Monday, October 5, 2009

B名詞と動詞 3共同体において意志伝達するということ

 カリヨンが刻む時刻は共同体(それが地球規模だろうと一地方であろうと)が決めた一刻一刻の定義(この場合15分間隔の)である。それは時間の死を概念上は意味している。だがこの時刻は今日も、昨日も、恐らく明日も、突如何らかの衝撃を受けて地球が破滅でもしない限り延々と繰り返される概念であるが、今日(これを書いている6月1日の時点では)のもうすぐ午前5時になるが、その時は一回のものであり、唯一の瞬間、個別的な意味、2001年9月11日や1941年12月7(8)日とかのその時だけが表わす意味である。その重大な事件が起こったある時刻は、本当はいつものその時刻と同じ、ただのその時刻の概念を刻むに過ぎない筈であったがそうではなかった、しかしその前の同じ時刻も、次の日の同じ時刻もやはり、その時だけの意味がある。私の幼い頃食べた「赤い林檎」は私固有の体験であり、あなたのそれ(意味)と同じ(概念)である。名詞は我々を繋ぎ、動詞は我々を連れて行く。「あなた」という代名詞は既に「私」も「彼、彼女」も含んでいる。私とあなた以外に彼や彼女がいるからこそ、私は敢えてその中でもあなたを選んでいるのである。だから「あなた」はあなたと私を、私があなたに語りかけるその行為の中で結び付けるのだ。いつも私が仮に一時も離れずにあなたと行動を共にするなら「あなた」とは私はあなたには語りかけはしないだろう。それはあなたに関しても私に対して言えることである。私とあなたは他者であり、個別の身体を持っているのだから、一時も離れることがないということはありえないから、私はあなたと知り合いでしょっちゅう合っていても四六時中ではないからこそ、あなたと合っていない時あなたのことを思い浮かべることが出来る(想起)。私は殆んど私の手を思い浮かべはしない。その必要がない位にいつでも見られるのだから。夢に不思議と自分の体は明確には出て来ない。その必要が余りないからであろう。いつも私の視界を通した外界やら他者が覚醒中の私の視界のパースペクティヴの如く立ち現れる。夢は動詞的世界である。歪曲とか退行とか抑圧において名詞的な連想が作用することもあるけれど、それは前面には立たない(少なくとも印象の強さにおいては)。名詞的な現実(記号のような「あなた」の顔は既に「私」にとって周知のことだから、一々明確に映像的な記憶には覚醒後にまでは残らない。私は恐らく夢であなたが出てきたということのみを記憶の上で確認するだけである)として記憶されるだけだ。
 夢は実際の事物に対する知覚作用でも行為でもないのだから、言わば記憶像の整理の際に時々思い出されるように何らかの記憶像が現在の心的実相においてフラッシュバックするわけである。これは概念化された(つまり現在の自己にとって都合よく収納された記憶ということとなる)もの故、実体験自体が抽象された限りではかなり名詞的でもある。もしそこに動きがあっても、想像上の動きに対する観念のようなものかも知れない。実際の覚醒時における想像(反省や思惟にも伴われ得る)における過去の映像ともまた異なっているようである。
 名詞はあらゆる動きを伴った出来事を「出来事」と括ることの出来る一つの事実と認識する作用によって成立している。それは出来事の意味を定義したようなものである。これに対して動詞は事実化ではなく、動きの再生であり、出来事の機能の追想であり、再現、再現前化である。名詞は不在の対象(それが動きを伴った「出来事」であろうと、それを意味的に定義したものとして対象である)であるのに対し、動詞はあくまで、定義ではないし、想像上での体験である。不在の現象の再現前化作用としての動詞機能。真意にはこういったものが内在しているし、偽装には明らかに概念化、意味の定義化がある。取り繕った態度や嘘には、個別具体的に受肉されたような動詞の実体験性のエネルギーはなく、常套的一般化、何かしら実体を伴わない、机上の空論的な部分が残る。名指しとは社会的責務におけるやむを得ない履行、義務的事務性が備わっている。
 名詞がより定義的、概念明示的であるのに対し、動詞は志向的、追体験的であることから、他者に対する意志伝達において伝達内容の選択において我々はその特定の事実の陳述においてはその内容を余すところなく伝えようとする限りで我々は名詞も動詞も選択することは容易であろう。ある概念明示的なものを主語にして他者にまず了解させ、然る後それがどのような状態であったかを陳述するのである。そういった全く事実として出来事として存在したものとしての事後的な陳述でなくても、何か明確な意志を持っている場合、我々は期待や願望といったものをそこに重ね合わせることも出来る。そしてそれを伝えることは真意の表明であり、そこでは未来予持(フッサール用語)的な、将来像の映像的空想を持つ。勿論それを「私」があなたに伝える時「私」は「あなた」に「私」の希望する将来を理解し、共有することを無意識の内に強いている。それを願っているからこそ「私」は「あなた」に語ろうとする。そして「あなた」が「私」に「今は忙しいから別の機会にゆっくり話そう。」と言いでもしない限り、「私」の陳述する物事、出来事、願望そのいずれであっても「私」が「あなた」に何かを伝えようとすれば、「私」は「あなた」にその陳述が要求する具体的な映像(それが再現されたり、実現されたりした具体的な様相としての)を共有し理解することを欲している。

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