Saturday, October 17, 2009

A言語のメカニズム 9、制度、受容、選択、サヴァイヴァルサイン

 ここで権威と制度的現実に対する受容のシステムについて考えてみよう。
 権威とか制度的現実に対してある程度の認識を所有するようになると、今度はその価値観に対する倫理的な信念の不動点を持つようになる。すると今度はそれに抗うすべての反価値的事物、人物、概念、思想を排除しようと努める。しかしそれを一々応対していては身が持たないから、対応や対峙する事自体を回避するようになる。というのも言うまでもなく、対峙し拒否することが多大のエネルギー・ロスに繋がるからである。我々は常に巧妙に反信念的事項への対峙を回避することで結果的にはそれらを拒否しながら、拒否そのものに費やされるエネルギーのロスを未然に回避しているのだ。だから我々はア・ポステリオリな受容を最も日常で多く持つが、それは結局拒否機会自体を回避している、という事情によるわけである。拒否機会は多くなればなるほど、積極的行動を差し控える時間を増し、論理的思考に費やされる時間を減じる。(論理的思考はスムーズな行動を促進されればそれだけ時間的な剰余として多くなるが、反信念的事項を拒否する時間が多くなり、積極的に行動することを多く阻止されれば、行動実現の促進のためのエネルギー<拒否回避の機会を持とうとして>を蓄積させることにかまけ自己を思惟に埋没させる余裕が減じる。)そこで我々は「君子危うきに近寄らず」という教訓に忠実に受容を最も多く持てるように工夫しながら生の時間を配分するわけである。レヴィナス的に言えば生の経済である。
 自らの判断で受容するものは権威や制度的現実と一致している場合もあれば、齟齬をきたす場合もあろう。しかしそれがある権威や制度的現実に照応させて得た納得いく価値観であれば、どのような形であろうとも(時には極度に反権威、反権力、反制度規定である場合もあり得る。)邁進してゆかざるを得ない。その際反権威的性格が強ければ強いほど(強度に比例して)拒否回避を巧妙化させる。寧ろ反権威的姿勢が少なくて済む場合は、拒否することに対して積極的に開示させる、つまり拒否真意を露呈させてもそうデメリットはない。しかし制度的現実や権威が全く自己の信念、信条と相容れぬ場合、デメリットを避ける為に拒否する必要の少ない状況を求めて逃亡することも余儀なくさせる。(ナチズム台頭時のユダヤ系民族の行動のように)言語がその際果たす役割とは一体どういう性格を持つのであろうか?次はそのことについて考えてみよう。
 言語のメカニズムは大脳のメカニズムと行動のメカニズムの両方から考察する必要がある。大脳に関する問題はある一定の知識を要するので、とりあえず後回しにして(後日掲載予定の創造と理解、参照)、まず行動のメカニズムの方から考えてみよう。
 行動に費やされるエネルギーは出来る限り拒否を少なくし、受容を多くするように心掛けることでスムーズに運び、論理的思考、思惟に費やされる時間を保有することが出来る。拒否はどうしても必要となる時にのみ履行し、日頃は出来るだけ避け、また受容も極自然にし得るような状況を日頃から設定しておくことが行動における場の第一条件である。ある行動を選択することはある言語的決定をもってなされる。言語的決定は随意的な運動とも関係があるが、無意識的な身体運動でさえ、根底には「今日は仕事頑張るぞ。」とか「今日は休日だ。ゆっくりと静養しよう。」とかの決意によって育まれる。そういった言語的決定が身体運動や思考回路のエネルギー転換を促進する。その決意を育むものは何であろうか?恐らくそれは過去の創造に費やされるエネルギーの巧妙な顕現如何によるであろう。「昨日はかなり仕事が捗った。だから今日は今までの反省も兼ねて急いでやるよりもゆっくり慎重にやり、また明日の仕事へと備えよう。」そのように、明日の行為への決意はなされる。言語は行為の決定において、絶えず過去の自己像を顕在化し、過去実績を援用し未来像の確立のために必要と思われる行為の論理的意味を検証しながら、より容易にそれを実現させる方途において語彙(主に動詞による)選択を履行させる。行動に対する決定は語彙選択によって成立している。
 数学の演算は如何に迅速にしかも合理的説明が可能なように正確な解を得るためになされるのであり、迅速かつ合理的で正確であるためにはあらゆる堂々巡りを回避し、手間を省くということが心掛けられる。それは明日の行動に対する決意における語彙選択にも、行為の決断にも両方に要する。以前に巧くゆくと思って履行してはみたものの、結果的には芳しくなかった場合、もっと別の巧妙な戦略はないか、という行為選択とそれに伴う語彙選択がなされる。前の行為選択の失敗がその行為の動詞と関わる名詞を避け、別の行為の動詞、対象たる名詞を選択さしむる。動詞のカテゴリー、名詞のカテゴリーがその都度照会され、我々はその都度最良の選択を心掛ける。以前のケースで失敗した場合は照会時間は長引き、躊躇も逡巡も増すが、最良の手間を省く行為を実現させる為には多少の選択時間の猶予は止むを得まい、と思う。動詞や名詞のカテゴリーもまた失敗によって少しづつその内容を修正されてゆく。以前には記憶の深層にしまい込んでいた動詞や名詞が失敗のケース毎に奥から引っ張り出される、というわけである。行為の選択は語彙の選択によって検証されるが、その語彙選択を促進させるものは過去の自己行動に関するデータである。それは成功例、失敗例を含んだ現実の行為の記憶と、その記憶に対するア・ポステリオリな意味づけである。意味づけは論理的な思考(手間を省けたことに関するメリットについての)と倫理的思考(あの時はああいう風にやったが、本来ならばもっと手間をかけるべきであった)という一見相反するような二つの思考が考えられるが、恐らくこれも不必要な手間自体は省くべきだが、必要な手間は積極的にかけるべきであり、それを省くとかえってあとあと手間を要するので、じっくりと施行すべきと判断するのであり(人間関係においてもそれは言える。)結局同じフィールドの思考回路による決定である、と言えよう。
 手間をかけることを避けるか否かや、わざわざ進んで手間をかけるか否かということは利己的な欲求が優先するか、利他的な欲求が優先するかの行為選択によって決まる。言語の歴史をちょっと考えてみよう。あるヒトの集団において共通の言語が発生するということは、恐らく単独行動において敵(捕食者)から逃れる方法を自分一人だけで考えなければならない、という孤独な選択がしばしば不意打ちを食らうことを招き、それを予防するために同一種同士での結束の必要性が生じ、敵の到来を他者(同一種内の)に知らせることで共同体全体の敵からの防衛を戦略として成立させながら、「敵、来る」というようなそういう非常事態にのみ使用される緊急言語サインがじきに一人歩きし、緊急時以外の平静時においても言語行為がある共同体の平静秩序が生じたのちには営まれるようになり、その瞬間から(敵)とか(来る)とかが常に一体化されることによってのみ伝達されていた言語行為のサヴァイヴァル的意味<文脈的にのみ使用されること>から、「敵」、「来る」が一個の独立した語彙となる。その語彙が緊急サインの文脈でのみ「意味」を有していたことから、意味性から離脱した会話自体が目的化された言語行為の、平静時における発生において、「敵」、「来る」という一個一個の語彙が別個で独立した事項となるに至って(つまり「語る意味」<敵が来たことを知らせるような、目的性を有した>から自立し、意味もなく語ることが多くなるにつれて)概念化される。どのような意味においてもそれぞれの概念はその文脈毎の恣意性にのみ左右されながら徐々に名詞、動詞という概念として、語彙そのものが定着されてゆく。言語行為の意味依拠的なサヴァイヴァル性が対意味独立性によって概念化された語彙が誕生する。それら語彙は単独の、この場合では緊急時のサインという特殊文脈から独立し、非常時以外の平静時における脱意味的言語行為においても何ら支障なく使用せられるに至って概念使用と、語彙の意味の恣意性が誕生していった、というわけである。寧ろ言語に付随する倫理的な問題はその瞬間から自己と他者、共同体内における自己の責任、負担、義務、成員秩序、共同体利益の授受、集団意識への加担といった現実が生じ、概念使用がその共同体の成員としての権利と義務となり、脱意味化した言語行為が、やがて成員間のコミュニケーションというかたちで、非常時に備えつつも、非常時以外の時間でも常に他者と相互に真意を確認し合う場として概念使用を通した言語行為(会話、対話)が定着してゆく。
 感情表現はこの概念使用を通した成員間の会話、対話によって徐々に定着し、そこからニュアンス表現が発達していったのであろう。可能条件表示、仮定法などもニュアンス表現と平行して発達していったのではなかろうか?というのも「かも知れない」とか「だといいね」とかの曖昧な表現は、話者が断定、明示を避けることから生じている。これは責任回避や不確定的未来事象に対する言明回避である。「敵、来る」→「敵が来た」は、本来その役割以前にそういう絶対的緊急性が産んだメッセージであったが、その見張りの役割という責任分担と責務的感情を共同体に生じさせると、今度はその責務からの開放をヒトは要求するようになる。いやいやながら引き受けざるを得なかった見張り番は成員としての義務上敵が到来しそうだという事態を一応報告するが、きちんと敵の姿を視覚的に捉えたわけでもない場合、大分長い間彼らが姿を見せていなかったので、一応非常時に備えておくべきではないか、と提言しているわけだが、必ず来るとも限らないから、「そろそろ来るかも知れないよ。」と暈し表現するわけである。サヴァイヴァル的な伝達事項とは感情表現ではない。ミニマルなサインなのだ。それに対し感情表現とは感情を伝達出来るくらいには余裕があり、平静時の文化的行為なのである。ニュアンス表現もまたそういう文化的行為、つまり暗示する、暗喩的表示、隠喩的言辞、仄めかす行為はおしなべて「ある余裕が前提とされた」平静時の感情表現であり、ニュアンス表現(感情表現)である。
 複雑な感情とは寧ろ概念の定着が呼び起こした現象である、とも言える。非常時のサインとは個人の感情であるよりも集団、共同体内での共同体運営のための意志伝達行為であり、現代社会でのルティン・ワーク的役所表現形式的社交辞令とかに近い。これらは真意伝達の行為以前の社会機能維持のためのサインでしかない。しかし個人の感情の表現はサヴァイヴァルサインのみが大半であった初期言語では表現しようのない、概念的思考能力、言ってみれば論理的思考、それに付随して不可避的に生じる倫理的命題を含有した言語体系によって誘引された行為である筈だ。言語自体がある伝達事項の受け渡しにのみ奉仕するような道具であることを離れて、一つの文化体系として自立することに伴って、個人の意識は目覚め、やがて感情表現が自己表現と化すのである。だから個人の感情とは概念の定着によって生じるというわけである。概念の定着とは語彙の意味の恣意性の常套化である。ある語彙は別の語彙との並びでのみその文脈内での固有の意味を発生させる。言語体系の自立がやがて感情自体を複雑化させる。感情の階層性も生じ、感情の質も多様化する。言語は我々の感情自体を誘引する巨大なる機構となる。
 故にこそ、その機構化した言語からの離脱を感情は試み、新たな概念を次から次へと構築しだす。感情は一旦作られ既成事実化した概念の常套性にのみ依拠することを潔しとせず、次から次へと概念を構築し、テクストもその都度新たなる概念に対するマニフェストと化し、編纂され続けるのである。最初使用されていた概念は、その内全く異なった意味を派生させ、その頃には最初の言語活動がどういうものであったか、記憶している成員もいなければ、そういう事項すら顧みられなくなってくる。言語の歴史、とりわけ人類学的視点でそれが顧みられるようになってきたのは極最近のことである。文化体系としての言語がそれ自体の歴史的重みと共に既成の秩序、とりわけ法的呪縛力を持つようになって以来、言語は文化的であるどころか、自身で文化を規制する装置となっていたのだ。大脳の思考そのものが規制的事実たる言語というもう一つの自然によって常に相互に作用し合いながら、大脳が言語を育み、言語が大脳を刺激し続けるという関係の中で我々は生の時間を過ごすのだ。
 言語的限界を知り(そのことも言語を通して自覚するのだが)そこから逸脱する幾多の事項を承知で、しかし文化とは実は言語的営みのことである、ということに思い当たると我々は言語的、言語行為的、語彙慣用的なものとして文化の本質が言語行為における概念化にある、と知る。言葉では言い表せない、と言葉で表現する以外のいかなる実践行為も知らない我々は言語外的逸脱価値すらもが実は言語的思考の賜物である、と知る。会話、対話自体の文化であり、文化的コードである。そのコード化された記号の世界で我々は世界そのものを言語的営みによって理解していることにも気付く。数学的思考は目まぐるしく変転し、流転する世界の事象すべてを大脳内において記憶すべきものを選択しながら、事象の在り方を「在り方」として整理することの中で交わされることであり、我々を我々として成立させ、取り囲むこの多様なものを「世界の事象の集合」である、と理解することである。その最短距離の視点を獲得することが演算的行為である。言語活動において語彙選択することは明らかに伝達における最短距離の選択なのである。
 数学が世界の写像における真理値希求を目的とした言語であるなら、我々の日常言語は世界の理解、それも数学的な真理値以外の数値逸脱価値的倫理値、つまり他者との交流における自己存在理由の希求を目的とした言語である、とも一面では定義出来よう。社会活動への自発的参画こそが自己の意識を生じさせる出発点であるから、この社会が言語共同体以外の何物でもないことの自覚が概念化以降のヒト社会における我々の最大の現実、最大の自然であるから、社会の一翼を担うという自覚がすなわち数値的真理値以外の倫理値希求を生の意義として我々は知らず知らずの内に持ち込むのである。
 ただ共に真理値希求を常に抱いているところが日常言語も数学言語も相同である、と言い得るのである。真理値希求とは概念の意味化である。意味そのものからもたらされたものであった筈の概念は、今度は回帰ではなく、意味を創造しだすのである。その概念によって意味を創造するのは私たちであるが、私たちはその行為の中で真理値を希求するのである。概念自体に意味はない。ただ我々が概念を通した共同体内の会話、対話において意味を編み出してゆくのだ。その時概念は意味を産出する場となる。我々は意味産出の場に絶えずたちあっている。それが生である。「生活」と「人生」がオーヴァーラップする地点である。「生活」のない「人生」はないが、同時に「人生」のない「生活」もない。
 言語活動は常に人間という種において言語共同体による社会運営という側面によって歴史を刻んできた。そして伝達する意味内容が社会運営性そのものに直結したものこそサヴァイヴァル的なもの(そのすべてではないが、だから政治のコミュニケーションは一時代のサヴァイヴァル的な命運を握っていることも確かである。)であり、伝達において誠心誠意の真意伝達が望まれる。しかし余暇の趣味とか、サヴァイヴァル戦略的な伝達事項とは直接の関係がない会話(そういうものの多い人生こそエンゲル係数的に豊かな人生とされる。)は、サヴァイヴァル性のない付加価値的な文化<都会人のステイタスとかの>、息抜き的(しかしこれはこれで大いに重要なのだが)なものであり、真意伝達と偽装性が程よく同居している。そして言語活動によって刻々変化している紛れもない現実とは、語彙もさることながら、文法的な事項すらも徐々に変化している。(日本語のら抜き言葉はすっかり定着した感もある。そもそも言語とは余計なものを省くことを常としてきているわけだから<フッサールは思惟経済的転移と「論理学研究」で述べているが、これはオッカムの剃刀的な物言いである。数学の演算が最短距離での解を解き明かす努力に似ている。フッサールの経済という語の使用仕方は彼が初めでは恐らくないだろうが、その後先述したレヴィナスによっても似た使い方がされている。フッサールからハイデッガー、レヴィナス、デリダといった系譜からそういった認識を考察することも今後の哲学の課題であろう。>どんなに専門家が俗悪な言い方と断じても、その内それを非文法的と指摘することもなくなってゆくだろう。)
 つまり言語活動の担い手であるところの言語ユーザー、庶民が言い難い言い回しは徐々に整理され、例え最初はそれが非文法的な物言いでも、そう変えたところで大した支障がない限り、単純で言い易い言い回しに変化してゆくのは極自然な成り行きである(まさにオッカムの剃刀である)。学者はだから言語の変化を権威の側の意見として批判すべきではない。どうしてもその変化が何物かへの支障とならない限り、その変化を堕落と捉えてはいけない。変ったあとの方が理があることも、歴史的には多々あるのである。
 ともあれ言語活動における精神文化的側面は、明らかに非サヴァイヴァル的言辞、ミニマルで生活必需的伝達事項以外の剰余価値的事項こそが、真意と偽装の相関性を育み、仮に真意を伝達しなくても罪とはならない(これに対して何か大火事のようなカタストロフィーが生じたとして、その場所を偽って報告し、その相手が公的機関<例えば消防署とかの>か何かの人であり、その鎮火、収束、後処理に関する重要人物であったとしたら、大罪である)。こういった差異が責務的伝達と義務的伝達と、日常会話との間には横たわっている。言語の歴史において正しい物言いや語彙であった筈なのに自然と消去したり、消えるかと思いきやなかなか消滅しないある種の公的場所では大っぴらに言うと顰蹙をすら買う表現や物言い、語彙などが厳然と存在することの矛盾は、実は矛盾ではない。というのも必要な表現というものの中には公的場所では言うことが憚られるものも多く含まれる。そういったネガティヴな概念とは論理構成上必要不可欠であり、寧ろ柔らかい、差しさわりのない表現や語彙こそが、社会秩序維持のためにその時代、その時代において都合よく時の為政者たちが体よく「差別語」とか「タブー語」として葬り去るために俄仕込みで捏造したご都合主義の偽装言語にほかならないからである。勿論そもそもがある差別意識に根差して使用されだした概念(そういうものは本論では概念とは呼ばないのであるが)を廃止し、然るべき名称で呼ぶようにしよう、ということは理解出来るが、公的場所での表現自粛くらいのものが、果てはそういう概念そのものの廃止となると、ことはそう野放しにもしていられない。ここでは具体的な例証を差し控え、今後の研究課題とすることで、取り敢えずは今はそういったネガティヴな概念自体も思考回路においては厳然と存在し(ということは表現上の可能条件として、思考上の仮定法として存在しているということなわけだが)それがたとえ否定すべき、行為としてはあるまじきものであってさえも、良識や常識、一般論とかの一切を成立させる為に敢えて必要不可欠な対概念であるとを銘記しておくこととしよう。我々はそういう想像するだにおぞましき概念をも同居させることで、あらゆる肯定的な概念や創造をすら行ってきているのである(欧米では悪魔を言い表すdevilとかもその部類に入るであろうし、インシスト・タブーなども多くの民族ではそうである)。
 このようなある創造的、肯定的な行為において、その選択には、それとは裏腹の否定的な、破壊的な行為の選択が可能性としてあり、ただ我々は常にそこに陥ることがないように心掛けているだけで、実際はそういう最悪のケースもあり得るということが選択を最良ものとしてきているわけである。さて我々は実際そういう最悪のパターンを避けながらも、最悪ではなく、寧ろ多少まずいかどうかが全てを決するということもよく知っている。先程日常会話や他者との対話が非常時におけるサインほどの重大性がなく、文化的コードであることを述べたが、このコードというものが実は曲者である。時代的なモードとか、ある文化規範的なコードは明らかに我々の生活の根底を揺るがす力がある。サヴァイヴァルな責務的なサインではないからこそ、ついそう気に留めることなく先へ進み勝ちな我々をいつしか密やかに洗脳するような潜在力を秘めたこれらの非生産的でいて自意識を醸成さえする文化観念的常套性は、そこから抜け出すのに非常の努力を要する場合さえある。ある職業集団や、ある地域集団の中にもこういった性格はあるが、言語自体に実は密やかに潜り込んでいることも多い。

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