Thursday, October 1, 2009

C 翻弄論 序節

 現代はメディアを通して情報を摂取し、そこから得た知識をもととした人格が社会で求められる。しかしそれは現代に始まったことではない。人間が古代より意思疎通を行っていた頃から既にそういった社会と個の関係の方向付けは決定されていたと思う。
 しかし個は言語獲得という事実からして脆弱であり、哲学者もまたその脆弱さ故に、個、主体、自我といった概念の探求へと躍起になってきた。本論では哲学史、現代社会諸現象の考察、メディア論等を中心に人間が自らの傾向性「合わせる」と「知的快楽主義」と筆者が措定する二つの性質に翻弄される社会的、反社会的存在者として規定して、人間の生き方について考えることを読者に提言しながら、考察に誘引されるように目論まれている。
 現代社会のメディア、ビジネス、政治の諸相は実は、人類の言語獲得と他性認識、自我と欲求が必然的に形成する権力の行使とその享受によって古代からその方向性と傾向は決定されていたことの結果なのではないだろうか?
 政治は個人の代理感情によって、文化は個と集団のかかわり合いから、一方で他と集団に「合わせる」ことを通し、他方では個独自の思念の自由(内面の思考の自由)、つまり本論で概念規定するところの「知的快楽主義」を通して、ヒーロー、アンチ・ヒーロー志向型社会行動、反社会的行動を常に両輪として形成されてきた。
 哲学の概念思考方法は、今日、ビジネス、科学、文化、宗教、政治等によって顕現されている社会現象を粒さに検証することによって、その意義を見出されるべきものではないだろうか?
 今日に固有の社会現象は寧ろ私たち人類の初期段階から私たちの祖先が望んだ通りの展開を示してきたと考えるとすると、個が脆弱だからこそ、社会機能維持と、個人性確保の両面から我々が「理性」というものを価値論的権利問題として論じてきたのだ。第7章で語られる洞察を軸に、人間関係、社会階層、性、仕事、学問、文化、都市、政治、宗教について一つ一つ検証してゆくのが本論の主旨である。 第1章から第6章までは、哲学史的認識と社会の諸問題を哲学的(時に心理学的、精神分析的)に捉えるとどうなるかという考察、第7章は本論の具体的論説の主部として生物学的例証を伴った性的快楽とその抑制快楽(理性)を両輪とした初期人類の社会発生論的な人類学的思考実験と近現代哲学、思想と宗教人類学、民俗学、言語学的考察を個々のケースを例証しながら試みた。

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