Sunday, October 11, 2009

B名詞と動詞 6、意味の表示と明示における伝達意志性

 何かを定義することは何かを限定することであり、何かを表現することが何かを増幅しようと欲する意欲の現われであることは言うまでもない。修飾することは定義の限定とはしかし全く違う。定義することの概念性と、修飾することとの意味性には、形式と内容位の違いがある。
 カントを宗教哲学者と定義することは、全く間違いとも言えないけれど、正しいとも言えない。カントの時代には村上陽一郎が指摘しているように、カントのような哲学者のみならず、自然科学系の多くの学者が、宗教倫理と一体化したスタンスを持っており、その意味ではカント一人を宗教哲学者と断ずるには性急な現実があった。カントにおいても宗教哲学者にさえ通じる倫理と論理はあった、としておくのが妥当な判断というものであろう。何かを定義することと、表現することとの違いはこの二者間に横たわっている。前者の定義はカテゴリー的判断であり、範疇化、分類化、名辞指示性である。それに対して、動詞的表現であるところの後者は指示ではなく、性格的特定であるし、叙述である。何か偉大なもの、それは自然でも人物でも環境でも、それを定義することをそう容易には許さず、何とか叙述することを我々は考えるだけである。
 では修飾的限定と定義的限定はどう違うのか?修飾的限定は特定であり、表現であり、観賞であるが、定義的限定は固定、他の一切の性格を無視した(意識的に排除さえした)指示内容の決定、不動点的評価、つまり判定であり、評定である。定義と修飾、つまり固定と排他的決定、不動点評価と、特定、表現、観賞という現在進行形の違いを端的に示しておこう。今ここに赤い林檎があるとする。この林檎が赤いと、誰もが見て感じることが出来る。知覚可能なものとしてこの今ここに我々がその存在を確認できるものとしての限定された(我々が今指示している)林檎の様態を記述することとして、「この林檎は赤い。」という文章が与えられる。しかし一方で「林檎は赤い。」と誰かが言ったとする。すると我々は今二つの言辞において、二つの真実、二つの異なった明示を確認することとなる。「この林檎は赤い。」とは紛れもなく、色々の林檎、赤かったり、黄色かったり、黄緑であったり、オレンジであったりするものの中でも、これは一際赤いという具体的形容となる。この、という代名詞は指示的である分、フッサール流に言えば、ノエシス的、つまり志向的、私たちとその林檎の間の空間的同定性と関係指示性に裏打ちされている。しかし「林檎は赤い。」だと、林檎一般が赤いものが多く、概して赤いものであるという定義であり、多をとり、少を排除して四捨五入して一般化した明示(一般論)である。たまたまそこにあった林檎は彼(女)の「(概して)林檎は赤い。」という論理を導くための方便でしかない。その謂いの為に我々にとって眼前の林檎を利用しているに過ぎない。しかし「この林檎は赤い。」は決して一般論ではなく、具体的意味の世界、今眼前のものに対する(あるいはそれを眼前にしている我々自身の状況性に対する)意味の表示である。するとこうなる。「林檎は赤い。」は黄色い林檎や黄緑の林檎を見慣れた者にとっては偏見か独断的判断にもなり得る。それに対して、「この林檎は赤い。」は、今目にしている林檎は赤い方だ、けれど他にも色々の色、例えば黄色や黄緑や橙とかがあり、それらを含めて皆林檎と我々は呼ぶが(種による分類、概念規定)その同じ林檎の中でもその特定された我々の眼前の林檎は明らかに赤い方だ、という相対的判断ということとになる(尤ももっと赤い林檎を一杯知っている者からはやはり無知な発言ということとになり得もするが)。この、その、あのといった代名詞は明らかに特定性、名詞でありながら使用されることによって名詞を限定的に修飾することで、精神的にはノエシス的であり、動詞的再現前化、体験叙述的であり、意味の世界の範疇である。言語は常にこの二つの様相の性格によってコミュニケーションの際に、その文章が伝えている明示性と同時に、その明示を執り行なっている人の対象に対する把握仕方、対象と我々がかかわっている状況、明示されたものの周辺の事情までも表現するわけである。ここに<意味伝達の外延性>なるものも確認出来る。
 「林檎は赤い。」が示すところのものは、大体において、林檎というものはそういうものである、という普遍的性質の言及であり、例えばそれは「林檎は丸い。」とか、「林檎には芯がある。」とかも考えられよう。しかし「この林檎は赤い。」は最近滅多に赤い林檎を見なくなったが、それにしてはこの林檎は赤いということを存外にほのめかしさえしているのである。それはこの言辞の話者なり記述者なりが、ある特定の状況<彼(女)を取り巻く>で確認することの出来る固有の林檎は話者、記述者にとってのコミュニケーション・パートナーとの関係にとって欠くべからざるコミュニケーションのための道具であり、この、という指定こそ名詞的な作用を持つ指示詞である。指示性とは表示性とは異なる。なぜなら指示とは一方向的であり、表示とは読んで字の如く示しはするが放射状であるのであり、肉付けされた多様な具象性がある。つまり表示性とは指示性であるところの一義的な様相を多様な現実感で彩ることであり、概念でもあるところの林檎を固有の状況性へと誘引するわけであり、個別的なものであるという表示自体は林檎に実存を提供するわけだから、我々はそれを意味の世界、動詞的再現前化の世界の一部であると言ってよい。「人間は賢い。」と「この人間は賢い。」とかも同様の論理が成立する。言語は代名詞的指定(この、その、あの、といったものは臨場性を生む。)、指示と形容的叙述が具体性を帯びれば帯びるほど、特定の事物に対する限定性と対象記述的固定性が生じるから余りにも似たものが多い場合(林檎箱にひしめきあっているとかの)にはそれは有効であるが、話者も聴者も、記述者も、あるいは読者も共通の理解(述定している状況に対する)があれば、あるいはツーと言えばカーというコミュニケーション上の理解があれば(人間的信頼の度が強ければ)省略出来るのである。「あれ取って。」「もう一つの奴取って。」というのはそれが略されたからといって具体性がないかと言えばそうではない。それらはそう言うだけで相互に了解される極めて具体的で固有のものの意味の世界である(概念であっても共有される重複的意味<指示性の多重化であり、表示性への鳥羽口である>が多ければ概念より意味の世界である)。学者や技術者同士の専門用語(概念の意味化)の省略形(相互共通理解と仲間意識)とか業界的隠語(前に同じ)などもその内に入る。
 「この林檎」とは話者と聴者がほぼ同じ位置からそれを見ている、という状況においてのみ、あるいは仮想現実を示し合わせて歓談している際にのみ成立する。しかし「その林檎」となると、話者が何か林檎について語るその文脈的説明のあと、いよいよ件の林檎について再び言辞を持つ時、代名詞的表現として「その林檎」と省略する、説明はなされたのだから、もう具体的説明など端折ってよいのだ、という場合における表示(意志伝達においてはそうだが、形式的には指示である)である。これは共通理解、了解事項である。「あの林檎」はほぼ同位置から両者で眺める現在知覚に関する時か、思い出、しかも両者共有の思い出を語る時に語られる再現前化言辞である。この、その、あの等は話者の情報と聴者の情報にずれがある時は「その」を多く使い(話者のみの情報及び体験)、両者に共通の過去体験について語る時「あの」が多く使用され(遠くの林檎を指していることを除き)、「この」は共通の現在知覚としての話題について多く使用される<日本語では形容詞だが、所謂美しいとかの形容詞とは異なり、明らかに代名詞的用法である。これ、それ、あれの応用として>。 
 「この林檎は赤い。」と語る時その謂いに対して、パートナーはこれ以外の多くの林檎は赤いのもあるけれど、黄色いのや、黄緑や色とりどりであることを話者は承知なのだな、ということの話者の同意要求に対して同意表明する時だけ、「そうだね。」と返すわけであり、場合によっては「そうかな。もっと赤いのもあるよ。」となるかも知れない(その林檎がさほど話者の言うほどは赤くない場合と、他の林檎も多くは赤く、赤いことが珍しくない場合は「そうかな。」が返されよう)。既知の事実認識が双方で食い違えば同意表明は反故にされ、異論を唱えることとなる。ともあれ、一つの文章を話者が聴者へ送る時、発話の場合とりわけ、既成事実を前提とした感慨を言辞することの中で、感慨の正当性に対する同意要求と確認(真偽性の)を促す意味もあり、まさに文章のシニフィエはそのシニフィエを語り、聴く両者の周辺における状況性(相互の人間関係も含んでいる)をも含んでおり、語ることがまさに語らない、語らずに済ますことも内包しているのであるので、これを<文章シニフィエの内包的機能>と呼ぼう(これをシニフィアンとしないところに意味がある)。
 文章は、意味作用(シニフィアン)的には外延的価値を、意味内容(シニフィエ)的には内包的価値を一つの文章の構造自体に保有していることとなる。前者は話者、記述者の文章提示状況と密接であり、後者はその文章自体の状況如何と関わりなく組み込まれており、論理的に分析し得るものである。一つの文章とは、このシニフィエ的には多義的で内包的機能を発揮しながら、話者という行為者が介在することで敷衍されて、話者と聴者の状況をも大きく包み込み、そのような二面性においてその二つのベクトルが表裏の関係をもって存在している。言語は構造上自立しているかの如き様相(シニフィエ)を呈していながら、その実、話者と聴者の両方の状況的関係性をも要求するような、つまりその文章を理解してくれる受信者を要求する(シニフィアン、つまり発信者の一方的な述懐を許さない)不安定なものとしてしか機能し得ないということである。<言語道具論>
 この二面性は明らかに言語が客観的論理に彩られた自己充足態のようでいて、発信者が必ず受信する他者の理解を必然的に要求(言語行為)することなしには成立しない脆弱さを体現しており、それは言語がコミュニケーションの道具であるという宿命的な事実から来ている。「この」という特定形容によって、それがない時状態の意味をがらりと変えることは、言語とはある限定的条件付けによってその様相を変えられる、恣意性を有しており、文章構造上の意味が決して固定的なものではない、ということも示している。それは一つの概念や語彙の意味もまた固定的なものではない、ということも可能性として示している。通常我々は一つの語彙の意味を概念として考える。しかしあるコミュニケーションが信頼度を増してゆけば、必然的に概念が意味化し、一つの事柄に対して敷衍された外延性が生じ、共通の意味(他のコミュニケーションでは成立しないような唯一的な)が生じる。例えばこういう例を挙げて見よう。
「寝る」という動詞を組み入れた文章を考えてみよう。過去形表現を3つ考えてみよう。

①「私はその時寝た。」

②「私はいつものようにナイターを見終わってから寝た。」

③「皆が寝た頃起きて仕事をする。」

この3つの表現における「寝た」という叙述は微妙に異なっている。①はある特殊状況、少なくとも話者が指定したある瞬間における行為であり、具体的動勢、つまり意味の世界である。②はある特定された時間に関する言辞であるが、「いつものように」という副詞句がいつもの日常と変わらないことを明示しており、その限りで半概念、半意味の世界である。③は日常の習慣の言辞であるので、話者にとっては意味であっても言語伝達においては概念の世界での出来事である。このように前後する文章の内容や語順、挿入される語句や語彙によって全く様相を異にするような恣意性はある語彙の語られる内容と状況によって一律ではない、という性格を表わしている。この場合動詞が例証されているが、基本的な動詞の性格、個別具体的動勢の表示と再現前化と追体験性があるのは厳密には①だけであり、②はどっちつかず(語る相手に対して既知のことと未知のことを織り交ぜて語る)、③は明らかに社会的常識(社会通念的カテゴリーにおける)の言辞であり、動詞本来の性格は動詞句となっていることからも概念的、一般論的言辞を構成するような作用を担っている。では次に動詞、続いて名詞の特質をよく我々に教えてくれる例を幾つかあげて考察してみたい。
 「止まる」という動詞を考えてみると、「電車が止まった」は、外で電車が止まった場合と、電車に乗ってそう言っているのとではまるで違う。前者が外から見る動きの停止を表わしているのに対し、後者は自分たちの身体上の状態、自分たちを乗せた物体の停止である。それは前者が観察であり、後者が体験であるということである。それは「行った」というのでも、自分が「行った」のと、彼が「行った」のとではまるで違うのと同じである。前者は自らの動きを、後者は何らかの別れ、あるいは第三者との距離が遠ざかること(観察)を表わしている。勿論それが過去の出来事の陳述である場合、その第三者(彼、彼女)の出来事を話題にしているが、日本にいて今アメリカにいる友人のことを話している場合、明らかに「我々」から遠ざかって行ったことを表示している。だから体験ということとなると勿論、「酒を飲んだ」も自分のことと、第三者とでは違うし、一人称と三人称という意味では全ての動詞に当て嵌まる。しかし「止まる」と「行く」ではまた微妙に一般的な動詞とも異なっている。それが方向指示性であることは明白である。もう少し詳しく分析してみよう。
 外で見ている電車は止まった、と言うのと中で乗っている電車が止まった、と言うのとでは、動詞そのものが話者から聴者へと伝えられることで発生する意味を変えるのだ。表現している「話者から聴者への伝達形式の性質」が異なっている。
 自分も一人の乗客として隣に一緒に乗っている知人にそう言うのは「体験の共有」であり、後日知人にその時の自分しか知らない体験について語るのなら、「体験の披露」である。外で電車が止まるのを見ていたことを「電車が止まった」と言うのは先述のように「観察事実の報告」であり、その意味では自分が彼と一緒にいて、その後彼が帰ったのを見送ったのなら、「彼は行った」もまた、「観察事実の報告」であり、事後報告的言辞である。「私は行った」とか乗っていた「電車が止まった」とは体験的移動と停止の報告である(「電車が止まった」は後日報告とする。一緒に乗っていた知人にその時言うと、過去共有体験の確認になる)。そしてもしその止まった電車についての陳述が「私」と「あなた」とが一緒に居合わせているのなら観察事実の相互確認となる。あるいはそれが過去に対する叙述であるなら、その場合には「あの時電車がとまったよね。」という風にニュアンス表現が付帯することも多いだろう(英語だとThen the train stopped ,didn't it?となる。)
 体験的移動及び停止の報告は聴者に対して再現前化において、自身も同じ体験をしているような映像を連想、想像させる。しかし「球を投げた」となると身体から遠ざかって行くので、明らかに観察事実の報告になるし、聴者にもその場面を想像させるも、この場合聴者に話者が知覚したように球が遠ざかってゆく情景が目に浮かぶとは限らない。ただ単に球をある人が投げた情景が全景的(映画で左右に球を投げる人とそれを受け取る人とが対称的に映し出されること)なランドスケープとして想像されているかも知れない。これに対して「あの時僕が投げた球が遠ざかって行った。」とすると聴者もまたそのように話者の立場になって遠ざかる球を想像出来る。
 ともあれ、ここで問われるのは観察事実の報告が空間を基軸にしているの対し、体験的移動及び停止の報告は話者の身体を基軸にしているのにもかかわらず、聴者もまた自らの身体を共有体験させるかの如く自身で連想させるのである(だから船酔いしやすい人が船酔いした話を聞くとそれだけで船酔いした時の自己の体験を想起して気持ち悪くなることもある)。「酒を飲んだ」は明らかに移動体験ではなく、味覚体験なので、聴者は酒の味を連想するわけである(酒を飲んだことがなくはない限りで)。それは連想でもただの視覚とも違ってかなり連想の切実さを伴う。もし大分長い間断酒している人がそれを聞いたらそれだけで酒を飲んだ時のおいしい味覚の想起によって涎が垂れたりする。つまり赤い林檎も、それを一杯食べ過ぎた後ででもない限り涎が垂れるような食べた時を連想させはするものの、日常的であるが、林檎の断食というのは聞いたことがない。常習性とそこからの脱皮をしばしばきたすような酒の好きな人にとって「酒を飲んだ」という他者からの報告では「自分も飲みたい」ということとなる(尤も林檎も喉が渇いていれば食べたくなるが)。性的な事柄の目的にも身体的連想を呼び起こすものが多い(体験的連想)。
 状態動詞を見てみよう。「変わる」を見よう。「彼は変わった」というのは普通に成り立つが、「私は変わった」というのはどこかおかしい。なぜなら変わるか変わらないかは第三者の客観的視点により判断されるものであり、仮に「私は自分を変えた」と言っても、それは第三者から判断されるべき問題であり(他者から見れば元のままかも知れない)、人間が自己の判断も他者性を抜きには出来ないということを表わしている。「私変わった?」は成り立つが、「私は変わった」というのは少しおかしい。しかし「私の考えは変わった」となれば、これは矛盾していない。自分の考えは自分にとっても客観的対象であるからだ。だから「私は最近変わったって言われる。」というのは何の矛盾もない。
 してみると状態動詞は第三者からの対象的事物に対する観察性をその基本としており、「衰える」等もまた「私の身体が」なのであって、「私は衰えた」というのもちょっとおかしい(仮に「私は衰えた」といっても何か例えば「身体が」とか「その考え」とかが前文脈に示されていて今はが省略されているのである)。ところが「太った」なら状態動詞「太る」なのに、そうおかしくない。「私は太った」というのも成り立つ。これは主観的なものではなく、数値的に明らかに示されるし、それを自分でも確認出来るからである(つまり客観的なデータ<それが実際に体重計で量らなくても自分ではっきりと判るから>だからである)。 
 まとめよう。「電車が止まった」というのは、外を歩いていて、近くを通る電車が止まったのを見て、あるいは電車が背後か、どこか(視界からは遠ざけられていて)で止まったのを聞いて(ブレーキの音か何かで察せられるので)判断したことであるのに対し、自分がそれに乗っている時に「電車が止まった」と言うのは、電車と自分の位置的な移動は一致しているので、この場合電車の移動の停止の叙述はそのまま、自分の移動の停止の叙述に等しい。だから当然のことながら、その語調、微妙なアクセントその他全てにおいて、外を歩いていてそう言うのと差異がある筈である。仮に外の景色が止まったのを見て、客観的にそう判断している場合さえ、自らの身体的移動の停止という主観的知覚において判断して、そう言っているのだから、ただ外的事物や聴覚的事実においてそう言っているのとは異なった音声的表示(感情的な声色)となっていると思われる。
 つまり意味を伝達するということは、それを他者へ理解させたいという欲求的な意志の表示であるから、陳述の際にはその内容に関しては明示(はっきりと示すこと、つまり断定的に言い伝えること)意図を表示することとなり、その事態を聴者は他者(話者)からの確定的な表示意思と受け取る。

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