業の過程で考え出されたものだと思う。
 乗り越えるということは、乗り越えるべき対象をよく観察し、乗り越える作業に要する自己内のエネルギーを熟知しなければならないが、宗教権力が絶大になるにつれ、乗り越えるべき対象は忘れ去られ、遂に乗り越えた先のものだけが、理想化され絶対的価値となった。それが哲学に隣接した宗教の歴史であると同時に、哲学自体を翻弄してきた歴史である。理想は現実的な渦中での弛まぬ努力によって一歩一歩接近出来る。しかし真理を達成した人間にとってそれまでの苦労であるとか、難点といったものはご破算にされる。既得権益者たちはそれまでに得た自分の地位や財産を当然のこととして有り難味を失う。そこでその達成点にまで至らない人間に対して、自然と冷淡な態度となる。そういった特権的な意識が結集されると、宗教的な権威を固定化させようとする集団が生じる可能性があり、事実そのような集いが多くの宗教的宗派を生じさせてきた。しかし彼等も元を辿れば、あらゆる困難に直面してきたのであり、真理達成途上の人間に対して一番理解がある筈なのに、なかなかそうはゆかないのが人間である。結果はそれを必然化する。
 真理はそこへと至るプロセスが極めて重要である。そのプロセスとは決して楽ではない。また論理的にも難解である。またそこに至るために泥沼的な反復作業が待ち構えており、それを回避しては真理へは至らない。真理は美しいものだという一致した想念があるが、それは事実多くの醜い事態に遭遇することなしには邂逅し得ない。人間が好結果を齎す時にも最悪の結果を齎す時にも、内的な欲求を抱くという現実に対する直視は見過ごせず、その直視は、論理的な堂々巡りに翻弄されることを余儀なくさせる。
 論理的な堂々巡りとは同語反復であり、類語反復であり、前進なき反復である。しかしこれも一概に全て空虚である、とも言い切れない。というのも反復でしかないように思われるが、実際少しずつではあるものの、推移している部分はあるし、反復回数によっておぼろげになってくる実像もあるからである。この論理的な反復の意味について次章では考えてみたい。

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