Saturday, October 3, 2009

D言語、行為、選択/2、身体感覚的感情の反射的言語誘発

 救援を要請する言語活動(「助けて!」)はもとより、言語的思考は身体の平静維持のための緊急避難的な措置を講じるための意志を支え(それは感情レヴェルとも一体のものである。)その意志によって更に活性化する。身体的苦痛に苛まれているときでさえ少しでも苦痛を軽減しようと体を動かしたり神経を最も苦痛を感じる部分から少しでも逸らそうと神経を別の部位に集中しようとしたりすることも言語的思考性に支えられているように思われる。確かにそれは言語論理的ではないかも知れないが、反射的な身体論理的と言えばよいような身体機能維持のために払われる最も合理的な所作を伴った殆んど無意識の行為である。寒い日外を歩いている時肩をすくめ頭を胸の方に縮込めて歩く身体的行動の身体論理的決定性も「寒い」という言語的感覚、「暖を取りたい」という言語的感情が咄嗟にそういう身体行為へと赴かせるのである。その際に大脳による温度の認知(経験的データに伴うこれも極めて言語的判断である。)と生存戦略的無意識の本能によって身体をなるべく縮込める(寒い外気があたる面積を少しでも少なくしようという工夫)のである。
 言語的認識によって理解される論理的可能性は可能条件であり、現実の中から抽出された一般論から導き出されたものであるのにもかかわらず、自然界はその通りには機能してもいなければ、我々の与り知らぬ多くの謎に包まれている。だが可能条件という論理的枠組み、論理的無矛盾性はあくまで現実より広範囲に設定し得る、簡単に言えば想像も含めればあらゆる可能性は考えられる、ということである。この現実を超えた(突飛な発想をも含む)広範囲の可能条件の設定可能性と現実の自然界に対する我々自身の不可知領域の絶対的広大さは言語と現実の齟齬を嫌が上でも我々に突き付ける。言語は現実とは益々離れてそれ自体の秩序に従って驀進してゆくようになるし、自然界の現実はますます我々自身の知識の限界を見せ付ける。これは親の心子知らずの謂いも引き出せるような絶大な齟齬である。赤いものを「赤い」と断じる概念化はだから赤いもの全ての認知によるものではなく、人がそれを赤いとするものが、あらゆる赤いものの中のほんの一部であるにもかかわらず、そのほんの一部から全体を想定し、取り敢えず全て「赤い」としておこうという言語能力の限界を知った上での措置でしかない、すべての未知のものさえおしこめてゆく惰性的判断によって成立している。本当は我々の知らない「赤い」物はあるのかもしれないし(そう考えるのも言語の勝手な暴走かもしれないが)、その未知の赤い物体に接したら、我々は赤い、という概念の変更を迫られるかも知れない。「赤」という名詞は赤いと言う形容的概念の明示的不動点希求の結果示された措置であり、全く我々の与り知らぬ赤に我々が出会ってしまうと、寧ろ我々は「赤」と呼ぶことの限界を知り、別の形容詞や別の名詞を名指すかも知れない。「赤い」があって「赤」が作られ、「赤」は「赤い」を象徴する意味となり、言語機能上の事情と社会機能における流通性において「赤」は意味化された概念として一人歩きし、すべての人が赤いと感じるもの(他の生物には別の見え方も存在するから)が人間の側の事情から「赤」と見做される。
人が何か赤いものを見た時それを「赤い」と判断するのはその色が一般に社会では赤として通用するであろう、という目算からであり、もっとも赤くもあり、黄色くもあるような色、オレンジをはじめとする色はオレンジと言う言い方以外では、赤と黄とではそのどちらを使うかは、個人差あるいは地域的慣習、国民性、民族性など色々あるであろうが、少なくともそれがその人の住む社会と時代的常識とに左右される部分も大きい。だがこれだけは確かだが、我々はどんな色であれ、それが始めて接する色でさえ、それを今まで見た何らかの色に似ているということから何かの既知の色にあてはめてそう呼ぶ、ということである。我々が目にしたことのない物質があれば、その色も初めて接する色である筈である。しかしそういう時でさえ我々は「なんかこう赤っぽい銀色みたいな色」とか形容するのである。
 しかしどのような場合でもそういう何らかの物体と出会い、その色を「~だ。」と形容することは少なくとも他の誰が見てもそう思う、そう見えるだろうと言う目算に従って判断している、ということである。そこにはその色を自己の判断で「~だ。」と形容させるような共同体(言語、地域、民族、国家)の慣習があり、それに沿って判断しているのであり、断じて自らの裁量ではない。その証拠にどういう色か一言で形容できない場合はさきほどの「なんかこう赤っぽい銀色みたいな色」となるわけで、そう形容しながら自分が知らない(専門家でない限り色の名前はそう多くはあるまいから)色、あるいは自分でも一回も見たことのない色なら他の人間も(少なくとも同じような年齢、職種、特殊な物質を扱っている科学者のような人間でない限り)恐らくそうだろうから何とかその色について他者へ伝えたいと欲するわけである。そして色の形容をある色の名前、形容詞でも名詞でもそれらを使用して表現する時、我々は形容するという決断、行為の選択を実践しているのだ。ある意味では一つの色が赤か橙か黄かは主観に属する。それを伝えるのがプロの画家同士ならカーマインとかヴァーミリオンとかスカーレットレイキだとかカドミウムイエローオレンジとか言えばよいだろう。しかし実際はそうは言えない。すると何か自分の知っている色で最も近い色を選択し更にそれを他の何らかの形容と結びつけて表現して伝えたいという行為の選択を一瞬にして行っているのである。我々は将来への不安を前章でも詳しく述べたとおりに常に携えて生きている。だが不安を解消させる最も有効な手段は何らかの行為に没頭することである。行為の没頭がなければ(思惟もまた行為の一つだが、反省的意識が強いとやはり不安は生じる。)不安は常に頭をもたげる。そこで行為の選択、それはあくまで内面的のものではなく身体実践的なものであるが、それを行い不安を解消し未来を夢想するのではなく、未来へ歩むのである。色が何色かははっきりわからなければ、取り敢えず知っている色を告げ、相手が色の専門家でもない限り(そうだったら教えてもらえばいい。)、その自分の知っている色を取り敢えず告げて少しでも自分の見た色の実像を伝えようと試みる。こうして一瞬形容に迷うという逡巡を示すが、すぐに自己の迷いを払拭するために行為へと移る。躊躇や逡巡は脳内に対して度が過ぎると悪影響をもたらす。それを回避するためにも行為はその都度その場にふさわしいものとして選択されてゆく。

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