Tuesday, October 13, 2009

D言語、行為、選択/7、躊躇、逡巡、忍耐

 しかしこれだけは言えよう。行為の選択はその行為を指し示す語彙の選択である、と。ある行為を想定することはその行為を言い表す語彙の想定であり、そういった語彙で表現し得ない行為も存在するであろうけど、にもかかわらずそれを何とか語彙的に置き換えて思考するのが我々である。ある行為を選択することがほんの一瞬前の瞬間における行為に対する未来への想像、それを現実に置き換えることが意志であり、想像は意志ではない。想定(あるいは想念)にしか過ぎない。行為の想定には言語的認識が無意識に関っており、過去の自己の行為に対する映像記憶とも無縁ではない。我々は常に次になすべき行為の想定において言語的選択を行っている。あるいはある事項を、例えば今ここで話題となっている行為について言えば、行為とするか、行動とするか、動作とするか、所作とするか、仕種とするか、というような現実に対応し得る語彙可能性に対する検索行為にも常に直面している。コミュニケーションにおいては、他者説得欲求があるから、この語彙で伝えたらうまく伝わるだろうかという不安も生じるが(それが高じるとノイローゼとなったり、ひどい場合は失語症となったりするかも知れない。)、実際一人でパソコンの画面に向かう時、つけっ放しになっているテレビの画面を消す時、トイレに入る前にトイレの電気のスイッチをつける時我々は無意識に行為を選択しているが、その際語彙を選択する暇はないにしても、語彙によって支えられた行為のイメージを、過去記憶的聴覚映像をも一部伴って引き出している。それは言語の能力でもあるのである。行為が行為として認識されるためには一度言語的に対応されたイメージ像を通過する必要があり、我々はそのプロセスから初めて行為の持つ身体的メカニズムやら、目的性やら、自己にとっての意味(トイレに行くのも意味がある。重大な決断における意義だけが意味ではない。)を無意識のうちに把握し、コミュニケーション上で、他者へ自己の行為に対する説明をする際に要求される概念を引き出す行為にも、そのプロセスから掴み取った行為選択に関する選択規範の如き判断力、それは条件反射的なものと学習的なものとの共存であるとも思われるが、そういう力が発揮されて発話へとゴーサインが出されているわけである(これについては後述する)。
 しかし何度も言うようにそのゴーサインを踏みとどまらせるものも大いにあり得るわけであり、それを説明しようとすると、どうしてもコミュニケーション上の問題が浮上する。語彙選択が適切でないと意志伝達に支障をきたすことになるし、かつそれを修復することは身体的にも精神的にも多大のロスとなる。そのロスを避けるべく我々は躊躇、逡巡といった抑制系の身体精神現象的メカニズムを発現させるのである。語彙選択の不適切性は明らかに社会的信用度の問題へと波及する。だがその語彙選択にも多様な基準があり、どのレヴェルでの使用であるか、どういった考えの集団なり共同体での使用であるかといった社会学的認識が必要となる。それに対する警戒心がコミュニケーション自体を踏みとどまらせることは大いに考えられるし、また語彙選択の修復可能性が容易に果たせ得るような社会的信用度が相互に構築されている環境(親しいもの同士)での発言なのか、それとも修復不可能な四面楚歌の状態(自分の揚げ足を取ろうと虎視眈々とした敵ばかりが周りにいる)なのか、その両極の間でのレヴェルの問題も絡んでくる。敵だと思っていたら、思わぬ助け舟を出してくれるような友好的な人間であったり、その逆に味方と信じて疑わない相手から思わぬ攻撃を受けたり、思わぬ罠に嵌ってしまうことも大いにあり得る。そういうケースをも充分に考慮に入れて未然に対処し得るように心がけていることが既に抑制系のメカニズムであり、先験的に我々はそれを有しているし、その場その場のケースに応じて我々はそれを発現するように準備しているのである。それは概念と意味の齟齬に対する不安が社会的信用に直結し得る部分での防衛策である。それは親愛度のない、あるいはまだよく知らない、「真の他者」への接し方の問題である(ビジネス・シーンはそういう面が強いことも多い)。
 躊躇はだから最低限の防衛策として無意識の内に採用される生存戦略であり、沈黙はそれが「それは言えません。」という表明(そう言っても、ただ沈黙していても、表情からそういう感情が読み取れる場合もある。)なら立場の表明だが、実際真意を包み隠しおおせたなら、感情を表へは出さない、立派なる偽装である。本論で使用される「偽装」は悪意のあるものもそうでないものも、要するに真意性を少しでも表へ出さない配慮であれば一律にそう呼ぶこととする(次章にて詳しく論じる)躊躇は選択の際に取り払われる相談役として検閲機能として常に選択執行者に寄り添って業務に勤しんでいる。選択執行者はそれがどのような形であれ、大脳による随意運動としての命令(意志)である。忍耐もまた行為という形で顕現される選択執行者の傍に寄り添う同僚である。その同僚はまさに理性的判断の執行者であり、躊躇がもっとサヴァイヴァル的な実行者であるのに対し、社会的責務や共同体内成員秩序の維持を監視する役目である。これは非常に似ていて、少しその役割が異なっている。なぜならサヴァイヴァル的な躊躇は周囲からの攻撃が余りにもひどいと、途端に防衛軍となり強力なる防衛力と反撃力をもたらす場合もあるのにもかかわらず、忍耐はあくまでも平和主義者であるからだ。だから躊躇は感情機能に対する司法とか治安管理者に近く、忍耐は人権団体とか宗教的機能に近い。だが忍耐もまた無意識の内に十字軍精神を発揮して、あるいは中世の日本の僧侶のように軍隊機能も発揮し、報道型暴力をも進んで参画するような決断を集団においてなす。
 しかし忍耐と躊躇は協力しあうことも多く、何か外敵からプライヴァシーを侵害されそうになり、それでいて一見紳士的な振る舞いで質問とかしてくる場合、即座に腹を立てた態度で接すると、「こっちは紳士的に接しているのに。」と非難されかねないから、こういうまるで不躾なマスコミのような攻勢に対しては、忍耐して激怒を表面に表わさないようにして、かつ躊躇を持って真意を漏らす、それが多少偽装めいていてもそうやって切り抜ける必要がある。真意をそう簡単には表明できないのだということを、最小限度の自己防衛の権利を主張し逆に周囲を不躾な質問者へ非難が集中するように持って行くのだ。躊躇を持って真意を漏らすことは、真意でもあり、偽装でもあるのだ(次章で詳しく論じる)。
 構造言語学は意味や統辞に拘り過ぎ、コミュニケーションの一部であり、かつコミュニケーションを支えもする感情を行為ばかりか意味をも司っていることを見損ない、意味の概念に対する、特殊の一般に対する立場を軽視していた(構造言語学は意味を概念とする視点に釘付けになっている)、とは言えよう。しかも我々自身は我々自身だけが「かくある」から「かくあらねばならぬ」を導くことが出来ない存在と思って生きてき過ぎたのである。実際精子と卵子の和合性は動物の生存戦略上の合理的な本能と捉え、我々人間だけは生理学的メカニズムによってだけで配偶者を選択しているのではない、人間性、ヒューマニティー、理性によってである、だから時として親族内でも恋愛的感情を持つのは人間固有のものであると、古来よりそれこそギリシャのオイディプスをはじめ実に多く近親相姦をテーマに文学や演劇を創造してきたが、実際昨今では動物のかなりの種においても近親交配があることが判明してきている。すると「かくある」と「かくあらねばならぬ」の齟齬による不安は我々だけのものでないかも知れない、という現実が浮上してくる。だから我々は動物も嘘をつき偽装するのではないか、ということを想定しながら進まねばならないこととなる。

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