Saturday, October 24, 2009

C翻弄論 7<以下省略>ゲーム、ギャンブル、スポーツ、ビジネス、アート、科学、宗教

 マスメディアによる例えばある政治家の政策論的傾向によって指示される人間性(行動によって表示されるもの)、あるいは政治的指導力の像は長く狩猟業務へと赴くオスが性欲抑制システムとしてメスと隔離生活を維持し、それを解除する為にメスの巨大な乳房を目にすることで性的繁殖行動を誘引するというメスの側の対オス進化が現代において同様な形で効果を発揮しているのだ、と捉えることも可能である。所謂政治家のパフォーマンスとはある意味では初期人類のメスの巨大化した乳房の効用にも等しい。それはビジネス上の雑事に忙殺されている外部社会環境の全体像に対して覚知的には抑制されているシステム解除の役割としてマスメディアの形成するイメージ、「実像」が機能しいているのだ、と捉えることが出来る。覚醒されること自体はよって悪いことではない。そこからが問題なのだ。どこからどこまでが実像で、どこからどこまでがマスメディアのドグマであるかどうかを見極めようという意識を介在させることが求められているのである。
 マスメディアの形成するイメージの受け取り方は刺激に対する反応であってはならないであろう。そこで選択という意志決定の行為選択がなされてゆく。これはメス(初期人類)と同様の事態である。ここに理性論の出番が来るのだ。忙しいとつい刺激に対する反応へと行動規範を安易に設定しがちである。そこから脱するにはどうしたらよいか?マスメディアの構成するイメージを性的信号性認識において誘引材料として意識的になり、無意識の行動を抑制するということでしかないだろう。
 刺激に対する反応でしかないような選択意志を理性論的に鍛えなおすことにおいて我々は言語的思考というものをもう一度認識しておく必要があるのだ。パブロフの犬状態からの自覚的な離脱がここで求められる。性的信号と同種のレヴェルの贔屓感情を醸しだすある種の映像イメージのカリスマ統治型政治へ批判的眼差しを向けることからまず始めなければならないであろう。その為には何を考慮に入れればよいのであろうか?
 ここで言語活動(言語行為ではない)の本質として共通理解への希求=場の成立ということが考えられる。言語活動とは言語行為のみならずビジネス、ギャンブル、アート、科学、ゲーム、スポーツ等全てのコミュニケーションを必要とする行為における人間学的な相貌の下で考えられた自己対他者、あるいは共同体の中の自己、自己の中の他者や共同体、自己と他者の融合、あるいは論理的な相関性である。それはある意味ではフロイト的な「自我」を産出する根拠でもあるし、西田が「当為」と名付けるものとも深く係わってくる。
 選挙も株の売買もギャンブルも言語行為も生活に直結している行為であるが、ただ手段なのではない。生の時間に手段的な時間はない。どんな瞬間でもそれは目的的な時間である。家庭は職場の目的であり、職場は家庭の目的であり、家族は友人や仕事仲間の目的であり、友人も仕事仲間も家族の目的である。それぞれは手段としても作用しながらもそれ自体が目的である。稼ぐだけの職業だと割り切っていてさえそこに楽しみやゲーム性、ギャンブル性、アート性、科学性を持ち込まなければ長くは続けられないであろう。全ての瞬間の人生で経験し得る時間は目的的であり、目的的行為のための場である。そしてそれはその都度独自のゲーム性を持っている。それこそが私が言う原初的な群集心理の名残である。
 言語行為において我々がそれとなく一々意識するでもなく交わす挨拶やお辞儀や返答や質問といったものは文化コード的な慣習性にも関係があるが、感情表出という一面もある。行為遂行的な表出とも言える。(その最も有効かつ原初的なものはお辞儀しようが、挨拶しようが、話しかけようがその時に他者へ示す表情であろう。ダーウィンの論文も有名である。「人および動物の表情について」)意思表示することはそれが大袈裟な宣言でなくても日々我々は何気なく実践している。そういった行為を内的に必然化しているからこそ我々は些細なことでも行為選択という決断をしているのだ。例えばそういった行為選択を必然化するような合理的な説明は無意識のレヴェルでは皆人間は理解している。しかしそれを即座に説明するのは多少時間が掛かる。それを説明しなければいけない場面が日常であるからこそ思惟に赴くことが必要となるのである。人間は最終的には先述したように全てを合理的に理解したくはない、例えば愛情や友情というものを合理的に説明したくはない。そこで非合理的な説明不能な要素を常に幾分かは残しておきたいものである。がそれでも尚全てを非合理的に認識しながら生きることが刹那的であるという考えも決して捨てはしない。そこでやはり何らかの根拠も必要である。そこで西田が言う法則という概念が必要になってくる。(「思索と体験」より)それはそれ以外でやるよりはそうやってやる方がより効果的に思われるし、それをやらないよりはやる方が理に叶っているという考えから従う経験則のようなものである。最も有用なる綜合的判断とも言えよう。我々は実は日々これを知らず知らずの内に利用しているのである。行為選択という価値規範として意識的に考えるものの大半は無意識に実践しているのだ。
 西田は知識(認識と言い換えてもよい。)と芸術、個々の言語行為などによる全体論的性格の調和を宗教に求めている。彼にとって宗教はただ単に信仰的な形式主義や儀礼性のものではない。恐らく彼にとって宗教とは生きてゆくための価値規範である。そういった価値規範は生活上の信条とか行為選択においては我々によって日々実践されている。しかし生きていくこと、つまり総体的な全生活を支える価値規範となると、我々はそうおいそれとは規定出来ない。あるいはもっと言えば避けたいと願う。そこで彼にとって宗教心を考えるということは神の存在そのものを知ることというよりは我に神を見るということである。それは生きる上での最高規範の獲得、真実のイデオロギー(政治的なものでは決してない。)の獲得を意味するのだ。選挙も株の売買もギャンブルもゲームも科学もアートも言語行為も、熱中するということ自体に宗教的ニュアンスを見出すのはそれほど困難なことではないであろう。デイトレーダーも各種格闘技家もアスリートたちも営業マンも皆この熱中という人生の目的的な時間の中で自己の熱中出来る対象に対して神を見るであろう。
 例えばある馬に対して馬券を買って競馬を観戦することは、テニスの試合でどちらかの選手サイドに立って応援しながら観るのと同じで、より熱中出来る。より興奮して観ることが出来る。興奮を味わうこととは心地よいことなのだ。ギャンブル性とは観客にとってはこういうところで表出する。我々はそれが金銭目的であれ、そうでないにせよどちらかが勝ち、どちらかが負けるということにおいて取り分けパートナーを必要とするゲームではスリルとサスペンスを求めているのだ。興奮を味わいたいのだ。酒を飲む時に一人で飲むのもいいがたまには友人や仕事仲間と飲むのもいいと思うのも言語行為で興奮して酒を飲むということが心地よい刺激となるからである。合理的に考えればあらゆるゲームやギャンブルはどちらかが負けるのだからやらない方がいいということとなる。それは可能性として考えれば敢えて好き好んで騙されることでもあるのだから。しかし心地よく騙されることを時として人間は欲するのである。どちらかが勝ち喜びどちらかが負けるのを解かっていてそれでも金銭を賭けるのがギャンブルである。金銭を賭けなければギャンブルとはあれほど興奮し、スリルを味わうことはないに違いない。スリルを味わう瞬間のエクスタシー獲得のために我々は時としてそのような不合理な行為選択をするのである。西田の言う宗教とはそういう非合理的な行為選択の可能性、合理的理由という根拠でのみ人生の目的性を規定させたくはない、という心理を形象化させたものである。
 人間は興奮すると心地よい気持ちになるが、興奮を味わいたいのは、それを抑制するよりは解放した方がよいと生理的にも合理的にも(生理的な欲求と合理的判断は両立する。というより生理的欲求を正当化する為に合理的理由が産出される。)そう判断して我々は何かをするのだ。絵を描くことに熱中することは画家にとってはスポーツであり、ゲームである。演奏家にとって楽器を奏でることはギャンブルでありスリルなのだ。詩人が言葉を紡ぎ出すことは彼の脳裏においては科学であり論理であり非論理の発見であり、宗教であり、ビジネスでもあるのだ。
 何かに熱中するとバソプレシンやオキシトシンが交互に脳内に放出される。興奮は高まり静まるから快感なのである。絶頂があり、やがて次の行為のために収束してゆくからこそその興奮には意味があるのである。興奮が鎮まる時には非常なる快感をもって迎えられる、そういう面があるからアスリートたちは、芸術家は、株式投機家は自己の向かうべき対象へと熱中するのである。
 そのように考えるなら、サピアの言うように「思考を表わす言語とは思考のある臨界点を表示しているに過ぎない」のだとしたら、行為を通して思考と意志の所在を知る我々はまさにいかに論理的たろうと、言語的思考や認識たろうと、それを支える連合等の一切のものは非言語的、非論理的、非倫理的な生理的な身体判断の如くのものである。ギャンブルの興奮は論理性には置き換えられないのであるが、ここでバタイユの言う<暴力性と美と価値が表裏一体であるようなデーモン>を見出すことが出来る。ワイルドを「罪の人」と言ったのは西田であるが彼は明らかにワイルドにも宗教を見出している。
 身体の側からするとその種の敢えて興奮するようなことを求めるデーモン的な傾向性そのものは、それ自体が目的でもあるが、そのことを糧に生に活力を与えるための手段としても考えられよう。全ての生の時間が目的なら全ての瞬間はそのための手段でもあるのだ。ただ単なる手段でないだけで、目的は同時に手段でもあり得る。
 しかしその行為の最中には目的であるどのような行為も没我的に熱中されるか志向的な意識を持たれるかであるが、事後的には次の出来事の側から見れば因果論的に原因とも目的遂行のための手段ともなり得る。つまり過去出来事の過去化による因果論的対象化である。
 しかし排泄行為が滞りなくなされることは身体的な健康という観点からはそれを確認出来る唯一のバロメーターである。排泄行為は目的的な時間という意味では充実しているが、ただ単に人間は生理的欲求を満たした時に味わうのと同様に、何か論理的に込み入ったものを解き解した時に快感を得るということもある。そういう経験を自ら求める。それは生理的欲求の充実とは全く異なった次元での快感である。でもそれはある意味では覚悟のいる体験であるからまず簡単な問いから解いてゆこうと思う。でも次第にその挑戦するレヴェルを向上させ、やがて極めつけであると思われる問題へと取り組む。それが解決し、理解し得た時にはえもいわれぬ快感に浸ることが出来ると人間は感じる。このような時の充実感や爽快感が西田をして当為を得たとか言わしめ、フッサールをして充実化(空虚化の対概念として)とか言わしめたのだ。
 人間は必要最低限の生理的欲求を満たすことが出来ないのならやはり問題があるが、人間はただ単に生理的欲求に感けていては決して楽しくはない。と言って始終困難と苦痛に身を窶すことも出来ない。
 人間とは本来存在者として自己を認識することの出来る可能性としての存在である。そこで実際に行為選択は大半が思惟と熟慮の結末として齎されるものではない。
 思惟と熟慮といった反省的な行為は寧ろ行為選択して何らかの結果が出されてから後になされるものではない。
 事後的に、<積極的に「こうした方がよい。」と思ったからこうしたのだ。>と言えるような行為選択はまさに思惟と熟慮と未来に対する可能性論を理性的に推論に推論を重ねた末になされることも瞬時になされることもあるであろうが、こうすれば悪い結果を齎すと思われる場合、自己正当化する悪意ある場合以外大概回避されるであろう。よって全行為を反省論的に検証してみると「こうすればよいからやった。」と思ってなす行為は、回避さるべき行為(それをすれば過失になる。)よりも数倍存在するであろうと思われるが、更にそれよりもっと多い「しても間違いはない、悪い結果を齎す心配はないからなす行為」(そう考えて思惟と熟慮の末にする行為ではなく瞬時に無意識にそう判断して、する行為)には取り囲まれているであろう。思惟と熟慮の後に「した方がいい。」と思われる行為とは、ある程度それを試みた場合そう容易く達成出来るものではない、ある程度かかなりのレヴェルで困難が付き纏う、だからまさに為そうとする前に躊躇と逡巡を多少、いや、ある場合にはかなり喚起する行為であると思われるからである。 
 だから一瞬にして「しても間違いはない、やった方がよい。」と思われる行為とは、だから理想の高い結果を齎すこともない代わりに、それをしようとして仮に失敗しても酷く落胆することもない(高い目標実現欲求を持ち挑戦して失敗すると落胆も大きい)か、あるいは容易に達成出来、かつそのことで有益であると思われるし、決して悪い結果をも齎すことはないと思われるような行為へと向かう一瞬のもので決心というまでもないもっと咄嗟の判断であろうと思われる。
 選挙もギャンブルも株の売買も会話も、それをしている時にはどんな政治家が当選するかとかどの馬が勝利するかとか、今持っている株がどのような上がり下がりをするかとか、あるいは今話している相手が次にはどんな話を返答してくるかとかといった関心に意識が集中しており、その意味では時間論的に言えば熱中という心理である。没我である。それは結果が未知数であるからこそ持つことの出来るスリルである。公共の利益、万馬券、利潤、情報交換といった個々の結果が出るまでのこのスリルを味わうためにのみこれらは実践されるのではないかというような見方さえ可能である。それらは行われること自体に目的性があるかの如くである。しかしそれらに一定の結果が示されればことは一変する。当否、利益、利潤の有無、情報獲得の有無。それらが一切の集中を打ち破り、それまで持っていた事の成り行きを見守る関心、意識の持続は一気に崩壊し、それらの時間が過去化され、それらの時間に持っていた心的な思惟内容は全て脆くも崩れ去り、関心を抱いていた以前の状態の全てが現在の結果を齎すこととなる原因となり、今の結果が良いものである限りでそれまでの時間の意識は手段という風に、現在の心的様相においては見做され、そうでなければそれらは不毛な取らぬ狸の皮算用であったことを知るだけである。
 メディアは追い撃ちをかける。ある期待された結果(それは予め民意の如く巧みにメディアの報道によって反復される。たった一回の失言があったとしよう。それは何回も繰り返し報道されることで一回しか発言していないことでも何回も発言している、あるいは日頃からそういう発言をしているような錯覚を我々に抱かせる。)が、ほれ見たことかとでも言わんばかりに必然的であるかのように報じられる。しかしその期待を裏切るとメディアはこぞって誰か国民的ヒーローが死去したかの如く通夜の席に列席したかのようにゲスト出演者やコメンテーターの意見を報じる。予定調和的なメディア戦略である。実はそういった期待通りであるとか期待はずれであるとかがあたかも民意であるかのように操作されているが、それはただ単にマスメディア自体が内部から捏造した世論にしか過ぎないのだ。
 「しても間違いはない。やった方がいい」行為はマスメディアに対する大衆の信頼に付け込んだマスメディアの捏造した世論によって巧みに誘導される。「そんなに重要な問題なのですか?連日メディアで取り上げるほどのことですか?それは視聴率と支持率を見越したマスメディアと政府与党の連動した策略ではないのですか?もっと重要な課題は山積しているのではないのですか?」という潜在的な意見は実は過半数の国民の民意であろうと思われるが、それは公には公表されないし、そうする民放もないし、公営放送とて同様である。
 事実は過去のものとなると過去化され、公のものとして教訓化され、行為自体の過去例として我々全成員にとっての歴史構成要因として位置付けられる。それは過去例として万人の記憶の書庫収納に一役買い、検索記録として位置付けられる。その影で多くの忘れられるべきではないのに忘れられる過去事実を隠蔽したまま。第一章で善行の意志決定のプロセスについて触れたが、現代の意志決定はメディアの猛威がメディアについてゆけない者に世論を強制し、共通関心事項としてその事例を知らない者を爪弾きにするような雰囲気を醸し出させる。それを取り上げることは政治家から経営者に至るまで共通した踏み絵の如く作用する。それは社会全体の共通認識となるのである。ある候補者を投票することはまさにこの踏み絵的な作用であり、それをしない成員は白い目で見られる、と勝手に多くの成員が想像し、そういう事態を回避するように踏み絵を踏まない成員にだけはならないように四面楚歌状態を得ないように憂慮すべきそういう事態を未然に回避するために「しても間違いはない。やった方がいい。」行為を率先して行動する。「いじめ」に合わないようにする意味でも。
 カントにとって神の存在は肯定するべきものでも否定するべきものでもなかった。にもかかわらず表立って神を否定することを積極的に回避したのがカントのそういうレヴェルでの基本的スタンスであった。時代的な意味合いもあったであろう。それはある意味では彼の哲学的な認識にとって重要なエポケー(この語彙自体を彼は使用してない。)としての対象であった。最高存在者と呼ばれるものに対しては不可知論的認識によって否定する性急さと傲慢さを嗜める。フッサールが意識自体をエポケーにすることの基礎にはカントがいる。自由意志というものの所在に対する認識もまたその不可知論的認識とエポケーとして捉えるべき対象とは何かということへの問いが促している。何を知り得ないかを知ることで何を知り得るかを知ることが出来るということである。しかし何を知り得ないかはやはり何を知り得るかからしか知り得ないのではなかろうか?それなしにいきなり何を知り得ないかという設問は提出されようがない。ここまでなら知り得るということをまず提出しなければならない。何かを問うということは、常に何ごとか過去の事例を手引きとして現在へと至る我々全体のいる位置を確認しながら、その位置をある種の結果として捉え、その結果へと至らしめることとなった原因や、今ある結果を出来事として捉えるなら、その出来事を出来事たらしめた行為を手段として、つまり現状を目的とした行為論的な認識で、我々のこれまで採ってきた態度や行為を現在ある結果(=出来事)という目的に照応させて考えるということである。
 ここで一つの結論が出た。それは、行為はそれ自体が目的であるが、それが何らかの成果や憂慮すべき事態を帰結させたと捉えられるなら、その行為がなされたことを現在を生きる我々(我々は既に過去とはまた異なった別の行為をしている最中であるが)に、過去の行為を現在の行為を目的とした手段として捉える、ということである。よって過去例における記録とは現在を未来へと橋渡しする為の便として過去行為を手段化することであり、記録と想起とは脳に記録されたものの検索行為であり、検索方法(どういう風に検索するかということ)によって導き出される過去事例における様相は異なってくるという事態を前提した現在とその状況の為の手段となる。

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