Wednesday, October 7, 2009

D言語、行為、選択/4、社会型暴力、あるいは無意識の形成

 だから消極的因子こそが例えば社会型暴力(報道型暴力を含む)を醸成しもする。というのも社会型暴力は古くは村八分で見られたが、今日でも何らかの特定の社会秩序的禁止事項が増大し、知らず知らずにその制裁措置が社会的な見せしめ、公開処刑的機能を獲得する。特に何をやりたいかが明確でない個人の意識の集合によって何をやりたいかが何をやるべきかのみによって構成され(何かを積極的にやりたいということのない場合の人間の心理は何かをせねばという切迫した余裕のない義務的心理になってゆく。)、徐々にそれが何をやるべきでないか、何をやってはいけないか、という禁止事項を必要以上に増大させ、その点において全てが決定されてゆくある種の惰性的モティヴェーションの恒常的支配をもたらすのだ。それがただ暇をもてあました独身者の休日のように「じゃあ音楽でも聴くか」であるなら害はない。しかし社会的責務に駆り立てられた、実際は自らの能力の発揮場所の見出せない個人の無意識の集合が果たす一致協力体制はややもすると罪のそれ程大きくない個人を生贄の対象として選択するという暴挙へとも繋がる。それは自信喪失(どういうかたちで社会に貢献すべきかの方策の見出せないことによる)が逆に社会的責務の情を極端なかたちで増殖させるわけである。そして寧ろ積極的に積極的なスタンスの人間を槍玉に上げ生贄の対象として選択してゆく。それが所謂独裁者や黒幕的実力者を排斥するような機能として発揮された場合は社会を危機から救うが、ややもすると罪のない個人を集団の無意識が必要以上に槍玉に上げ社会的制裁の対象者として選ぶのだ。つまり我々は常に社会的制裁の被制裁者を探索しているし、そういう動物的個我(トルストイ)の生存戦略的攻撃性の所有者であることを忘れてはいけない。それは特に何をというような積極的意志の欠如がもたらす社会的責務の無意識の増殖がもたらす一面が極めて強い。では我々はそのような心理状態、消極的モティヴェーションにおいてどのような言語活動を実践しているかを見極めてゆこう。
 社会が無意識のうちに槍玉にあげるべく生贄を探索していることは個人の中に内在する責任転嫁や自己責任回避のシステムがもたらしている側面は強いが、それが集団において結束すると一面では脅威であるが、個人の生存戦略においてはこれは非難すべき行状ではない。積極的モティヴェーションを誇示する人間は、往々にして他者に対して自己の価値観を押し付けがちである。そういう個人は日常生活において努力して積み重ねたリズムを一瞬にして崩壊させるような脅威になり得るからである。そういう個人を極力避けることは極自然な防衛本能的戦略である。外面的な積極性(何をやりたいか、何を言いたいかを明確に誇示できるような)は往々にして実際は消極的モティヴェーションの裏返しの行動である場合が多い。だからそういう内実は微弱な個人が、あるいはそういう様相に陥りがちな親しい人間関係で他者がコミュニケーションにおいて自己防衛領域に不躾に踏み込んでくることを未然に防ぎ、また他者に対してもよりその種のプライヴァシーを侵害することのない個人は集団間では生贄を探索したりはしない。集団間で生贄を探索する個人とは個人間での無自覚な真意吐露(安易な告白)、他者の秘密やプライヴァシーの詮索に熱中する、なあなあな人間関係に常習的に埋没していがちなものである。そういうことは所謂甘えの構造が友情であると穿違えた個人によって実践されることが多い。どんなしっかりとした個人であってもある種の孤独に苛まれると、なあなあの人間関係に陥る場合もある。しかしそういう甘えに一旦陥ると、自己が容易に他者に干渉する習慣と引き換えに、自己の領域に安易に他者を闖入させがちなものだから(間違った寛大さを身につける)、そういう癖が交際上でつくと、本来は持っていた筈の、しかし今は果たされぬ自己防衛力(自己と他者に距離を置くこと)が集団間で発揮され、所謂日頃の欲求不満が集団の中で捌け口を求め集団の無意識を構成し、やがて付和雷同を生じさせ、その結果、群集心理で生贄を探索しだす。一旦生贄を求めるとそれが常習性を帯び、自己の責任の重さをけろっと忘れ極端な自己回避と責任転嫁システムが結束して、独裁国家容認やらテロリズムへの安易な賞賛を生み出すような軽薄な民族自決主義を産出する。
 無意識の衝動に身を委ねるような惰性は個人にも、そういった個人の集合した集団にも常に潜んでいる。それは言語活動を主たる方策とした人間の不可抗力的一面でもあるが、そういった微弱的性向がカントを先験的理念や実践理性を巡って論理展開させ、道徳的法則や自由が定言命法であると捉えさせたとも言える。だが人間はコミュニケーション、それを自己と他者との間で取り交わされるものとして認識しての話だが、それに向かう時にのみ言語的思考を働かせているわけではない。自分一人で行動する際も全く同じように言語的思考を働かせている。先に語った寒い感覚の場合を考えてみよう。寒いからオーバーを着込むことにしよう、と瞬間的に決断させるものが、寒い感覚の記憶であり、その記憶を統制するものは皮膚記憶であろう。しかしその皮膚記憶からオーバーを着込む行為へと直結させるものこそ、言語的思考であろう。言語的記憶は皮膚記憶やエピソード記憶ともまた異なっている。それは論理的な思考能力の習得であり、エピソード記憶が生じるよりも先に身につける臨界期の本能的習得であり、一旦身につけばそれなりの修正を施しながらもあくまで一生現在的な実用性へと置き換わる。だから言語的に判断することは習慣的なものであり、それをどうやって身に着けたかは一々思い出す必要のないものである。ともあれ、寒いという皮膚感覚は寒い時の習慣的行動を咄嗟に記憶像から引き出しつつ、オーバーを着込むという行動へと転換させるが、この皮膚感覚の<寒い>を寒い時に取るべき行動に関する習慣的行動に関する記憶(言語に次ぐ現在的日常性を持っている)像へと結びつけるものこそ、「寒い」という概念、勿論それは言語活動によって保障されたものであるが、つまり意味なのである。「寒い」ということは、そのまま何も薄着のまま着込まなければ風邪を引いてしまうという、経験的な認識であり同時に極めて論理的な日常的必須記憶事項であるが、それは習慣的行動に関する記憶を補強し、オーバーを着込むことを誘引するのである。つまり<寒い>をオーバーを着込む行為へと駆り立てるものこそ、「寒い」という概念であり、これが<寒い>をオーバーを着込む習慣的行動の記憶へと結びつけるのである。だから意味とはあるニューロンが別のニューロンへと信号を伝える際に放出される分子であるか、それが伝えられることを許すシナプス間隙に近い役割であることがわかる。この現在の感覚→感覚記憶(身体体験記憶)→(意味)→(行動)といった経緯がある種の階層構造を生じさせ、例えばコミュニケーションの際に何を伝え、何を伝えずに済ますか、何を表明し何を隠蔽するかとまで言わなくても何を秘密のままにしておくか、という決断、行為の選択にもまた選択圧があり、その選択圧は意味を基盤とするのである。寒いという感覚にも個人差があり、寒さに強い個人にとってそれ程の重装備の必要性は、長期記憶にはデータ保存されておらず、逆に寒さに極度に弱い個人にとっては絶対的必要事項として長期記憶にデータ保存されている。何を伝え、何を黙するかも個人や集団によっても、もっとも個人差以上に強い集団差というものはある種の幻想ではないか、と筆者は考えているのであるが、兎に角差というものはある。それは個人間に選択圧のかかる状況的差異があるということである。それは先験的能力(DNAレヴェルの)だけではない、環境要因的、つまり育ちの部分とも言えるし、逆に環境要因の差異を超えた先験的能力、つまり生まれの部分とも言える。この遺伝(本能、生まれ)か環境(学習、育ち)か、という問題へと突入するとそれだけで一生を費やすような研究テーマともなり得るので、それは極概略的に押えておき、本論では何を遺伝的なレヴェルで選択し、何を環境的レヴェルで選択し、行動しているのか、ここでは特にコミュニケーションにおける真意性と偽装性を中心にしながら考えてみよう。(遺伝はある家族の環境を形成するし、また環境は獲得的遺伝形質を育むという面もあるから、<日本人とヨーロッパ人は生活環境も違うし、DNAレヴェルでもいろいろの相違がある。>遺伝と環境と二つに分けることにも問題がある。しかしそういう風に対立要因的に認識すること自体は意味がある。)

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