Saturday, October 24, 2009

D言語、行為、選択/10、ラング、共同体、コミュニケーション

 だからこうも言えよう。我々が個人の意味的受け取り方とは別個に概念(ソシュールのいうラングに近い。)を共同体内において有するのは、概念の統一性によって意味的分裂の間隙を最小限度に食い止めることである、と。それは概念という常套性の前で、個人間の分裂を最小限度の範囲ですますこと、これこそ大きな齟齬を回避する集団の知恵である。だから意味にまつわるような個性を発揮できる社会や共同体とは概念の分裂の少ないより安定した社会である。
個性とは個人的差異である。差異は前章でも述べた通り、同一であることを持って成立する。全く同一の要素を持たないもの同士を差異とは表現しない。それは無関係である。すると意味は多様である。私が今の今まで目にした林檎や林檎の色はあなたが今までに見たそれらと明らかに違う。しかし林檎は林檎だし、林檎の赤は林檎の赤である。それらは異なった特有のもの同士を繋げるある最大公約数である。私が目にしてきた林檎は多少傷んだものだったかも知れないし、またどれも奇形だったかも知れない。しかし同じ林檎の種に属するもので、明らかにあなたが目にした林檎の赤い色とも異なっているにもかかわらず、やはりそれらは特有であると同時に世間で赤いと言っている概念の赤いと同じ傾向を有するのである。意味は固有だが、概念は一般的なのである。概念は意味の最大公約数であり、一般的基準なのである。だからある男女の愛は固有で、特有であるが、他のすべての男女が愛を営むという意味において一般的である、とも言えるということである。概念が一般的なものとして意味の固有性を支えていない限り、我々はそれを通してある固有の男女の愛を表現しようがない。斎藤慶典も言っているように言語における実際上の事物や現象に対する表示は不在のものに対する想像力を伴った再現前化であるとすると、我々は言語を通して実際に目にできないものも表現できるし、私が言う「赤い林檎」はあなたがそれを聴いて想像する赤い林檎とは食い違っていても、やはり同じ「赤い林檎」という固有の林檎に対する明示という意味において、普遍的な概念なのである。そして「赤い林檎」から想像するものは概念としては我々が同一の言語共同体においてコミュニケーションを営んでいる限り同一だが、意味は受け取るコミュニケーションの一員は各個異なっていて固有である。その固有性は共通する概念の使用を伴って初めてコミュニケーションを生じさせることが出来る。意味の固有性とある概念を通した連想の固有性は同一の背景を持ち、その背景の違いがコミュニケーション自体のレゾン・デ・トルともなっている。そしてコミュニケーションとは積極的モティヴェーションを持って臨む時よりも、消極的モティヴェーション、つまり他者理解を100%望むような選択を持つことなく、寧ろ理解し合える部分がほんの少しだけでも見出せればそれでよい、という諦観と消極性的選択がスムーズな対話を産出する。自己保存欲動の緩衝領域に対する相互の尊重がそれをもたらすのである。
 関東人にとっての心太とは、辛子醤油につけて食し、青海苔や白胡麻、紫蘇などをかけて食すものだが、関西人にとっては餡蜜につけて食すものである。あるいは天麩羅は関東人にとってはメリケン粉にまぶして揚げた野菜のものを言うが、関西、南国人にとってはそれと、魚のすりみを揚げた関東で言う薩摩揚げのことも指す。概念は各成員が抱く固有の、地域的、一族的な意味の広範囲による最大公約数のことであり、それに合わせて意味が派生するのではない。例えば私は未だに見たことも食べたこともない有名な食べ物もある。だけどその概念は知っている。しかしその意味は知らないのである。私が言う意味はその概念がたまたま指し示す固有の状態、在り方、知覚体験に根差した知識のことである。猫を見たことがない幼児が大人の会話からたまたま猫という語彙を学習したとしても、それは猫の概念上の使用を知っているだけで、猫の意味はわからない。もっとも語彙は目にしたものから覚えてゆく傾向があるから、名詞、それも動物の名前などは幼児は恐らく見たものから順に覚えてゆくのであろう。(中学生くらいになると、抽象的概念、理想とかそれこそ概念とかの語彙も覚えるようになり、そうなると見たことのないものまで語彙で表現できるようになる。)だから意味は概念から先に覚えて言ったものほど、希薄となり、まず知覚体験が先行するものは豊穣な意味を有するようになる。しかし我々は言ったこともない外国について会話し、見たこともないものを平気で話題にする。そこからコミュニケーションの在り方は抽象的になってゆく。抽象的概念世界の言語(例えば本論を始め学術書一般はそうである。)と実際の知覚体験に根差した言語との相違がコミュニケーションにある信用度、信頼度、または親密度を生じさせるのだ。
 我々は言語活動において概念を必要不可欠のスキームとして利用しているが、本来自分自身の体験記憶であり、自己にとって固有の痕跡として意味を位置付けているのにもかかわらず、それを概念に奉仕させてもいる。というのもコミュニケーションにおいて我々は対他者性を第一のこととして望みもするからである。概念は本来は各自固有の意味を保有することはできない。にもかかわらず概念を理解するための方策として、敢えて我々は意味を位置づけようとさえする。こういったことから我々は新たなる局面に差し掛かることとなる。そこで我々は概念に対して意味に奉仕させようとするこの行為を、意味の概念への<仮託>と呼ぼう。
 我々はコミュニケーションという対他者性と<自己_他者>連関に身体と身体行為を加担している。身体行為としての言語活動は黙した表情であれ、発話であれ、エクリチュールであれ、すべてを一貫した何らかの伝達、何らかの意思表示、何らかの表現として身体行為の選択機能として身体を手段としながら、言語自体の能力を契機としながら、音声や客体的な表現媒介として顔を使い、あるときはメールの画面の体裁を通して他者へコンタクトをとるのであるが、その伝達形式と様相の選択には細心の注意を払いながらコミュニケーション・スキルを通してコミュニケーション自体の在り方を模索しながらそれ自体の能力を目的ともしながら対話し、自己の中に他者を、他者の中に自己を見出すのだ。
コミュニケーションは親密度の増加に従って、意味の概念への<仮託>という前提条件を取り払う。<仮託>が最小限度の形式になった時、意味は自己と他者の共有財産へと転化する。自己の意味と他者の意味は相互に連関し合い、新たな、例えば赤い林檎なら赤い林檎の相互の意味を生じ、更に赤いこと、林檎というものの敷衍された意味が一人歩きする。<仮託>は自己と他者の壁を取り敢えず設定する消極的コミュニケーションのスタートラインであり、寧ろその設定はじきに取り払ってゆくことを目的としているのである。<仮託>を設けることはコミュニケーションにおける他者への最低限の配慮であり、最低限の緩衝領域の保持の相互の暗黙の了解である。消極的スタートは繰り返すが、モティヴェーションの惰性ではない。あくまで我々が我々相互の関係を知るために設ける未来へ向けられた能動的選択なのである。それは積極的選択に潜む受動性に対する認識が生み出した免疫システムの持つ理念でもある。
 しかししばしばビジネス・コミュニケーションでは<仮託>はより強固な前提となり、意味の抑制、隠蔽はビジネス・マナーの表示のためのクロノメーターとなる。意味は信頼度の獲得を待って初めて示し得るものであり、それを通過しない内での意味表示は概念提示の持つ無難なコミュニケーション共有制を一気に崩壊させる危険性もある。
 フッサールは「論理学研究」で論理的枠組み、定立、規範、所謂基礎付けに主たるエネルギーを費やしているが、徐々にその主題を論理を通して、論理性そのものの限界(カントにはそういう面はない。ただ唯一神学的、宗教信仰的意見にのみそこから逸脱する部分が確認されるのみである。)を見据えだす。論理の限界は言語では概念から逸脱するもの、ここで言うところの、意味である。意味の豊穣とは具体的であると同時に、唯一的、根源的である。ビジネスは第一章でも言ったように、その存在自体が真意であり、その行為自体が生の実情を物語っている。コミュニケーションが他者性によってそのレゾン・ド・トルを保有しているとしたら概念の前提的一致は伝達意思による言語機能上の無意識の実践である面が大きく、言語自体は言語によって伝達される意味内容(シニフィエ)の社会機能実効性による慣習的生活維持に目的があり、親密度による対話自体の目的性を寧ろハレとして特殊化するケである。よって実効性から脱実効性へと至る過程は概念の実効的支配からの意味の開放と、ケからハレへと移行する深層意識の様相変換であり、我々をそこに大きく関与させるものとは、明らかに他者の真意の自己の側からの接近であると同時に、自己の真意の他者真意への重ね合わせである。というよりコミュニケーションそのものが自己と他者の意味の突き合わせ、つまり概念から出発して固有の意味への追体験、概念のとりこぼした具体的現実的多様と複雑さの再発見であるわけである。(原点回帰)
 意味とは事物、対象に対する自己の保有する関心(無関心なものは無意味なものである。)、とどのつまりは個人に対する存在の仕方なのだから、個人にとっては事物、対象への感情と言えよう。例えば結婚とは物理的に言えば配偶者との同居であるが、それは形式的な社会秩序でしかなく、たとえセックスが介入してもそこには結婚の概念しか見出せまい。しかし結婚とは本来は配偶者への愛の誓いであり信頼であり、配偶者へのただならぬ関心であり、感情である。結婚生活を営むこととは、社会倫理的(モラル)にも、責務としても、宗教学的倫理においても、それが言語共同体の範疇でなされる限り(国際結婚でも同じである。)言語的な行為の選択である。結婚も友情も、敵(必要なこともある。)との闘争でも皆すべて言語活動であり、他者の選択であり、他者との言語行為の選択である。だから他者と言語行為を通したコミュニケーションの時間を共有することとはとりもなおさず、その他者と共にある時間を共有する意思表示でもあるわけである。(愛は究極的言語行為である。)

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