Friday, October 9, 2009

D言語、行為、選択/5、習慣と行為の選択圧、言語

 行為の選択圧が意味を基盤とするなら意味は各個人で少しずつその様相を異にしているということとなる。「赤い」はどの個人でも同じように赤く感じられるものを赤い、と形容する(慣習)から「赤い」と言っているのであるが、その赤い感覚は実は個人間でも差異がある。体験性(環境要因)と個人の性格(遺伝要因)<その赤い色が快か不快かは微妙に個人差がある。>の二種の決定因によって我々は独自の赤い感覚を各自身につけているのであるが、それを社会で語彙として使用する際はどのような個人でも普遍的に赤いということはこういうことだ、と判断し得るような基準、規範といってもよいものに自己を合わせ、そういった社会機能維持の慣習に身を委ね、逆に社会からの恩恵を享受すべく、社会や共同体の成員として加担しているのである。だから寒いときにオーバーを着込むような判断を誘引するような、重装備かそれ程でなくてもよいかの判断は個人の体験と先験的耐性(雪国の出身者でも寒さに強い人とそうでもない人の差はある筈である。)、つまり遺伝要因があると思われる。だから南国出身者を祖先に持つ北国の住人の方が遺伝的には先祖代々北国に暮らす人々よりも寒さには弱い、という確率があるかも知れない。(しかしそうなると遺伝要因と環境要因の差が見え難くなる、とも言えるが)
 何を語り、何を黙するかは、何を赤く感じるかということとどういう関係があるのだろうか?何かを赤く感じるかという網膜上の知覚能力は何を赤くは感じないかという知覚能力と裏表の関係であることは言うまでもない。またそれとは別個の、ある個人にとっての赤という色の意味は牛肉工場での肉の赤身であったり、別の個人にとっては庭に咲く薔薇の色であったり、林檎の色であったりするという環境要因的なものもその網膜的判断に影響を与える。だがそういう個人差を超えて我々は誰しもが赤とはこういう色だと感じるであろうという目算において規範を構築して生活している。勿論その規範は徐々に変化している。例えば年配の世代の人ほど日本では「数人」の人数が多く(5~7人)、若い世代の人ほどそのイメージする人数は少ない(3~5人)という結果が以前出されたことがあった。しかしそれでさえ6人も7人もの違いにまでは発展すまい。つまり大きな隔たりをなるべく構成しないで済まそうとする暗黙の内の同意が各成員の間に張り巡らされ我々はそのネットの中で生活するわけだから、初対面の人にどれだけ心を許すべきかは、各個人によってそれが都会出身者であるか、農村や漁村、あるいは山間奥地の出身者かによっての多少の違いはあっても、もの凄く大きい落差である、とも言い切れないが、それでいてそのちょっとした差が結構日頃の人間関係の感情的な面に影響を及ぼしてもいる。初対面の人間をどれだけ信用するかはその出身地の風土に影響されている面も大きい。勿論遺伝的な性格や家訓(これは遺伝的と環境的の両方が考えられる。)がのしかかっている、ということもあり得る。初対面の人に真意を伝える配分量をどれくらいに設定するべきかの常識(これも規範的なステレオタイプと遺伝的性格要因とがある)は個人差があり、それは赤いという概念が個人、民族性によって異なるのと全く同じ事情ではなかろうか?色の場合おめでたい色とか不吉な色とかは民族ごとに少しずつ違う。しかしそれは色の概念に対する社会歴史的文化規範概念にしか過ぎず、個人の中でのその色に対する感情(それが感覚から記憶へ、更にそれを行動へと直結させるものである。)こそがオーバーを着込むかそうでないかを決する。すると寒いとオーバーを着込むべきだという寒さの意味(ステレオタイプ的判断力、つまり習慣。これをもって、オーバーを着込むと、後でそれ程寒くはなかったと言って、オーバーを脱ぐものである。)と、寒いけどこれ位ならマフラー一個を巻き付けるだけで済まそうという、ある温度に対する意味とは微妙に異なっているが、寒さとか暑さとかに対する感度(生理的レヴェル)と、それに対してどう感じるか(寒いのが好きな個人も、暑いのが好きな個人もある。またその温度に対する耐性の個人差も存在する。暑い方が好きだが、寒いのも我慢できる、という個人もいる筈だから)という、この部分は主観的感覚であり同時にそのことへの感情でもあるが、その双方が微妙に絡まり合って決定されている。しかしこの決定を生理的と心理的という風には分けることは出来ない。生理的に好きだったり、我慢が出来るものは心理的にも好きで我慢が出来るのだ。ここにおいて西田理論の程度の差というような一元論的解釈が再び効力を発揮する。現代の生化学では心理的な嗜好性さえ、DNAレヴェルで要因を特定できるようになった。けれど大きな事故にあってその乗り物に怖くて乗れなくなった、事故の時と似たような情景をたとえテレビのニュースであっても、それに接するとフラッシュバックを持つというようなことはあくまで外的な環境要因である。そしてこの場合に似たような情景を語彙や視覚イメージからも日頃からなるべく避けていたいという無意識の判断も言語的判断である(こういった情景を目や耳にする→あの時の記憶が呼び覚まされる→そのことでそのことでその日の業務に差し支える)<観念連合、連想>という論理的展開を一瞬の内に想定するわけなのだから)。その先はそういった心がけ自体にこだわってフラッシュバックしやすいか、そうでもないか(嫌なことを忘れやすい性向)は個人差が出てこよう。それもまた遺伝的差異と環境論的習慣の差異が考えられるが、その際には遺伝的要因(楽観的か悲観的かというような)の方が強いかも知れない(専門家諸氏のご意見を伺いたい)。
 ここで一つの結論を出そう。寒いからオーバーを着込もう、という判断は<習慣的な判断>で、その行動は寒さに関する生理的、心理的反応(それを一括りに感情と呼ぼう。)によって導かれるのだから、寒い場合はオーバーを着込むべきだという<意味>は感情によって支えられていることとなる。またこの物体とか現象を赤いと判断する、それは誰が見ても赤いと判断するであろうという目算でそう形容しているわけだから、そう判断する社会や民族、言語共同体の成員としての意識として<慣習的な判断>を履行しているわけだから、我々はそのような時もその物体や現象を赤いもの(こと)だと判断することは、実は成員秩序における妥当性としての感情によって意味を設定していることとなり、いずれにせよ、我々は意味を感情から引き出していることとなる。
 心理学主義、とりわけ数学的秩序と異なっているとして哲学の考察方法をカントを初めとする哲学者たちが躍起となって見出してきた近代的自我なる産物も、裏を返せば寒い時の心理(こんなに寒くなるならもっと厚着して来ればよかった、というような)が、実際寒い時の生理的反応と無縁には成立しようがない、という当たり前の事実をもう一度考え直すべき時が来ている、と私たちに物語っている、とも言える。心理的な面での内観によると我々はややもすると経験論的な環境刺激に対するその時その時の感情と理解するがそれが、どれだけ遺伝的体質によるものか、周りに北国の冬を今まで経験したことのない南国出身の人々ばかりがいて、共に過ごす初めての北国の冬であるために、周りの皆がマフラーを買い込んだから自分もそうするのか、という社会環境的要因であるのかは、つまり、どこからどこまでが遺伝で、どこからどこまでが外的要因かは難しい。しかも内的心理も自己固有の遺伝的特質なのか、それとも誰もが抱く感情なのかも区別は容易にはつかない。病気になったとする。それは仕事で無理をしたからだ、と判断してもそれがあのような仕事量だったら誰もが自分にように病気になる筈だ、と判断するか、さもなくばあの程度の無理だったらもっと若い頃なら病気になどならなかった、やはり年をとったせいだ、と判断するか、自分はああいう仕事の無理に対しては、他の同世代の人々よりも先天的に体力がないのだから、これからは気をつけようと判断するかはその都度異なっているだろうが、常にその判断が正しいとはなかなか見分けがつかないものである。そこで本論では心理と生理を必要以上に峻別せず、かといって行動主義的に判断することもなく、言語(論理や認識もこの範疇に入る)、意味、感情、意志、選択、行為、といった概念を主軸に据えて論じてゆこうと思う。
 ただこれだけは言っておかなければならない。心理と生理の区別は難しいが、理性と生理の区別ははっきりさせておかねばならない。西田は「認識論における純理論派の主張について」(「思索と体験」に収録17ページより)で、<「かくある」ということから「かくあらねばならぬ」という規範を立てることはできぬ。>と語っているが、これは明らかに、自然法則的ロジックと倫理とは別個のものである、という論理である。つまり彼は理性という言葉こそあまり使わないがカントが言うような意味での理性的判断を否定しているわけではない、ということである。例えばここに愛し合う男女がいるとする。しかしいくら努力しても子供には恵まれない、という現実に直面し、夫の精子に問題があるか、何らかの生理学的な相性の問題があり、愛してはいないが別の健康な男性の精子を人工授精するとか、あるいは別の健康な女性の卵子を提供して貰うか、別の健康な女性の子宮を代理母として提供して貰うかという決断に踏み切る場合、精子と卵子とか子宮といった器質的相性の問題と実際に人生を共にして愛し合い生きてゆくということとは全く別個の問題である。かつ女性がレイプされた場合、相手を愛していないから妊娠しない、ということもない。自然現象的メカニズムにおける性の相性は、確かに「かくある」であるが、それと愛し合う異性の子供を生むべきであるという生命倫理「かくあらねばならぬ」とは一致しない。レイプされても堕胎を認めないような宗教倫理があるとすればそれは筆者には容認できない。もし生理的レヴェルの真実が理性倫理と一致しなければならないとしたら、我々は全く別種の社会を想定せねばならない。

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